2025年 7月 6日 礼拝 聖書:エステル記4:12-17
私たちは誰もがユニークな存在です。日本の社会でユニークというと、変わっているとか、皆と違うというマイナスなイメージで使われることがしばしばあります。しかし、聖書の視点から人間を見ると、私たちは、神のかたちに似た者として造られた人間としての共通点を持ちながらも、一人ひとりは特別な存在としてこの世に生を受けました。
戦前から戦後への社会の激変を経験した人もいくらかおられますが、ほとんどが、戦後の民主主義、自由経済という価値観の中で生き、日本という世界でも珍しい文化の中で成長して来ました。しかし、私たちを形作ってきたものは皆独特です。生まれた家、親、受けた教育、経験して来たことはそれぞれ実に多様です。
そして一人ひとりがそうした異なった人生を送り、それぞれ独自のものを身につけて来たのは、神様が、それぞれの人に、その人なりに託したい務めがあるからです。今日はエステルを通して、自分なりの務め、ということについて学んでいきましょう。
1.エステルの物語
エステル記の主人公は、エステルという女性になります。私たちの人生にそれぞれの物語があるように、エステルの人生にも物語があります。有名な話しなのでご存じの方もおられるでしょう。
2:5からモルデカイという人物のことが簡単に書かれています。モルデカイはエステルの養父です。モルデカイの祖父は捕囚の時代の人でした。モルデカイの祖父はユダ王国がバビロン帝国によって攻撃され、ダ王国の最後から二番目の王、エホヤキン王が捕囚としてバビロンに連れて行かれるときに、一緒に捕囚となり最終的にスサという町に来たようです。
しばらくして、バビロンが支配していた地域はペルシャという新しい帝国が支配するようになりました。1:1には、クセルクセス王が統治した世界がどれほど広かったかが記されてれています。
そんな時代に生きたモルデカイはハサダという娘を育てていました。ハサダはヘブル語の名前でペルシャ名はエステルといいます。彼女はモルデカイの従姉妹にあたりますが、幼くして両親を亡くしていたため、モルデカイが引き取って娘として養育していました。
エステルはモルデカイのもとで静かに暮らし、美しい女性に成長しました。その頃、王宮では一騒動がありました。ペルシャの王クセルクセスが催した宴会で、王妃ワシュティが王に恥をかかせるような態度を取ったために怒りを買い、王妃の座を失うことになりました。そして王宮は、ワシュティの替わりとなる王妃を迎えることにしました。帝国中のあらゆる民族から美しい女性が集められました。この出来事がエステルの人生の物語を大きく動かします。エステルもまた候補の一人として王宮に連れていかれたのです。
他の王妃候補の女性たちがここぞとばかりに贅沢に着飾り、持ち物も高級品にしていったりする中で、エステルは慎ましく、身の回りの世話をする者たちにも親切で優しく接するので、とても評判が良くなります。そして、クセルクセス王の目にとまったエステルは王妃として正式に王宮に迎えられました。
そんな時に、ハマンという官僚が昇進し、王宮で大きな権力を持つようになります。権力欲の強いハマンは、自分が王の門を通る度に誰もが自分に向かって膝をかがめてひれ伏すのを喜んでいました。そして王の命令としてお墨付きを得て全員にそうさせるまでしていました。ところが、一人だけ膝をかがめようとしない人物がいたのです。それがエステルの育ての親であるモルデカイです。
腹を立てたハマンはモルデカイに仕返しをするだけでは飽き足らず、モルデカイが捕囚の民ユダヤ人であることを突き止めると、いっそのことユダヤ人を根絶やしにしてしまうことを思いつきます。王様を丸め込んで、ユダヤ人を根絶するという勅令を出させることに成功します。3:12には第一の月の13日に帝国内の各民族に、それぞれの言語で記された勅令が出され、その実施日を第十二の月の13日と定められました。残された時間は1年です。
国中を巻き込むほど大規模な陰謀を前に、ユダヤ人は恐れ嘆き、特に首都スサにいた人々は戦々恐々とし町は大混乱に陥りました。
この物語のポイントは、アブラハムに約束された神の祝福、つまりアブラハムの子孫を通して世界を祝福し、アブラハムの子孫として生まれるメシアによって世界を罪と死から救うというご計画がこれまでにない危機に晒されたということです。
2.確信とためらい
そんな大きな時代のうねりの中で、エステルは事情を知らないまま渦の中心である王宮にいました。モルデカイの勧めで自分がユダヤ人であることを誰にも知らせていなかったため、今のところ彼女に身の危険が及ぶことはありません。
