2025年 7月27 日 礼拝 聖書:得てろ第一2:2-10
10代の半ば頃から青年時代にかけて、よくあることではありますが、自分が何者か、本当の自分が何なのか良く分からなくてずいぶん悩みました。
成長の段階で誰もが通る道ですが、それに加えて信仰と生活の問題が悩みを複雑にしました。教会にいるときの自分の姿とそれ以外の場所での自分の姿に一貫性がないことをいつも感じていて、どっちが自分の本当の姿なのか、本当の気持ちは何なのか、考えても分かりませんでした。状況に応じて自分は動物だと言ったり鳥だと言ったりして結局どっちからも仲間はずれにされるコウモリの童話が自分のことのように思えて仕方がありませんでした。
同じような悩みを持ったことがあるでしょうか。悩みとして感じていなくても、自分の生き方と信じていることがちぐはぐだなと感じることはあるかもしれません。今日は迫害の中にあったクリスチャンたちに宛てたペテロの手紙から本当の自分になることにるいて学んでいきましょう。
1.厳しさの中で
2節の「生まれたばかりの乳飲み子のように」というたとえを読むと、ほのぼのとした感じがしますが、実はもっと切実というか、一生懸命さのほうが強調点になっています。
もっとも、この手紙を受け取ったクリスチャンたちの多くは生まれたばかりの信者というわけではありませんでした。
1:1に手紙の宛先として「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち」と挙げられています。これらの地名は今のトルコの全体に拡がる地域です。パウロがガラテヤ地方で伝道して教会を建て上げたのは紀元48年頃で、ローマでペテロが手紙を書いたのは62年頃のことですから14年~15年ほど経っています。この間に、パウロによって設立された各地の教会が周辺の地域へと福音を宣べ伝え続け、教会がずっと大きく拡がっていたことが分かります。
ベテランと言ってもいいクリスチャンたちですが、それでも乳飲み子のような必死さが必要だった理由があります。具体的には、彼らが試練に直面していたということです。
パウロがガラテヤ地方で伝道していた時もユダヤ人からの嫌がらせがしつこく続き、いのちの危険さえありましたから、生み出された教会が同様の苦難に直面したとしても不思議ではありません。
また、1:6には「今はしばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならない」とあり、迫害だけではない悩みがあったことが伺えます。18節には「先祖伝来の空しい生き方」や「金や銀」を追い求めることへの誘惑が絶えずあったことも示唆されています。2:11には「たましいに戦いを挑む肉の欲」、2:18~19では「意地悪な主人」「不当な苦しみ」。3:1には「みことばに従わない夫」。3:9には「悪」「侮辱」、14節には「義のためのに苦しむこと」「人々の脅かし」。
これらは組織的で宗教的な迫害というより、今日の私たちも経験する、どこにでもある試練。私たちの心の中、家庭、職場、友人関係、社会の中でおなじみの悩みであり試練です。これらについてペテロは4:12で「あなたがを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練」だと言っています。
人生に試練は付きものですが、クリスチャンにとっても難しさは、私たちは救われたはずなのに、今この時、こんな苦しみや悩みを背負わなければならないという辛さです。私たちが得たはずの救いの喜び、平安、喜び、希望を試すようなことが次から次へとやってきます。まるで消しても消してもあちこちで火の手があがるようだとペテロは感じていました。私も同じように感じます。
ペテロが1章で指摘しているように、私たちの受け取る報い、遺産は天に蓄えられているので、それを受け取るまでこの地上ではしばし試練の中で悲しむこともあるが、それによって磨かれた信仰には金以上の価値があるのです。それは信ずべき確かな約束です。
とはいえ、試練や悩みの中で信仰を持ち続け、クリスチャンとしての新しい生き方を継続するには、たえず新しい力が必要です。それなしには、私たちのクリスチャンとしての生活は中身も喜びもいのちの輝きもない、表面的で空疎なものになってしまいます。だからペテロは乳飲み子のような必死さで求めなさいと語りかけるのです。
2.乳飲み子のように
赤ちゃんが小さい体で一生懸命ミルクを飲んで、途中で疲れてウトウトしはじめ、もうちょっと飲んでと声を掛けたり優しく突っついたりすると、半分眠りながらもまた飲み始めるなんて姿を良く見ました。しかし赤ちゃんがミルクを一生懸命飲むのは、親を楽しませほっこりさせるためではなく、生きるため、成長するためです。もちろん可愛いですが、生き延びるために必要なことです。乳幼児の死亡率が低くはなかった時代であることを考えると、その一生懸命さはより切実に迫って来ます。ペテロもその点を意識していて2節の終わりに「成長し、救いを得るためです」とはっきり記しています。
