2025年 8月 10日 礼拝 聖書:イザヤ54:7-8
先週に引き続き、子どもキャンプのときに「イエス様はぼくのことをどう思っているの?」というシリーズでお話した3回のメッセージをもとに、今日も聖書を味わっていきたいと思います。
さて、前回の箇所では神様が「遠くから」私たちに近づいて来て語りかけ、「永遠の真実の愛で愛している」と伝えてくださったことを見ました。今日は神様が「遠くから」語りかけてくださったということの意味合いを考えたいと思います。
「遠くから」という言葉でいつも思い出す場面は、13年前の震災の後、ちょうど東京に旅行中だった娘がなかなか帰ってこられず、二週間後にぎりぎり予約できた臨時の飛行機で帰って来られることになり、空港で出迎えたときのことです。こちらから近づいていくことはできませんが、到着ゲートの向こう側に姿を見つけ、荷物を受け取ってロビーで再会したときは本当に嬉しかったです。私たち親子を遠ざけたのは震災でしたが、神様と私たちを遠ざけるものはなんでしょうか。
1.人は自分から離れる
第一に、神と人とを遠ざけたものとは、人間の側にある問題です。人は自分から神から離れるのです。
7節の「わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが」という言葉だけ見ると、神様のほうから人間を遠ざけたかのように読めます。しかし、神様が人間を遠ざけたのは、先に人間の側が神を遠ざけたから、というのがイザヤ書の、というか聖書全体の教えです。
イエス様がお話になった「放蕩息子」という有名な喩え話があります。子どもキャンプのときには、大人のスタッフの皆さんに役だけ振り分けて私のナレーションで即興で演技をしてもらうということをして大盛り上がりでした。水沢の南先生にお父さん役をしてもらったのですが、予想外の長台詞と、歌まで歌いだすほどの熱演で大盛り上がりでした。残念ながら、その再現はできませんが、イエス様が語られたストーリーはこうでした。
ある家の父親に二人の息子がいました。長男は非常に真面目で父の言いつけをよく守る息子でした。弟のほうはとても自分勝手で、本来なら父親が亡くなってから受け取るはずの相続財産の自分の分を「今ください」と言い出します。父親は弟息子に財産の半分をわけてやります。
ほどなくして弟息子はもらった財産と自分の荷物をまとめて遠い国に旅立ってしまいました。旅先で豪遊し、あっという間にお金を使い果たしてしまいます。何もかも使い果たした後になって、その地方を激しい飢饉が襲います。彼は食べるのに困りはじめ、その地方のある農家のところにお世話になることになりました。その家では畑のほかに豚も飼っていて、豚の世話をする代わりにいくらかの食糧を分けてもらえるということでした。しかしお腹いっぱいには食べることができず、豚が食べている餌に手を伸ばしたいという誘惑にかられる程でしたが、誰も彼を可哀想に思って助けてあげることもありませんでした。
そんな状況になって彼はようやく我に返ります。そして父親のところには雇い人でさえパンの有り余る豊かさであることを思い出しました。そうだ父の元に帰ろう。そして、自分は神様に対して罪を犯し、お父さんにも罪を犯してしまいましたと告白し、もう息子と呼んでもらう資格はないから、奴隷の一人として仕えさせくださいと言おう、そんな決心をして、故郷を目指します。
一方、息子の帰りを待っていつも外に目を凝らしていた父親は遠くから息子がとぼとぼ歩いてくるのを見つけました。そして、自ら駆け寄り、よく帰って来たと息子を抱きしめます。「私は罪を犯しました」と告白する息子の言葉を遮って父はしもべに言いつけ、着替えの服や履き物や息子であるしるしの指環を用意させ、さらにご馳走を作って御祝いの準備をするよう言いつけました。
その日は大変な喜びでした。ところが、兄は面白くありません。自分はこんなに言いつけを守って楽しむことすらなかったのに、ろくでもない弟が帰って来たら宴会ですか!と腹を立てます。それに対して父親は、死んでいたと思っていた息子が帰って来たのだ。喜ぶのは当たり前だろう。お前はいつもそばにいて私のものは何でも自由にできるではないかと諫めたのです。
この喩え話のポイントは、弟が自分から父の元を去ったこと、そして父は遠くから息子を見つけて自ら近づいて出迎えたことです。
