2025-04-13 主があなたを助けるから

2025年 4月 13日 受難週礼拝 聖書:イザヤ50:4-9

 とても有名で、その人のしたことは誰でも知っているけれど、その人の心に何があったかは知られていない、ということはよくあります。イエス様の場合もそうです。

今日から受難週になります。イエス様が十字架に向かってまっすぐ目を向け、残された時間を惜しむように大切に過ごされました。イエス様はロバの子の背中に乗ってエルサレ入城し、神殿で商売をしている人々の追い出し、弟子の一人に裏切られ、が弟子たちの足を洗う。最後の晩餐を一緒に過ごし、ゲッセマネの園での血の汗を流して祈り、逮捕され無理筋な裁判による鞭で打たれ、十字架を背負い、処刑され埋葬される。こういった印象に残る重要な出来事がわずか一週間の間に起こりました。どの福音書も、イエス様が救い主としての使命のために果たした重要な事柄を淡々と描いていますが、その胸の内にあったことについてはあまり書いていません。

今日開いているイザヤの預言は、イエス様がどのような思いで十字架に向かっていったかを推し量ることのできる箇所です。

1.弟子としての奉仕

先週もイザヤ書を開きました。預言者イザヤの最も重要な預言は、滅びに向かうイスラエルの民にやがて来られる救い主によって神の民だけでなく世界全体に救いがもたらされるということです。

イザヤ書の中に「主のしもべ」として描かれる人物が、後に来られるイエス様を指し示しています。

そして、今日の箇所で「私」と言っているのは主のしもべであることが10節の勧めの言葉から分かります。

その主のしもべ、すなわちイザヤの時代より後においでになる主イエス・キリストが使わされたとき、こう語るだろう、というかたちでこの預言は記されています。

1~3節で神様が、イスラエルの民に待ち受ける運命を離縁され追い出された母や奴隷として売り飛ばされた者に喩え、まるで心を開かず頑なな態度がどんな結果を招くか警告した後で、主のしもべが4節で語り始めます。

4節で主のしもべは、弟子の舌と耳をもって神に教えられ、疲れたものを励ますことばを語るようにされ、また朝ごとに神のことばを聞くようにされると言います。

キリストは、神の弟子として人々のもとに使わされ、日々神のことばに聞きながら、疲れた者を励ます務めをするだろうという預言なのです。

約束のキリストが弟子である、というのは少し奇妙な感じがするかもしれませんが、そもそもイザヤ書の中では救い主は「しもべ」つまり仕える者として描かれています。本来主のしもべとして仕えるはずだったイスラエルがあまりに頑なだったため、替わりに本物のしもべとしてキリストが仕える者になってくださるのです。

その務めは、弱い者、疲れた者を慰め励ますものであり、救い主ご自身が神のことばを日毎に聞きながらその務めを果たしてくださるのです。そして救い主は、弟子が師匠から学ぶ姿勢と忠実に従う従順さをもって、ご自分の務めを果たされるのです。

私たちはそのことを福音書に描かれたイエス様の姿に見ることができます。

有名なイエス様のことばを思い出します。マタイの福音書11:28「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

もちろんイエス様は言葉だけでなく、実際におおくの人々を助け、ひっきりなしにイエス様のいやし、教えを求める人たちが訪ねて来るので休む時間もなかなか取れませんでした。それでも、イエス様は度々祈るために一人になろうとされたことが記されています。たとえば同じマタイの14:22~23では、有名な5千人にパンを与える奇跡の後で、群衆を解散させ、弟子たちに休息を与えるために舟に乗り込ませ、ご自分は祈るために一人で山に登ったことが記されています。

イエス様は「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」。だからイエス様は、なすべきことについて父なる神様に聞き、そのための力と励ましを聖霊から受け取るために祈らなければなりませんでした。それはまたイエス様の弟子たちに「このようにありなさい」という模範でもあります。

2.侮辱と苦しみ

主のしもべとしてのキリストの務めには、人々を慰め励ますだけでは済まされない役割が含まれていました。

それが5~6節に表れています。キリストの救い主としての務めには侮辱を受け、苦しみを受けることが欠かせないこととして含まれているのです。

5節「神である主は私の耳を開いてくださった」。この言葉は、神の言葉に耳を傾けず背を向けたイスラエルと対比して、主のしもべが父なる神様のみこころに対して従順であろうとする心を表していると思われます。それゆえ、「私は逆らわず、うしろに退きもせず」と、主の御心に対して逆らうことも、ためらって後ずさりすることもなく、受け入れ、前に進みました。そして何がおこったか。

