2025年 8月 3日 礼拝 聖書:エレミヤ31:1-4
先週の日曜日から火曜日にかけて、岩手と秋田の合同の子どもキャンプがありました。久しぶりに子どもたちのための聖書のお話をする機会を与えていただきました。それ以外の時間はひたすら一緒に遊び、とても楽しい時間を過ごすことができました。
今回のキャンプでは3回のお話をしましたが、その内容を3週にわたって礼拝でも分かち合いたいと思います。キャンプではゲームを入れたり、スキットといって短い劇を入れたりしましたが、礼拝の中では再現しにくいので省きますが、内容は同じです。
今回の3回のお話の共通テーマは「イエス様はぼくのことをどう思っているの?」というものでした。神はどのようなお方か、どんなご計画をもっておられるのか、神の力とはどのようなものか。そうしたことを理解することは大事なことではありますが、神はなんといっても人格的な存在です。神様が私たちのことをどんなふうに感じ、思っておられるかを知ることは、私たちの心にとってとても重要なことです。
1.苦難の時でさえ
第一に私たちが苦難に直面するときでさえ、そこに神の恵みを見出すことができます。
エレミヤ書が書かれた時代、イスラエルの王国はまさに崩壊し、アッシリア帝国に捕囚として連れ去られるという事態に直面していました。それはもう警告ではありません。
しかし神はエレミヤを通して、そうした厳しい時代に生きる民に、やがてもたらされる回復を告げ慰めを与えようとしています。31:1でその回復の時には「わたしはイスラエルおすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」と、神と民とは全く一つとなり、その絆が揺るぎないものとなることを約束されました。
しかし、回復までの間、アッシリアのとの戦争を生き延びたイスラエルの民は荒野に行かなければなりません。それは、文字通りの砂漠に放り出されるということではなく、アッシリアに捕囚となることを指しています。それは厳しく、希望のない状況であり、飢え渇きが待ってる状況です。
しかし主はそんな捕囚の時代を単に罰や苦しみとしてではなく、神の恵みを見出すとき、休みを得るときだと語りかけます。
なぜそんなことが言えるのでしょうか。戦争に敗れ、国が滅び、住み慣れた家や街を追われて、奴隷ではないとしても知らない土地に連れて行かれます。そこまでの数ヶ月の徒歩での移動は命がけです。生き延びられたらラッキーです。たどり着けたとしても、言葉も文化も違う土地でゼロから生活を立て直さなければならない。なぜそれを神は、恵みを見出し、休息を得る時だと言われるのでしょうか。
それは、荒野に放り出されるような経験こそが、イスラエルの民がそれまでの歩みの中で見失っていたものを取り戻す時だからです。
「情緒的に健康な教会を目指して」という書籍を書いたスキャロゼというアメリカ人牧師がいます。彼はニューヨークで急成長している教会を牧会し、注目を集めていました。しかし、教会の分裂や夫婦の危機を経験します。その経験の中で自分自身の心の奥底にあった情緒的な未熟さと向き合うことになり、本当の意味でイエス様の弟子となる道のりを歩み始めました。まさに荒野の経験が神の恵みと真の安息を得る時となったのです。
私たちの人生にも時々、そうした荒野の経験を通らされます。その時、気付かされる自分の弱さ、未熟さ、心の傷といったものを見なかったことにして誤魔化したりしないで、神様の前で正直に、きちんと向き合うなら、神様の大きな恵みに気付き、知らず知らずに自分を縛っていたものに気付かされ、何より自分で自分を縛っていたことに気付かされ、解放され、本当の意味での安息を得ることができるようになります。
間もなく、私も倒れて2年になります。昨年、カウンセリングでお世話になった先生とせん妄の中で見た夢や幻の内容について話しをして、非常に短時間のうちに、自分の過去や抱えて来た傷、コンプレックス、それらゆえに身につけてしまった考え方や行動の良くないパターンなんかを見せつけられ、直面する経験だったのだなと思わされました。私にとっての荒野の経験でしたが、確かに恵みを見出し、真の安息に結びつく経験になったと実感しています。
2.遠くから呼びかけ
第二に、イエス様は遠くから私たちに愛していると呼びかけてくださいます。
「イエス様は僕たちのことをどう思っているの」というテーマを考えるために、子どもたちとこんなゲームをしました。皆さんも想像の中でやってみてください。
二人一組になって向かい合います。15秒間、相手について何か考えます。何でもいいです。時間になったら、それぞれ相手が自分について考えたことについて3回以内で当てるというゲームです。40人くらいの子どもと大人がいましたが、1回で当てられた人はいませんでした。2回目、3回目で当てられたという人が数名いましたが、ほとんどは相手が何を考えたか当てられませんでした。
