2024-04-27 生ける望み

2025年 4月 27日 礼拝 聖書:ペテロ第一1:3-9

 先週はイースターでしたが、イエス様の復活はどのようにして私たちの希望となるのでしょうか。

先日、知り合いから昨年9月に行われた星野富弘さんのメモリアルコンサートの録画が限定公開されるという知らせをいただき、見させてもらいました。富弘さんは体育教師だった時代に事故で首から下の自由を失い、筆を口でくわえて草花と詩を描き続け、去年の4月28日に召されるまで多くの人々を励まし、慰めて来ました。

もちろん事故直後は絶望し、何のために生きなければならないのか分からない苦しみがあったそうです。そんな富弘さんが、あるとき「患難が希望に至る」という聖書の言葉に触れ、今の苦しみは希望につながっていると信じたいと思うようになました。最初は線一本描くのも難しかったのに、地道に練習を重ねて、素晴らしい絵と詩を書けるようにまでになりました。よみがえられたイエス様を知るとき、苦難の中での希望が、これほどまでに本当に人を活かす力になるのだと驚かされます。私たちもそうなれるでしょうか。

1.やがて受けるもの

第一に、イエス様の復活は私たちが将来「相続財産」を受け取ることができるという希望をもたらしてくれました。

4節にある「資産を受け継ぐようにしてくださいました」つまり相続財産がある、というのは、将来私たちに受け取ることが約束されている豊かな報いがあることの譬えです。

相続財産というのは約束されているものであって、実際に受け取るのは将来のことです。そして相続財産を受け取れるということは、子であることのしるしであり特権です。

聖書によれば私たちに備えられたこの資産はやがて朽ちていったり失われたりもするこの世の財産とは違って、「朽ちることも、消えて行くこともない」という性質をもっています。この世の銀行はつぶれることもありますが、この資産は「天に蓄えられている」という確実性を示しています。いまどき「永久保証」を語ったら誇大広告になりますが、神様が私たちのために備えてくださるものは文字通り永久保証されているのです。

しかしペテロは、私たちが将来受け取ることになる資産が何なのかについては語っていません。人間世界なら、土地、建物、預金、証券、貴金属などが相続財産になります。まあ、あまり関係ないという人もいるでしょうが、ついでに言うと借金も相続財産になるので気をつけた方がいいそうです。

では私たちが将来受け取る資産とはいったい何なのでしょうか。

イエス様は弟子たちに「あなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ14:2)と言われました。また幾つかの譬え話の中で、イエス様が帰って来られた時に与えられる報いについて語っておられます。それは「良くやった」という賞賛の言葉であったり、「もっと大きなものを任せよう」という信頼や権限を与えることであったり、あるいは結婚式の祝いの席のように描かれます。必ずしも具体的なものや財産とは語られていません。

しかしまたパウロがローマ世界にいるクリスチャンに書いた手紙の中では、冠や宝石など、勇敢な兵士や素晴らしいことを成し遂げた人たちに贈られた物を譬えとして用いながら、主からの栄誉と忠実さに対する報いが贈られることを教えています。

主が私たちのために用意してくださるのは、この世では得られなかった安らぎと喜びであり、この世で味わった全ての労苦、そして神様に対して示して来た忠実さに対する、最大の賛辞とともに贈られる報いなのだということが分かってきます。

人生という旅路を終え、イエス様が私たちを迎えてくださるとき、私たちは全ての荷物を下ろし、靴を投げ出して休息し、そしてイエス様が用意してくださるお祝いの席に迎えられます。最後の晩餐のときに、パンとぶどう酒を弟子たちと分かち合ったときに、これからは「父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできたものを飲むことは決してありません」と言われた言葉を思い出し、この時をずっと待っていたと言いながら一緒に杯をかかげ、待ち望んだ時が来たと喜びを分かち合うのです。そして、一人ひとりに「よくやったね」「よくがんばったね」「よく忍耐したね」「よくやり遂げたね」「辛かったよな」「わたしを信じてくれてありがとう」とねぎらいと賞賛の言葉をかけ、用意しとっておいてくださった報いを渡してくださるのです。

2.苦難の中で得るもの

第二に、イエス様の復活は、苦難の中にあっても得られるものがあることを保証してくれました。それもまた生ける望みです。

使徒ペテロはイエス様の復活が生ける望みを与えてくれたが、それは天に蓄えられている相続財産の約束であることを教えました。しかしそれを受け取るはずの私たちは、それを受け取るまでの間、この人生の中で苦難に合い、自分の弱さを思い知らされること度々です。