一方、モルデカイは4章のはじめにあるように、王宮の門の外で、大声でわめき叫びながらこの不当な仕打ちに嘆き、断食をし始めました。今風に言うならハンガーストライキです。勅令が届いた各州の町でも同じように大きな嘆きがあり、人々は断食をはじめました。
モルデカイの変わり果てた様子は誰の目にも止まり、エステルも侍女や宦官を通してその知らせを耳にします。まだ事情を知らないエステルはモルデカイに新しい服を送ったり、何か食べるようにと伝えたりしたのですが、モルデカイはそれらを受け取ろうともしません。
そこでエステルは信頼できる宦官のハタクを通してモルデカイに何があったのか事情を聞くことにします。
4:7でモルデカイは宦官のハタクに自分の身に起こったこと、そしてハマンがユダヤ人を滅ぼすために立てた計画を正確に伝えただけでなく、王の法令文書の写しまで手渡しました。さらに8節の後半にあるように、エステルに王のところにいってこの命令を差し止めるよう、王のあわれみを求めるようにと、エステルに頼みました。この大惨事を止めることができるのはエステルしかいないと思われました。
事情を聞いたエステルはすべてを飲み込み、自分の置かれた状況、立場を理解します。それでも彼女には迷いがあり、また恐れがありました。それは11節でエステルがモルデカイに伝えた返事の中に表れています。
エステルはすぐにでも王の元に行ってこの企みをやめさせるために嘆願をしたいと思いましたが、危険が伴うことを知っていました。王妃といえども、王から及びが掛かっていない時に訪ねて行くことは不敬とされ、死罪にあたる重罪でした。しかし、もしその時王が金の笏を差し伸べれば、王のもとに行く許可が与えられるという例外規定があります。ただし、それは何の保証もありません。
そこでようやく今日の聖書箇所である13~14節の言葉が出てきます。
モルデカイは、エステルがこの王国に来たこと、王妃として王宮に入ったのは、この時のためかもしれないと、このときのために神があなたを備えておられたのではないかと問いかけます。あなたが沈黙を守れば、神は他の方法でみわざをなさるだろうけれど、あなたの使命はここにあるんじゃないかと問いかけているのです。
ところで、エステル記には「神」とか「主」といった、聖書でおなじみの神様の名前が一度も出て来ません。預言者も登場せず、夢の中でお告げがあるような特別な啓示もありません。私たちが置かれた状況と良く似ています。そういう中で、彼女が神の導き、神の召しをどのように受け取ったかは私たちにとっても重要です。
エステルは自分が置かれた状況、与えられた立場、能力をすべて重ね合わせて、自分のなすべきことを見出したのです。しかしそこにはまだ躊躇いもありました。
3.励ましとサポート
自分に与えられた使命を確信してもなお、それを実行するのには様々な躊躇いがあるものです。エステルのように命の危険が伴うならなおさらです。
エステルが、自分が王妃として今王宮にいるのは、この事のためだ、神様がそのように導いておられるのだと確信したことは16節のモルデカイへの伝言から明らかです。
エステルは死ぬ覚悟がありました。自分が生き延びないと民を救えないとは考えていません。死んでも構わないという投げやりな態度ではなく、たとえ、表面的な結果が自分の死であるとしても、それをとおして神様がなにか御わざをなしてくださり、民を救うことになるという信仰であり、理解です。
しかし、彼女がこれをやり遂げるには、励ましとサポートが必要です。それをエステルのために町に暮らす同胞に断食と祈りとして行って欲しいと願ったのです。
三日間という限定は、事を起こすのに準備が必要で、そのために三日はかかるという現実的な必要からという面と、多くの同胞たちがエステルの覚悟と行動を理解し、そのために十分の祈る時間を持って欲しいという面からだったと思われます。
5:1を見ると三日目にエステルが行動を取り始めたことがわかります。この後の物語もスリルがあって読みものとしても面白いので、ぜひ後で読んで欲しいと思います。
結果的にはハマンの計画は崩れ去り、エステルの同胞は救われます。モルデカイも命拾いしますが、それどころか、彼の隠れた功績を王様が発見したことで、報償を与えられ、最終的には処刑されたハマンの代わりに王の補佐としての役割と栄誉を与えられることになります。
9章以降は、エステルがハマンの一族に対してかなり厳しい復讐を求めたことが書かれていてドン引きしてしまうかもしれません。捕囚の民として国を失った民族が生き延びるための現実の一つの面として考える他はないのですが、兎にも角にも、エステルは同胞の励ましとサポートによって自分の務め、自分だけにできる務めを果たし、民を救いました。