イエス様が私たちのことをどう考えているか、どう思っているかは、当てずっぽうでは分かるものではありません。イエス様が語ってくださることに耳を傾ける必要があります。
もう20年以上前に「世界の中心で愛を叫ぶ」という恋愛小説とそれもとにした映画やドラマが大ヒットして「セカチュー」という言葉が世の中を駆け巡りました。
しかし主は、世界の中心ではなく、遠くから呼びかけ語りかけてくださいました。その言葉に耳を傾ける必要があります。主は「あなたがたを永遠の愛をもって愛し、真実の愛を尽くし続けている」と語りかけてくださいます。
なぜ遠くからなのか、という話しは次週のテーマなので今日は省きますが、こんな場面を想像してみてください。幅の広い道路の向こう側に友だちがいます。一生懸命手を振り、名前を呼びます。一瞬こちらに気付いたように見えましたが、ふっと視線を外します。どんな気持ちになりますか。どんなことを考えますか。たぶん、心が傷付き、あれ友だちじゃなかったのかな。嫌われているのかな、なんて不安になったり悲しくなったりするのではないでしょうか。
一方、同じような状況で、逆にこちらが友だちの存在に気付いていないときに、相手のほうが先に気付いて遠くから名前を呼んで走り寄って「いやあ久しぶり、元気だった?」と声を掛けてくれたら、とても嬉しいのではないでしょうか。
子どもキャンプの時、スポーツミニストリーをしている金さん、まどかさんと7年ぶりに再会しました。目が合った瞬間、笑顔になって「お会いしたかったです~」「あのときはめっちゃ祈ってました」なんて言って貰えて本当に嬉しかったです。
遠くから主が私たちのほうに近づいて来て主が伝えたかったこと。それは、永遠の愛、真実の愛で私たちを愛しているということです。神様にとって、私たちの存在は、遠くから近寄って「愛している」と伝えるほどに大切な存在なのだということです。子どもキャンプの子どもたちにお話ししたことは、イエス様にとって私たちはとても嬉しい存在なのだということです。
待ち望んでいた赤ちゃんが生まれたときの喜び、家に帰ったときにそこに居てくれるだけで嬉しい気持ち。成長の段階ではいろいろありますし、大人になれば生活の場所が離れることもありますが、それでも「ただいま」と言って帰ってきてくれることの嬉しさ。主は私たちの存在を喜び、愛してくださっています。エレミヤを通してそれを伝えたかったのです。
3.御国の建設
第三に、ここは子どもキャンプでは話さなかった部分ですが、私たちの存在を喜び、永遠の愛、真実の愛で愛してくださる主は、私たちを神の御国として建て上げてくださいます。
小さい赤ちゃんは存在自体が私たちの喜びであり、その仕草一つ一つが愛おしいものです。時には、この可愛らしい姿のままでいてくれたらいいのにと思うほどです。しかし、実際に愛情をもって子育てをしている親が願うのは、すくすく成長して幸せになってくれることです。
神様も、遠くから私たちのほうに近づいて、永遠と真実の愛で愛するとおっしゃってくださいますが、言葉をかけるだけではありません。
主はエレミヤを通して約束されました。「おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。」
直接は、これから捕囚となって荒野の経験をすることになるイスラエルの民が、再び集められ、祖国を取り戻す約束のように読めるのですが、少し違和感もあります。「おとめイスラエル」という呼び方に違和感を感じるのです。
「おとめ」とは未婚の女性という意味なのですが、預言者たちはむしろ、イスラエルを夫を裏切った妻に喩えて非難してきました。例えば、預言者ホセアは、何度も夫を裏切り浮気を繰り返す妻としてイスラエルを描きました。それなのに、今まさに捕囚の民となっていくイスラエルをまるでシミも汚れもない者であるかのように「おとめイスラエルよ」と語りかけるのです。
それは、捕囚という荒野の経験を通して神の恵みを見出し、真の安息を経験した民を主ご自身がキリストによって贖い、罪を赦し、汚れのない者として受け入れてくださることを予感させます。
そのようにして生まれ変わった民を、建て直し、喜びの踊りの輪に加えてくださいます。その実現はいつのことなのでしょうか。この約束が部分的に成就したように見えるときは何度かありました。ゼルバベルに率いられて捕囚からエルサレムに帰り神殿を再建しました。ネヘミヤに率いられてエルサレムの城壁を再建しました。エズラによって再び聖書が読まれ祭が祝われたこともありました。
それらは神の約束が確かであることを指し示してはいましたが、約束の成就は、やがておいでになるキリストを待たなければなりませんでした。彼らは再び国を失い、ギリシャやローマの支配下に置かれ、独立を果たすことなく、ローマ帝国によってエルサレムは再び破壊されます。