6節にあるとおり「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」

打つ者に背中を任せとは、むち打ちの場面を連想させます。またひげを抜くという表現は、中近東の世界では相手に屈辱を与えることを表しています。

キリストは侮辱され、唾をかけられ、鞭で打たれひげを抜かれるような屈辱を受けると分かっていても、その事態に逆らわず、ためらって後ずさることもなく、黙って受け止めるというのです。

勘の良い皆さんは、こうした預言のことばを読めば、すぐにイエス様が裁判に掛けられ、頭を叩かれたり唾をかけられたりしたあげく、馬鹿にされ、死にそうになるほどに何度も鞭で打たれ、通じかを背負わされたことを指し示していることに気付くことでしょう。

しかし、私たちが注目しなければならないのは、事実としてイエス様が十字架の苦難と侮辱を受け入れたということ以上に、なぜそうなさったのか、という点です。

5節の預言から思い出せることはただ一つ、ゲッセマネの園での祈りの場面です。ルカの福音書22:39~46を開いてみましょう。イエス様がユダの裏切りによって祭司長たち、指導者に捉えられる直前のことです。最後の晩餐を終えたイエス様は弟子たちを連れていつものようにオリーブ山に出かけ、祈るためにいつもの場所に向かいました。弟子たちに少し離れた所で祈っているようにと告げたあと、イエス様は汗が血の雫のようにしたたるほどの集中力と苦しみの中で祈ります。42節を見れば、イエス様にとって、目の前に迫っている苦難や辱めが簡単に受け入れられるものではなかったことが明らかです。しかし、祈り終えた後、47節以下のやり取りを見ればもうそこに迷いも恐れもないことが分かります。つまり、イエス様はゲッセマネの祈りを通して、逆らわず、うしろに退くこともせず、父なる神様のみこころに完全に従うことを決意なさったのです。

キリストは私たちを救うためにおいでになり、預言者たちはこの方が王として来られると預言したのですが、しかしその務めは力で支配したり、武力で敵を追い散らす王ではなく、慰めを与え、励ますために語りかけることであり、苦しみと侮辱を受けることを通してもたらされる救いであるという、驚くような内容でした。弟子たちがそのことを理解できず、とめようとしたのも分かりますが、何よりイエス様ご自身がその務めを果たすために真剣に祈らねばならなかったことをよく考えたいと思います。

3.主が助けてくださるから

しかしキリストが苦難を受け入れるのは、それが父なる神様のご計画であったから、キリストとしての使命の重要な一部だったから、というだけではありません。

7節と9節では「神である主は私を助けてくださる」と繰り返され、苦難を受け入れた主のしもべが、神による助けを確信し、希望を持っていることがはっきり書かれています。

この確信があるために、たとえ侮辱されることがあっても、「私は顔を火打石のようにして 自分が恥を見ないことを知っている」と、敵対する人たちの仕打ちは、本当の恥とはならないと言い切ります。「顔を火打石のようにして」というのは馴染みのない言い回しですが、強い確信と意志の強さを喩えたものです。

ゲッセマネの園での祈りの後から十字架に至るまでのイエス様の様子で最も印象的な姿は、ほとんど何も語らないということです。同じイザヤ書の有名な預言に「苦難のしもべ」と呼ばれている箇所があります。53章に描かれている苦難のしもべの姿はまさに人々から蔑まれ、捨てられ、裏切られ、辱めを受け、十字架の苦しみをお受けになる姿と重なりますが、7節の「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」という言葉がピッタリです。

イエス様がどのようなお考えで、人々の嘲りにも反応せず、指導者たちによる濡れ衣裁判でも反論しなかったのかは福音書には記されていません。けれども、今日の箇所を見る時、その沈黙には揺るがない信仰と強い意志の表れであり、父なる神様が十字架の苦しみと死の先によみがえりと、多くの人々の救いの喜びが待ち受けていることを確信していたのです。

ヨハネ17:1を開いて見ましょう。これは最後の晩餐を終えて、ゲッセマネの園に向かう直前のイエス様のことばです。イエス様はこれから起こること、お受けになる苦しみを「栄光を現す」ことだと理解していました。当時、十字架というのはローマ人から見れば皇帝や国を裏切るような国賊に対する処刑であり、ユダヤ人から見れば神に呪われた者という見方をするのが当たり前でしたが、イエス様は十字架を恥とは思わず、むしろ「栄光に向かって行くのだ」とおっしゃっているのです。

イエス様はやせ我慢して苦しみを平気な顔をしていたのではないし、何が起こっているか理解出来ずに心が壊れたわけでもなく、ご自分の使命を静かな決意とともに果たし、またその先にある父なる神による助け、すなわち死者の中からよみがえらせてくださるという確信、そしてこの苦しみが人々に罪の赦しと救いをもたらすという希望のゆえに、差し出された苦い杯を飲み干したのです。