2.神の怒りと悲しみ
第二に、神様の怒りと悲しみは本物だということをぜひ覚えましょう。
放蕩息子の喩え話を聞くと、弟息子の身勝手さとそれでも赦し、帰りを喜ぶ父親の愛は分かるけれど、人によってはそれが自分とどう結びつくか分からないかもしれません。
同じように、イザヤ書の「ほんの少しの間、あなたを見捨てたが」という言葉を聞いても、自分が神から離れたために、遠ざけられ捨てられたという自覚がないという人も結構多いのではないかと思います。
ある程度教会に通って、聖書が教える神様の存在を知った人にとっては、何となく、自分勝手になってしまって自分から神のもとを離れた・離れているという感覚は分かります。自分の生活を振り返ってみれば、自ずと明らかです。「神様目つぶっててちょうだい」という思いになったり、気まずい思いになるから聖書や賛美歌をどこかに仕舞い込んだりすることがあるかもしれません。放蕩息子ほどの自分勝手でやりたい放題じゃないでしょう。しかし神様に背を向け、遠ざかることに大きな罪は必要ありません。ほんの些細なことで心は離れるのです。
しかし聖書のことばなんて読んだことも聞いたこともない人にとってはどうでしょう。聖書の教える罪がいわゆる犯罪ということではなく、神を認めないこと、神が与えた人の道から逸れたり、自分勝手な振る舞い、欲望のままに振る舞うことだと説明されたら、それはそうだと思います。しかしそれが神を怒らせたり、悲しませたりしているというのはどうもピンとこない、納得できない、という人も多いのではないかと思うのです。それは何か、聞いたこともない法律を急に出されて、お前はこういう法律違反をした犯罪者だと言われるような、不公平感にも似ています。
イザヤ書やイエス様の喩え話を受け取った最初の人たちは、聖書の神を知っている人たちです。神の民として選ばれ、神様の祝福を世界中に届ける使命を与えられた民でした。ところが彼らは神の祝福を自分たちのものとして独占しようとしただけでなく、豊かさや安全は自分のものとしたいが、神が自分たちの生活に干渉するのはいやだとばかりに、まさに放蕩息子のように、神に背を向け、自分から遠ざかったのです。
ですから、神様からすればそのような人々の行動はひどい裏切りであり、怒りと悲しみは私たちの想像を超えるものでした。
一方、この神様を直接は知らなかった人々、たとえば日本人である私たちに対してはどうなのでしょう。神様からすれば、同じようにいのちを与えた者たちですから大切な存在です。しかし、いのちを与えた神を知らずにいることを悲しみ、神様が本来人間としてこうあって欲しいというあり方から外れた考え方、行動をしていたら怒りも覚えるでしょう。日本人は礼儀正しく、他の人に親切で、いつも助け合うと評判のようだし、それが日本人の誇りだと思っている人もいるようですが、学校でも社会でも虐めはなくならないし、自殺率はいっこうに減らないし、絶望的なほどの様々な格差があり、差別が横行しています。人間でも怒りを覚えますが、神様はそれ以上です。まして神様のことを知った上でなお、そうしたことを続けていたら怒りと悲しみはどれほどでしょうか。
3.あがないに表れる愛
第三に、それでもなお、神様は私たちを愛しておられます。その愛は「あがない」という行動に表れました。
7節の後半から読み直してみましょう。「大いなるあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、少しの間、わたしは顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。――あなたをあがなう方、主は言われる。」
皆さんも経験があるのではないでしょうか。相手のことを好きなのに、愛しているのに、怒りがあふれ、顔を背けるときというものが。けれどもそのままでは終わらないはずです。
とある結婚カウンセリングの専門家によると、カップルの間でどちらかが相手を軽蔑している様子が見られると十中八九、数年後に別れたり、離婚したりしているそうです。しかし、怒りは愛の裏返しです。ただしく処理できれば絆がより深くなり得るものです。