ですから5節にあるように、神様は信じる私たちを御力によって守ってくださり、将来受け取れるものを確かに受け取れるようにしてくださるのです。

それで私たちの人生に何が起こってくるのか。6~8節には、試練の中でも喜び踊っているのだと書かれています。実際の私たちが経験することと、ちょっと乖離があるような気もするのですが、まずは読んで見ましょう。

6節の「喜んでいます」と訳されている言葉は、当時の世界ではあまり使われない言葉でした。日本語でも「よろこび」を表す漢字が3~4種類あって、意味合いに応じて使い分けるように、ギリシャ語でも喜びの内容によって言葉を使い分けました。欲しいものが手に入って喜んだとか、誰かに褒められて喜んだ、おいしい食事を楽しんだというような、日常生活の中での喜びにはもっと違った単語を使うのです。しかし新約聖書でこの言葉が用いられる時は、神にある喜びや神がなさったことにたいする喜びを意味しています。たとえば、マリアが受胎告知を受けた時に「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます」と、賛美する、称えるという意味で用いられています。また使徒の働きに登場する、ピリピの看守がパウロを通してイエス様を信じた時、「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」とあるように、神の救い、恵みへの感謝の喜びです。

こうした喜びは、嬉しい楽しいとはまた違った、むしろ神の愛や恵みに触れ、神をたたえるようなものです。

ではなぜ、そうした喜びが私たちの日々の喜びとなるのでしょうか。8節後半にも描かれているとおし、試練はそれ自体決して喜ばしいものではなく、むしろ悲しいものであり、痛みを伴うものです。しかし、神の約束と御力の守りの中にある私たちにとって試練は私たちを破滅させるものではなく、鍛えるものです。

クリスチャンであろうとなかろうと、人生には困難がつきものです。何か信じるもの、目指すものがある人にとって、そうした困難は試練となります。信じるものを信じ続けられるか、困難に負けずに目指すものを目指し続けられるか試されるからです。そんな試練が炎のように燃えさかるかもしれません。しかしそれはゴミを燃やす焼却炉の炎ではなく、金から不純物を取り除き、精錬するための炎です。私という存在が失われるのではなく、私がより神様に造られた自分らしくなっていくための試練です。

これまで出会った困難を思い起こしてみてください。それらの困難の中で試されたものは何でしたか。神への信頼でしょうか。愛し合い仕え合うようにと務めを託された夫婦や家族、あるいは社会に対する務めへの忠実さ誠実さでしょうか。それらの経験を通して失敗があったかもしれませんが、得たものがあったはずです。

3.今ここで受けているもの

第三に、イエス様の復活によって、今ここで受けている祝福もまた私たちの生ける望みとなっています。

8節でペテロは各地のクリスチャンたちに対して「あなたがはイエス・キリストを見たことはないけれども」と言っています。確かに、ペテロがこの手紙を書いた時代、イエス様を直接見たことのあるクリスチャンはごくごく限られていました。もちろん、聖書の舞台となったエルサレムやユダヤ、ガリラヤといった地名や町の名前は聞いたことがあっても行ったことがないという人が殆どでした。

しかし、イエス様が私たちの罪の贖いのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主で、この方を信じる者は誰でも罪赦され神の子どもとされるという福音を聞いて信じた人々は、その見たことのないイエス様を愛し、喜んでいるのです。この愛、喜び自体が、私たちにとって生ける望みです。それは、私を愛してくださる方がいるのを知っているということであり、私のためにいのちを犠牲にするほど大切に思い、また新しく生きる者として造りかえようと諦めることなく、願い続け、助け続けてくださる方がいるのを知っているということです。

この世界でどれほどの人が、絶対的に信頼できる相手、私をあきらめることなく愛してくださる方がいると信じ、安心して、勇気を持って生きることができる人がいるでしょう。ペテロの時代のクリスチャンたちのように、迫害にさらされて、世の中の暴力に孤独に向き合わなければならない状況で、困難の中で自分の信仰や生き方を試されて、あるいはイエス様を信じる者としてより良く生きたいと願いながらも失敗し、弱さに負けてしまうことがあっても、イエス様がいつも私の味方でいてくださると信頼できることはどれほどの力になるでしょうか。

レナード・コーエンというカナダのシンガーソングライターが書いた「ハレルヤ」という歌があります。心に染みるメロディと難解な歌詞ですが、とても人気のある曲です。

その歌の中でダビデが自分の都合で権力を利用したり、バテシェバとの姦淫の罪を犯してしまう場面が描かれています。かつて深い悩みと混乱の中にいたサウル王のために「ハレルヤ」と歌っていたダビデが、サウル王と同じ過ちを犯して、なおも「ハレルヤ」と歌っている。人間の弱さと、それでもなお赦され、生きて、歌える希望があることを歌っています。確かに詩篇を見るとき、ダビデは他の人たちのためにハレルヤの歌を書いていますが、自分が罪を犯した時にも、神の前に悔い改めつつ、恵み深くいてくださる神様にハレルヤと歌を書いているのが分かります。コーエン自身は宗教のために書いたのではないと言っているそうですが、それでも、私たちの希望について、特に、今、ここで受け取ることのできるものとしての希望について深く考えさせる歌だなあと思います。