そして、結果的には危機に晒され、止まっていていた神の救いのご計画の時計が再び動き出すのです。もちろん、神様はここでエステルが失敗したり、務めを投げ出したとしても、違うかたちで民を救い、ご計画を前進させたには違いないのですが、神様が求めているのは、その時々に、主から与えられた務めに応答し、迷いや躊躇いがあっても、これが自分のすべきことだと確信し、周りの人たちの祈りと支えによって務めを果たす人たちです。
そう考えて見れば、アブラハムしかり、モーセしかり、ダビデも、イエス様の弟子たちも、パウロも、神様が呼び出したとき、その招きに応え、神様のご計画は前進して来ました。アブラハムもモーセも、ダビデも、使徒たちも、パウロも、自分のなすべきことだと分かってから迷ったり、恐れたり、失敗したり、とんでもない過ちを犯したりもしましたが、それでも神様はそのような人々を神の恵みの器として用い続け、彼らを通して神のご計画を進めてこられたのです。モルデカイが言ったように、断れば誰か他の人が立てられるのかもしれませんが、彼らは招きに従いました。
適用:ここぞという時に
エステルには神様からの直接の語りかけはありませんでした。アブラハムにも、モーセにも、ダビデにも神様は直接語りかけたり、御使いや預言者達を通して語りかけました。使徒たちやパウロにはイエス様が直接語りかけました。
しかし、エステルにはそうした語りかけも、夢の中で見る幻もありません。それでも、この場面で、これが自分のなすべきことだと直感できたのはなぜでしょうか。王妃となっていたことや、わずかながらも王に近づくチャンスがあるという状況だけで、自分のやるべきことだと思ったのでしょうか。
エステルはモルデカイから多くのことを教わっていました。当然、神様がアブラハムの子孫に与えた約束と神のご計画についても語っていたはずです。そして、祖父の時代にイスラエル王国が滅亡し捕囚となったときに、預言者たちが告げたことについても聞いていたはずです。その時が来るまで、散らされたそれぞれの土地で働き、誠実を養い、隣人たちの間で神の民として生きなさい。時が来れば神はもう一度、神の民を立ち上がらせ、御国をもたらしてくださると知っていました。その神様の大きなご計画があったから、自分の置かれた状況と重ね合わせたときに、これは自分がやらなければならないことだとすぐに理解できたのではないでしょうか。
これまで、何度か4:14の「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」という聖書の言葉を通して、自分自身に対する神様の語りかけ、このことをするように導いておられるのだと確信するようになった、という証を聞いてきました。そうした証をする人たちの話を聞いてみると、確かに、それは単なる思い込みでなく、それまでの経験、その人の持っている強み、状況などがまさに今このとき、この場所で神様が用いたいと願っておられると他人でも納得できる場合が多いです。
学生時代に通っていた教会で大きな問題が起こり、何人かのメンバーが教会を離れてしまう事態になりました。その中でどうして良いか分からず、ある人に相談したら、まさにこの4:14の聖句を教えられて、「このときのためかもしれないよ」と言われ、投げ出さず、留まって教会の一致と回復のために自分でできることをしようと思うことができましたし、それが神学校に行く決意をする大きなきっかけにもなりました。
神様がなさろうとしている大きな物語と、私の辿って来た物語が出会うとき、自分の成すべきことが明らかになってきます。そして「ここぞ」という時が来るのです。それはエステルのような命がけの大仕事ではなく、比べたら小さな働きかもしれませんが、ことの大小に拘わらず、これが自分なりの務めなのだと分かったら、「わかりました、やります」と答えましょう。恐れや不安があるかもしれません。そういうのがなくても、周りの人たちの祈りとサポートを求めましょう。
人は誰もがその人独自の物語があり、身につけてきたこと、経験して来たことがあります。それらが一つにまとまって私という人間ができていますが、それは単に私という人間の個性を形作っているだけでなく、家族や社会、教会、またこの世界の中で、神様が私を通してなさりたいと願っていることがあるということです。
自分というものを見つめ、自分なりの務めを探して見ましょう。
祈り
「天の父なる神様。
エステルの経験を通して、神様が私たち一人ひとりにも、それぞれの人生を通して備えをし、なすべきことを用意してくださっていることを学びました。
私にはなにが与えられ、何をするよう備えられているでしょうか。気づきを与え、ここぞというときに恐れず引き受けることができるように助けていてください。私たちをあなたの器として用いてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」