2025-07-13 あわれみ深く

2025年 7月 13日 礼拝 聖書:ルカ6:36-42

 イエス様の教えは一見すると普通の道徳的な教えとあまり変わりないように思えることがあります。慈悲深いこと、気前良く与えること、人のことをあれこれ言う前に自分のことをちゃんとすべきこと。今日の箇所の教えは表面的に読めば、そういう道徳的な教えとして読めなくもありません。

他にも、聖書では夫婦、親子、教会の兄弟姉妹同士、隣人との関係など人間関係に関する教えが割合多くあります。しかし人には優しくしなさいとか、夫婦は仲良く、ケチケチしないで、隣近所とは良い関係を保ちなさいなど、わざわざイエス様が教えなくたって、半ば常識のように語られています。時には「キリスト教も同じように教えるんだね」と驚かれたりするとちょっと拍子抜けすることがあります。どうしてイエス様はそのような教えを残したのでしょうか。今日の箇所は「平地の教え」と呼ばれている一連のメッセージの一部ですが、まずは語られた状況からイエス様の意図を探っていきたいと思います。

1.イエス様の弟子として

今日の箇所を含む一連の教えは6:17から6章の終わりまで続きますが、内容がマタイの福音書の「山上の説教」と似ていて、よく比較されます。それで、17節に「山を下り、平らなところにお立ちになった」という記述から「平地の説教」と呼ばれています。

このお話がどういう状況で語られたかを見ていくと、直前の12~16節で「十二使徒」を選ぶ場面が描かれています。イエス様が一晩中山の上で祈り、夜明けに弟子たちの中から12人を選んで「使徒」と呼び始めたのです。それから山を下りて、待ちわびていた群衆がいる中で、弟子たちに語り始めたのが今日の箇所です。

さらにもう少し視野を広げて、十二使徒を選ぶ前の箇所、6:1~11を見てみましょう。ここでは安息日に麦の穂を摘んで食べ始めた弟子たちや、イエス様が右手の悪い人を癒したことを「律法違反だ」と咎める律法学者たちやパリサイ人の批判と、それに対するイエス様のやりとりが描かれています。

律法学者は聖書の専門家で、人々を教える立場にありましたし、パリサイ人はその律法を厳格に守ることで神の国の到来を早めようと、人々を教え導くことが使命だと燃えていました。しかし、彼らのやっていることは律法を規則として捉えることで人間への優しさも神への畏れも、神が持っておられる憐れみも見失っていました。

そこでイエス様は、神様の教えの本来の意味をしっかりと捕らえ、人々を教え導く新しい指導者として使徒たちをお立てになったのです。彼らの周りにいる救いや癒やしを求める大勢の人々は、これから彼らが教え導く必要のある人たちです。その人たちが見守る中で、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはわたしの弟子として、他の人々を導く役割があるから、こう考えなければならないよ。こういう生き方をしなければならないよ」と教えたのが、この平地の教えなのです。

では、使徒ではない私たちは、イエス様のこれらの教えをどう読んだら良いのでしょうか。関係ないと無視していいのでしょうか。もちろんそんなことはありません。

イエス様を信じてクリスチャンとなった私たちは、その存在がすでに福音を現す存在になっています。

クリスマスにやるキャンドルサービスを思い起こしてください。隣りの人からロウソクの火をうつしてもらって自分のロウソクに火がついたら、それがどんなに小さな火であろうと、周りを照らし始めます。積極的に別な人に火を渡そうとすればどんどん明かりは拡がっていきます。しかし、たとえ誰にも火を渡さなかったとしても、その小さな火は、確実に周りの闇に光をもたらし、影響を与えます。

私たちの存在が、私たちの子供、家族、友人、隣人に意図せずとも影響を与えます。良い影響である可能性もありますが、律法学者やパリサイ人たちのように悪い影響を与える可能性もあります。

教会の中では、自分の次の世代のクリスチャンたちがおり、私たちの姿を見ていろいろなことを学びます。私たちの振る舞い方、考え方、祈る言葉、良くも悪くも影響を与えます。家庭の中で子供や孫には何を遺せるでしょうか。委ねられている役割の重さ、与えられた責任の大きさを考え、良いものを次の世代に残すためには、イエス様が弟子たちに語ったことに耳を傾ける必要があります。

2.寛容であること

さて、今日の箇所でイエス様は最初に言われました。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

あなたがたの父とは、父なる神様のことです。イエス様は私たちの行動を通して、神様の憐れみ深い性質を表すようにとおっしゃっています。そしてこの憐れみ深さは、同情心が強いとか、共感能力が高いといった、内面的なことではなく、人々の罪や必要に対して広い心で接すること、寛容であることを指しています。