だから8節では元プロレスラーのセリフ「出て来いや」みたいな威勢の良い言葉と比べるのもどうかと思いますが、こんな言葉が出てきます。「だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るが良い」。

イエス様は誰が蔑み、侮辱し、苦しめようとも、それはイエス様の恥にも罰にもならないことを知っていたのです。もちろん、殴られることも、むちで打たれることも、十字架に磔にされることも肉体的にも精神的にも激しい痛みと苦しみがあったに違いありませんが、沈黙の奥にある魂に揺らぎはなかったのです。

適用:弟子としての歩み

今日は、受難週ということで、キリストの受難についての預言を、福音書の記事と照らし合わせながら見てきました。

イエス様が私たちの救いのために仕える者、しもべとしておいでになったということは良く知られていますが、従順な弟子の心で父なる神様のことばに聞き、与えられた使命を果たされたイエス様の姿には、はっとさせられます。

私たちも人生において神様から託されたそれぞれの務めがあり、その務めを果たしていくことには、やりがいも喜びもあるに違いないのですが、みことばと祈りによって導かれ、励まされ、力を与えられながらでなければ、いつしか力尽きたり、目的を見失ったり、喜びも失われてしまいかねません。

しかも、私たちの人生には困難がつきものです。もちろん、どんな苦難でも我慢すべきだということには注意が必要です。体や心の痛みを我慢しすぎて、取り返しのつかないことになる前に、医者に診てもらったり、痛み止めをもらったり、話しを聞いてもらったり、何かしら痛みを和らげたほうが良いです。また、虐待や虐めなどの暴力は逃げたり助けを求める必要があります。本人の意志に反してまだ幼い子どもが家族の世話を押しつけられたりするような状況も良くありません。そう単純な話しではないことも分かりますが、人には背負えるものに限度があることは確かです。

それでも、私たちの人生には困難がつきもので、逃れられないことがあります。まして、イザヤが預言し、イエス様が受け止めたような苦しみ、つまり、自分の使命を果たすために避けて通れない苦しみや痛みはどうしたって避けられませんし、避けてしまったら果たすべき使命を果たすことができません。他人の山に登る必要はありませんが、自分が登るべき山なら、足の痛みや急な坂の辛さを避けて山頂に辿り着くことはないのです。

しかし主を信頼して歩もうとする私たちを、神なる主は助けてくださいます。8節に「私を義とする方が近くにいてくださる」とありますが、神様がいつだって私たちの味方でいてくださるということです。

パウロはピリピ4:13で「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」と書きましたが、その意味するところは信仰さえあればなんでもできるということではなく、主と共に歩もうとする者、主から委ねられた務めを果たそうとする者には、主が力を与えてくださるので、どんな苦難も受け取る覚悟があることを語っています。

イエス様になって歩み、委ねられた使命を全うした使徒パウロやペテロ、ヨハネが牢に入れられたり鞭打たれたり、殉教の死を遂げたように、必ず私たちに過酷な運命がまっているということではないし、そもそも与えられている務めの内容も責任の大きさも違います。それでも、この仕事を通してやるべきことがある、この奉仕を通して果たすべき務めがある、夫や妻として、親としてなすべきことが託されている、この地域や世界の一員として自分にはこういう使命がある、と確信するなら、きっとその先には、喜びややりがいだけでなく、私たちを邪魔しようとする悪魔の攻撃があったり、面白く思わない誰かの攻撃があるでしょう。また単純に仕事の中身をやり遂げる苦労や技術を身につけるために何度も繰り返し練習したり失敗を繰り返したりするような辛い時期もあるでしょう。

しかし、主のしもべであるキリストが「神である主は私を助けてくださる」と告白したように、イエス様はご自分の経験も踏まえて、私たちに「主があなたを助けるから」と言ってくださいます。この約束を信じて、自分のつとめ、そして自分の人生を全うしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主イエス様が十字架に向かって行くためにエルサレムに入られたことを覚える日曜の朝に、預言者のことばを通して、イエス様がどのような思いでおられたのかを思い巡らす時を与えてくださり、ありがとうございます。神であり王である方なのに、しもべのように、弟子のように歩んでくださり、へりくだり、従順になり、差し出された苦い杯を受け取ってくださってありがとうございます。

イエス様を信じ、その後を歩む者とされた私たちも、神なる主が私を助けてくださると確信を持って歩んでいけますように。特に困難の時、苦しみの時に、祈りとみことばによって励まされ、主の助けを、主の救いを信じ、希望をもって歩めますように。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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