その代わり、キリストによって始まった神の御国がローマ帝国中に拡がり、全世界へと拡大していきました。主がエレミヤを通して約束されたイスラエルの民の再建というのは、国家としての再建ではなく、約束のキリストによって建てられる神の御国なのです。民族としてのイスラエルの民、ユダヤ人だけでなく、イエス様を信じる全ての人たちがイエス様によって結ばれ、神の家族として世界中のあちこちに建て上げられることを通して神の御国は建て直されていったのです。私たちの存在を喜び、永遠の真実な愛で愛してくださる主は、私たちを教会の交わりと働きの中で、新しい神の民として育み、建て上げてくださるのです。
適用:私たちを喜ぶ方
今日は子どもキャンプでお話ししたことを分かち合って来ましたが、実は初日のお話のときに、もう一つゲームをしました。はじめのゲームは二人一組でしたが、二つ目は前を向いて目をつぶり、自分の前にイエス様がいることを想像し、そのイエス様が僕たち、私たちのことをどう思っているか考えてみましょう、というものでした。分かる人はいますか?と聞きましたが、ほとんどの子どもたちは答えられませんでした。しかし、キャンプの最終日、それぞれがキャンプの感想を書いて発表する時間があったのですが、その中で聖書のお話で心に残ったことも話してくれました。そして、多くの子どもたちが、イエス様が永遠の愛で愛してくれること、遠くからかけよって愛してくださること、イエス様がぼくたちを喜んでくださっていることを挙げてくれていました。遊び疲れて眠そうにしている子たちもいたのですが、ちゃんと聞くべきところは聞いていてくれたんだなと、とても嬉しくなりました。
主は私たちの存在を喜んでおられます。まるで生まれたばかりの赤ん坊を存在自体をただ喜ぶように、そしてその子を一生掛けて育て上げ、幸せにすると誓うように、神様は私たちのために文字通りいのちをかけて愛してくださり、私たちを成長させ、一人ひとりを結び合わせて神の家族とし、神の御国として建て上げてくださいます。神様はそのようなお方なのです。
しかし、イエス様が私たちをそんなふうに喜んでくださる、ということを教えとして理解することと、私たち自身の経験として感じ取ることは別のことです。
ある人にとっては、主がそんなふうに私を愛して下さる、喜んでくださる、ということを、聞いただけ、ああそうなんだとすぐに感覚的に分かりますが、ある人は、イエス様がそんなふうに思ってくださるということを頭では分かっても実感としてはなかなか感じ取れないという人もいます。それは信仰の深さや理解度の問題ではありません。
おそらく私たちがイエス様の愛や、神様が私たちの存在を喜んでくださるということを最初に感覚的に知るのは、イエス様を信じている人たちを通してです。先にクリスチャンになった人が私たちを喜んで迎え入れてくれたり、愛を表して下さることを通して神の愛を知るようになりました。それはこれからも同じです。
昨日、古い知り合いの証を読ませていただきました。自暴自棄になって大やけどを負ったり、無茶な生活をしていたときにも、根気よく関わってくれた宣教師や牧師夫妻を通して神様の愛と忍耐を深く知るようになっていったことが書かれていました。
存在自体を喜ぶとか真実に愛するというのは、人格的な関わりを通してしか伝わらないものです。人間ですから、好きになれない人、どうしてもソリの合わない人はいます。もちろんイエス様がしてくださったように、などとはとてもじゃないけどできませんし、そのことで思い悩んだり、不満を感じたりもします。私たちの愛は不完全で、もしかしたら人を選んでしまうところがあるかもしれませんが、それでも、諦めずに、互いを喜び、愛することを求めていきたいと思います。不完全でも主の助けをいただきながら、お互いの存在を喜ぶことで、神の愛や喜びがただの教えではなく、手触りのあるものとして感じられるものになっていきます。
祈り
「天の父なる神様。
あなたと、御子イエス様が私たちの存在を喜び、永遠の真実な愛で愛してくださる方であることを感謝します。またあなたが私たちを育み、結び合わせ、建て上げてくださることを感謝します。
私たちは時として心が狭く、頑なで、イエス様の愛や私たちへの喜びが感じ取れなくなる者です。そのような時に、主にある兄弟姉妹の愛の交わりを通して互いを喜ぶことで、神様の愛を思い起こすことができますように。イエス様のような愛がないことに失望したり、諦めたりすることもあります。忍耐強く愛してくださるあなたの愛を思い起こすことができますように。
不完全ですが、あなたの助けによってお互いを喜び、愛する者としてください。
イエス様のお名前によって祈ります」