37~38節では、さばいてはいけない、人を不義に定めてはいけない、気前良く与えなさい、と命じられています。

これらの教えは何を言わんとしているのでしょうか。今、山の麓でイエス様と弟子たちの周りにいる大勢の群衆のように、これから弟子たちが実際に関わり、福音を伝え、みことばによって導かなければならない多くの人たちは、たくさんの問題を抱え、間違いを犯しているはずです。そういう人たちに対して、律法学者やパリサイ人たちのように、「それは罪だ」「それは間違っている」と指摘するのは簡単だし、それを直さないと仲間に入れないとか、そんなことをしたら仲間から追い出すと言ったら、強い指導者のように見てもらえるかもしれません。けれども人の罪を指摘し、時には軽蔑すらすることで、その人が良くなることは滅多にありません。

もちろん、罪の問題は放って良いことではなく、扱わなければならなりませんが、キリストの弟子としてまずすべきは、父なる神様がそうしてくださったように、まず赦し受け入れることです。

またイエス様と弟子たちの周りには貧しい人たち、癒やしが必要な人たちがたくさんいました。毎日毎日、助けをもとめてひっきりなしにイエス様のところにやって来ました。弟子たちは時々苛立って、小さい子どもたちが集まって来たりすると「子供はあっち行ってなさい」と追い払おうとしましたが、イエス様は誰でも受け入れ、休む間もなく力を分け与えました。

しかし律法学者やパリサイ人たちはどうだったでしょう。人が見ている前では高額な献金をしましたが、一方で年老いた両親への経済的支援は、「ささげ物になりました」と宣言することで回避できる抜け道を作りました。譬え話の中に出てくる祭司やレビ人のように、強盗に襲われ死にかけている人を見かけても、汚れを移されたくないという宗教的理由から自分の手を汚さない、そんな貧しい発想しか持てませんでした。しかし、キリストの弟子であるあなたがは、惜しみなく与える者でありなさいと教えておられます。

もちろん、私たちは無限の力を持っている者ではないので、際限なく求めに応え続けることは出来ません。肉体的にも精神的にも自分を守る必要があります。家族に犠牲を強いるやり方も良くありません。そうした注意は必要ですが、しかし、基本的なあり方として、自分に出来ることは喜んで与える、そういう者であるようにとイエス様は弟子たちに語っておられるのです。

人をさばかなければ、あなたがたも裁かれない。人を不義に定めなければ、あなたがたも不義に定められない。赦せば赦される。与えれば与えられる。気前よく与えれば気前よく与えられる。

自分が得をするためにそうしなさいということではなく、人を測る測りで自分も測られるものだという教訓です。

3.人のことを言う前に

次に今日の箇所の後半部分を見ていきましょう。39~42節です。イエス様が「一つのたとえを話された」とありますが、その譬えとは41~42節です。39節と40節はこの譬えで取り扱う問題について考えさせるための導入になっています。

イエス様の弟子たちはこれから人を導く立場になります。何も見えてない、分かっていない状態では人を正しく導くことが出来ないばかりか一緒に穴に落ちてしまいます。また、自分の先生のように教えることができるようになるためには、十分に学び、訓練を受ける必要があります。そこで求められるのが、謙虚に学ぶ姿勢です。

41~42節のたとえはまず身につけなければならない謙虚さであることをはっきり伝えています。人のことを言う前に自分のことを顧みて、謙虚に聞きなさいということです。

みことばによって人々を教えたり、罪を取り扱ったりするのは、他人の目のちりを取り除くようなものです。律法学者たちやパリサイ人たちが他人の目のちりを取り除こうとすること、つまり聖書に基づいて生活の指導をしたり、具体的に教えようとしたこと自体は間違ったことではありません。彼らの間違いは、自分の目の中にある梁を取り除かないままで他人の目のちりを取り除こうとしたことです。

イエス様のもとに病気を治して欲しいと集まって来た人たちに対して、できる限りのことをしてあげつつも、本当に救いを得たいなら、自分の罪と向き合い、神の前に悔い改める必要があるよと言わなければなりません。それはまさに他人の目の中のちりを取り除くことです。その生きずらさ、その見えにくさの原因は貧しさよりも、あなたのうちにある罪なんだと言わなければならないとき、それを律法学者たちのように、上から目線で「あなたは罪人だ」と指摘するだけだったり、助ける力があるのにあれこれ理由をつけて助けの手を差し伸べないなら、自分自身の目の中の大きな梁があるのです。それでは相手の目の中のチリを取り除くことができないばかりか、かえって目を傷つけてしまうことになりかねません。