では2節で慕い求めるように言われている「純粋な、霊の乳」とは何でしょうか。
3節以下は、純粋な霊の乳を求めることとあまり関係なさそうにも見えますが、実は乳飲み子の喩えを具体的に解説しています。
私たちは主がいつくしみ深い方だとすでに分かっています。その「主のもとに来なさい」とペテロは命じます。乳飲み子がミルクを飲もうとするような一生懸命さでイエス様のもとに行きなさいと言うのです。
なぜならイエス様こそが私たちの人生のすべて、日々の生活、家族、また教会の交わりの礎石、土台のもっとも重要な場所に置かれる要の石だからです。
人々はこの石を不要なものとして捨てましたが、私たちはこの石がすべての要であることを知っています。イエス様に信頼して、イエス様を土台とすることで自分の人生や家族、教会の交わりを確かなもの、豊かなものとして築き上げることができます。もっと具体的に言えば、イエス様への信頼と、イエス様が使徒たちを通して与えたことば、聖書を土台にして人生や家庭、教会を建て上げていくのです。この箇所によれば、そうやってイエス様の教えの上に私たちの生活や教会の交わりを築き上げていくこと自体が神への礼拝だということができます。
赤ちゃんが一生懸命にミルクを飲んで生きよう、大きくなろうとするように、自分の生活や家庭、教会の交わりをみことばに根ざしたものにすることを求めることで、私たちは試練や悲しみの多いこの世にあって神の子供として生き、信仰と希望をしっかりもって歩むことができます。
ところが私たちは時々、イエス様以外の何かを信用してしまったり、みことば以外の何かを土台にして人生や教会の交わりを作り上げようとしてしまいます。たとえば1:14には「以前、無知であったときの欲望」とあります。18節には「先祖伝来のむなしい生き方」「金や銀」とあります。イエス様を知る前に私たちの心をいっぱいにしていた欲望、何かを手に入れたいとか、自分のものにしたい、人から認められたいといった欲望であったり、宗教的な習慣かもしれないし、この世の常識や流行の考えかもしれません。また金や銀のように、ずばりお金や冨かもしれません。そういったものを要石にすると、上に立つ建物、つまり私たちの人生や交わりは、表面的には格好が良くとも、内側のいびつさを抱え、弱い建物のようになってしまうのです。だから一生懸命に主とそのみことばを求めるべきなのです。
3.今はすでに神の民
そのためには、私たちがすでに神様の民とされているということを自覚しなければなりません。
4節から8節までずっとイエス様を石に喩えて話しを進めていますが、これは6節で引用されているイザヤ書のみことばに由来します。
信じていない人たちによって捨てられた石というのは、もちろんイエス様が十字架につけられたことを指していますが、この捨てられた石が、神の子供とされた私たちが共に築き上げられる新しい家、教会の要の石になったのです。
ですから、イエス様を信じている人と、信じていない人とでは、人生や生活の中でのイエス様の存在、イエス様の教えである聖書のもつ意義がまるで違ってしまうのです。
「信じない人」とか「つまずいている」というのは、今のところ信じていない人、それゆえに今つまずいている人たち、という意味で、将来、信じる者、イエス様という石の上に人生を築く人になる可能性はあります。しかし、イエス様を信じない人にとっては、みことばの教えは自分が根ざすべき土台としては受け止められないので、邪魔なもの、いらっとするもの、気に障るものになってしまいます。たとえば前に出てきた1:18にあったような、昔からの生き方を捨てたくないと思っている人や、やっぱお金や豊かさを求めたいと思っている人に、もうそういうのは十分だから違う生き方をしなさい、お金や豊かさより大事なものがありますといった教えは余計なお世話に聞こえるのです。それはある意味仕方がないことです。そういう意味で8節にあるように「そうなるように定められて」いるのです。
しかし、です。ここが大事です。9,10節にあるように、私たちクリスチャンはもうすでに今は神の民とされているんですよ、そのことをはっきり理解し、自覚しなさいとペテロは命じます。
9節に、神の民とされたことの意味合いについて幾つかの言葉で表現されています。細かく説明し始めると話しがややこしくなるので省きますが、大事なポイントは二つです。まず、単に私たちは神の子どもとされた、という個人のことに留まらず、民とされた、つまり同じイエス様を信じる人たちとのつながりの中にあるということです。
もう一つのポイントは、この共同体、神の民、つまり教会には私たちを闇の中から光の中へと召してくださった神様の素晴らしさ、つまり福音の恵みを証する使命があるということです。