その歌はともかく、そういえば私自身も、もうかなり前のことですが、行き詰まり、自信喪失、自己嫌悪、これからどうしていいか分からないというとき、別の「ハレルヤ」という賛美を聞いて、涙がポロポロ落ちてきて、きっと大丈夫だと励まされたことがありました。イエス様が私を愛していてくださり、共におられるということがどれほど励ましとなり、力となるか、そして道が示されるかを経験した出来事でした。

適用:私たちの希望

今日は、イースターの翌週ということで、イエス様の復活がどのように私たちの希望となるのか、私たちに与えられている生ける望みとは何なのかをペテロの手紙から学んできました。まとめてみましょう。

生ける望みは、第一に将来、イエス様がもう一度この世界においでになるとき、私たちが天の御国で受け取ることになる相続財産です。この世で味わった全ての労苦、そして神様に対して示して来た忠実さに対する、最大の賛辞とともに贈られる報いとして天に蓄えられているものです。私たちはその報いをイエス様と多くの兄弟姉妹たちと共に祝うことになります。

生ける望みは、第二に、試練の中にあっても、良きものが得られる希望です。私たちの信仰や忠実さ、誠実さを試すような困難は必ず起こりますが、神様はそれらを通して私たちをますます確かなもの、聖められたものにしてくださいます。私たちは神様の永遠の恵みと御力に守られているので、試練の炎は焼却炉ではなく金を精錬するための炎となります。

そして生ける望みは、第三に、今このとき受け取る希望です。目で見ることのできないイエス様ですが、私たちはこの方の愛を知り、私たちが弱い時も、悩むときも味方でいてくださり、慰め、諦めることなく私たちを力づけてくださいます。ダビデのようにとんでもない失敗を犯すようなことがあっても、なおもハレルヤと歌わせてくださいます。

生ける望みは、生きている希望であり、私たちを活かす希望であり、やがて私たちのいのちを完全なものにする希望です。この希望は、イエス様が十字架の上で私たちの身代わりとなって死んで、三日目によみがえられたことで私たちに差し出されている希望です。

信仰によってイエス様を信じる時、これらの希望は私たちの力になり、イエス様をよみがえらせた神の御力が私たちのうちで働き始め、まさに生ける望みとなります。

この生ける望みがもたらす喜びは、「喜びに踊っています」とペテロが書いているように、実際に踊るかどうかは別として、踊ってもいいくらいの大きな感謝と喜びをもたらすもです。しかし日々の忙しさや、試練を人生の困難として見ていなかったり、自己嫌悪に捕らわれてイエス様の眼差しを忘れたりすると、生ける望みがもたらす喜びも感謝もしぼんでしまいます。

ペテロが手紙を書き送った各地のクリスチャンたちはどうだったのでしょう。喜びに踊っていたのでしょうか。このような手紙が書かれたのですから、迫害や困難の中で希望を見失ったり、喜びを忘れることがあったのでしょう。だから手紙の中で心を引き締めなさいとか、互いに愛し愛なさい、生まれたばかりの乳飲み子のようにみことばを慕い求めなさい、自分がどのような者として召されたのか思い出しなさい、妻を愛し、夫を敬いなさい、キリストを主としあなたのうちにある希望について説明を求める人にお話できるよう用意していなさいと励ましているのです。決して彼らは完全ではないし、成功者でもなく、私たちと同じように労苦しながら何とか信仰を全うしようと、しかし時にうつむいてしまう者でした。だから、復活のイエス様によって与えられた生ける望みが何であるか、そしてその感謝と喜びを思い起こす必要がありました。私たちも同じです。イエス様によって与えられた希望を私たちの心に留め、思い起こしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

十字架の死からよみがえられたイエス様によって、私たちに希望が与えられました。イエス様を信じた私たちは、イエス様と共に死んだだけでなく、イエス様とともに生きる者とされたと聖書は語ります。私たちの生涯を通して、イエス様の救いが私たちを支え、神様の御力が私たちを守ってくださいます。いつでも愛され、味方になってくださるイエス様がおられることを感謝し、必ず訪れる困難を通しても私たちに良きものをもたらし、やがて主がおいでになるとき、喜びとともに主からの称賛と報いを受け取り、御国で祝うことができることを心から感謝します。

どうか、私たちがこの希望を確かな望みとして持っていられるように。またこの希望について知りたいという人に説明できますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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