だからキリストの弟子である使徒たちには、まず自分の中にある問題、欠点、間違い、罪に気付き認める謙虚さと、それを取り除いてくださいと助けを求め、教えてくださいと学ぶ姿勢を持ち続ける必要があります。

最近どこぞの知事が学歴を詐称していたのではないかと疑われていますが、その釈明というか弁明というのは本当に無意味で見ていて痛々しいというか、呆れるようなものでした。社会を良くしようという志で政治家を目指したのだと思いますが、そうであるなら自らの間違いにも正直であって欲しいわけです。素直に見栄を張りました、ご免なさいと言えば、それですべてが赦されるわけではないとしても、その人自身に対する印象はそこまで酷くならずに済んだのではないでしょうか。

他人の罪を指摘してばかりいる律法学者やパリサイ人たちも、イエス様の教えを聞いて自分の過ちに気付いて謙虚になっていれば、多くの人を惑わすこともなかったでしょう。けれどもこれは他人ごとではないというのがイエス様の教えです。あなたがたもまず自分の目の中の梁を取り除きなさい。自分の間違い、欠点、弱さに正直であること。それを認め、取り扱っていただく謙虚さが必要です。

適用:神のあわれみを証しする

ここまで見てきたように、イエス様が教えるクリスチャンの生き方には明確な目的があります。私たちの生き方、行動を通して私たちが何を信じ、何を希望としているかを表すということです。「それが正しいことだからしなければならない」という理屈はまさに律法学者たちの論理です。イエス様は弟子たちに、本当の救いがもたらす新しい生き方はそのようなものではないことを分からせる必要がありました。

今日の箇所で教えられている、寛容の教えには、神の哀れみ深さを表すという目的があります。私たちの振る舞いを通して、神様があわれみ深い方であることを証するためです。

神様が弱さや貧しさの中にある時、私たちに心を傾けてくださる方であること。悲しみに沈む時に慰めてくださる方であること。恐れたり心がざわつくときに平安を取り戻させてくださる方であること。罪ある私たちを赦し受け入れてくださる方であること。助けを求めるときに豊かに答えてくださる方であること。そうしたことを私たちは何度も経験してきました。そんな神様の憐れみ深さを、イエス様の弟子である私たちを通して表すのです。そうすることによって、私たちに託された福音は証され、また私たちの後に続く次の世代のクリスチャンや、私たちが教えることになる子どもたちや他の誰かに対しても、そのような信仰と生き方が受け継がれ、さらに次の世代へと受け継がれていくことが期待できるのです。

そうした点で、私は反省しなければならないことに心当たりがあり、後悔していることが幾つか示されています。

2年前に入院中に見た幻覚だか夢だか区別の付かない幻を見た中で、私の窮地を助けるために立ちあがってくれた若い人たちの中に、今は教会から離れている人たちが何人かいた、という話しをしたかもしれません。

もちろん幻の中での事ですから、彼らが本当にそう思っているかは分かりません。ですが、彼らが話してくれた教会に失望した理由の一つが、寛容さにかけた教会の態度にありました。本人たちの気持ちや事情に理解を示すより、罪だと指摘してしまう態度に失望したというのです。

そして現実世界の話しとして、確かにそういう態度を取ってしまったことがあることを思い出します。何かの罪の問題がたまたま明るみに出てしまっただけで、急にこちら側の態度がぎこちなくなり、よそよそしくなったり、端から「悔い改めるべきだ」という態度ばかりが強く出たり、場合によっては怒りのほうが先に出てしまって背後にある本人が抱えている苦悩にまるで思いが及ばず、神様の憐れみ深さはいったいどこに表れていただろうかと反省させられ、あの時この時の態度について後悔させられているのです。

旧約の知恵の書に「あなたは正しすぎてはならない。」という言葉があります(伝道者の書7:16)。自分が正しい側にあるかのようにして相手を非難したり、罪を指摘するのは相手を追い詰めるだけでなく、自分に返ってくるものです。誰もが多くの間違いを犯し、簡単には離れられない罪や悪い習慣があるものです。そんなの気にする必要は無い、皆同じだ、ということではないけれど、主があわれみ深く私たちを見て取り扱ってくださるように、私たちもまた人に対して寛容で、あわれみ深くありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

いつも私たちに惜しみなく赦しと恵みを与えてくださり、ありがとうございます。

イエス様が言われたように、父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くあることができますように。他の人に対して寛容で、自分にできることについては出し惜しみせず、与える者であることができるように助けてください。

人の罪や問題について語る前に、自分自身の課題に気付き、へりくだらせてください。

私たちが寛容で気前よく与える者であることで父なる神様のあわれみ深さを表すことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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