そして福音に生き、福音を証しする信仰の共同体の一員、つまり神の民となったということは10節にあるように、もうすでに起こったことです。イエス様を信じた時から、私たちはすでに神の民とされているのです。私たちは、めいめいが個人的にイエス様を信じて、私が罪赦され永遠のいのちをもらったから、あとはできるだけ楽に生きて天国に入る日を待っていればいい、というわけには行かないんだということです。
11節には「あなたがたは旅人、寄留者なのです」とペテロが言うように、イエス様を知って神様の子ども、神様の民となった以上、はっきりその理解と自覚を持って生きなさいと。ペテロを通してイエス様が私たちに強く語りかけているのです。
適用:全てが自分だけれど
さて、最初の問題に帰りたいと思います。
本当の自分とは何か、そしてペテロを通してイエス様が教えてくださった本当の自分になる道は何か、ということでした。
何十年も経って、十代の頃に悩んでいたことを今も悩んでいるということはありませんし、あの頃の自分の問題が完全に乗り越えられているということでもありません。今でも、信仰と生き方がちぐはぐになってしまうことはあるし、苦手なことは苦手なままということは幾らか残っています。それでも、どれが本当の自分か、ということで悩むことはなくなりました。それはみことばが示すようにクリスチャンらしく整えられた部分も、聖書によって教えられていてもなお出来ていない部分も、教会で皆さんといるときも、未信者の友人や仲間と共に過ごしている時も、神学校にいるときも家にいるときも、全てが自分の一部だということが分かったからです。
そしてこの自分を作り上げている様々な要素、いわば土台や柱をつなぎ止めている要石がイエス様だという確信を持つことができたからです。
みことばに照らして成長した面もあるし、まだまだ課題が多い面もありますが、だからといってどっちが本当の自分かということではなく、どちらもありのまま自分の姿です。しかしこの私という人間を作っている全てのものの礎石はイエス様です。
そして私たちがより私らしくなるため、本当の自分になるためには、古い生き方やこの世の基準を好きなように選んで自分なりに生きるのではなく、イエス様に近づいていくこと、イエス様に信頼して、イエス様の教えによって生活や人との関わりを整えて、人生と家庭や教会の交わりを築き上げていくことです。
自分なりに生きる、ということは、現代の日本も含む西洋社会の美徳、価値観となっています。神様が個人に与えた個性や経験によってその人なりのものがあるのは確かですが、しかし、それを与えてくださった神様が私の持っている良さをどのように使うよう期待しておられるかを考えるべきです。なぜなら、私たちはすでにイエス様のあわれみを知って、イエス様を信じ、神様の子どもとされ、神様の民とされた者だからです。
ですから、私はイエス様がそうであるように人に仕え、愛する者でありたいと願いますし、妻を愛し家庭を治める責任を果たしたいと願っています。教会の兄弟姉妹を愛して自分に与えられた務めをもって仕えたいと願い、自分にできることでこの町や世界に貢献したいと願っていろいろなことを選んでいます。どれも完璧に出来ているとは言えませんが、ある程度出来ていると思っています。
しかし、ペテロの手紙が忠告しているように、人からの称賛や富の豊かさ、心の欲を満たすことを目的にし始めたら途端に生活も働きも歪み始めるということを身をもって経験しましたし、いろいろな失敗ケースから学んでいます。
地上で生きていられる時間はますます残り少なくなっていきます。しかしまだまだ時間がありそうな若い世代の皆さんも、私たちは地上では旅人であることを覚え、自分が何者かをはっきり自覚して、熱心にみことばを求め、イエス様に根ざして生活することを乳飲み子のように一生懸命求めていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちはイエス様を信じて、あなたの子とされ、またイエス様にあった互いに結ばれ神の民とされました。それが今の私たちの姿です。しかし、私たちには弱さもあり、世にあっては私たちを古い生き方に引き戻そうとする様々な誘惑や、私たちの信仰や希望を試すような試練が次から次へとやってきます。
乳飲み子のように、イエス様と共に生きることを一生懸命に求めないと、あっという間に飲み込まれてしまいます。どうぞ、私たちにすでに神様の子ども、神様の民とされているというはっきりとした自覚と理解とを与えてくださり、イエス様とそのみことばの上に自分の生活や家庭、教会の交わりを築き上げていくのだ決意します。どうぞその思いを継続できるように助け励まし、力を与えてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」