神様は、永遠の真実の愛をもって私たちを愛する方だというのは先週の聖書箇所、今月のみことばになっている聖句にも出てきました。変わることなく、ウソのない愛で私たちを愛する方は、私たちが悪いことをしたり、誤魔化したりするとき、「気にしなくて良いよ」「そんなのは問題じゃないよ」とは言えません。神が罪や悪に対して、単に水に流したり見て見ぬ振りをしてしまったら、この世界の道徳的な土台は何もなくなってしまうからです。世界中に様々な宗教があり、時としてその熱心さが暴走してとんでもないことをしてしまうことがありますが、基本的に神は善であり悪をそのままにはしないという信念がその社会の道徳的な土台になってきました。たとえ法律があったとしても、法律自体は道徳的な土台にはなりません。神抜きで社会を作り始めたり、神を利用して社会をつくり出すと、人間の悪意がとんでもない形で表れます。ですから神は私たちの罪や悪に対して本気で怒ります。
しかしたとえ怒りで顔を背けるようなことがあってもそのままにはしておかない、そんな愛で私たちを愛してくださいます。そしてその愛は「あがない」という行動に表れます。8節の最後ですね。「あなたをあがなう方、主は言われる」
「あがない」という言葉は日本語ですが、普段の生活ではほとんど使う場面がありません。何かと引き換えに手に入れるという意味で使われることがありますが、「死をもって罪を贖う」というように、罪の代償を支払うという意味があります。そして、神様は私たちの罪や悪、そしてこの世界の悪を贖う、つまり本来私たちが負うべき罪や悪の代償の代わりに支払ってくださるということです。具体的には人としてお生まれになった神であるイエス・キリストが、十字架に磔にされて死なれたことをもって、私たちの罪の代価、この世界の悪の代価として引き受けてくださいました。
教会が十字架を掲げるのは単なる伝統ではありません。ファッションアイテムとして十字架を使うことにどんな意味があるかよく分かりませんが、教会が十字架を掲げるのは、神の愛の象徴を見ているからです。神に背を向け、自ら遠ざかった私たちを本気で怒り悲しむけれども、それでも愛し、ご自分から近づいてくださり、むしろ私たちが背負うべき罪と悪の報いを自ら背負ってくださった、イエス様の永遠の、真実な愛、変わることなく、偽りのない、確かでまっすぐな愛の象徴なのです。
適用:悲しみつつも愛して
今日は、7月末に岩手と秋田の子どもたちのためのキャンプで「イエス様はぼくのことをどう思っているの」というテーマでお話したの2回目の内容を、少し、というかだいぶ拡大してお話しました。
イエス様は、私たちが悪いことをしたり、神様に背を向けたり、隠れようとしたりすれば本気で怒り、また本気で悲しまれます。しかし、もともと私たちにいのちを与え、愛しておられるイエス様は、たとえ怒りを覚え、また悲しむことがあっても、それでも愛することをやめたりはしません。すでに、十字架の死によってあがないをやり遂げて下さったので、いつでも私たちを赦し、迎える準備ができています。
問題は私たちのほうなのです。そこまで愛してくださるイエス様をそれでも無視するのか。永遠の愛、真実の愛で愛してくださる神様を、それでも自分には関係ないかのように振る舞うのでしょうか。それとも、先ほどの賛美歌の歌詞のように、「ためらわずイエスを心に今受け入れ」るのでしょうか。
放蕩息子が「私は天に対して罪を犯し、あなたにも罪を犯しました」と告白したように、「私は今までイエス様や神様のことを聞いても無視して来ました。知らずに生きて来ました。あなたの愛がどれほどかなんてこれっぽっちも考えずに生きてきました。でも、これからはイエス様の愛を信じて生きてきます。」そんなふうに祈るなら。
あるいは「自分の心の中にも、行動にも悪いところがあることを認めます。この罪の報いを代わりに支払ってくださったイエス様、ありがとうございます。」そんなふうに告白する者を、神様はずっと待っていて、探していて、受け止めてくれます。
キリスト教の神については、いろいろな性質が語られ、キリスト今日の教えについても、いろいろ語られますが、一番大事なこと、そしてこれを信じているならクリスチャンだと言えることは、神がどれほど私たちを愛し、私たちを赦し、救うためにキリストによってあがないをしてくださり、変わらない愛を差し出してくださっているかということです。
有名な聖書の言葉を一箇所開いて終わりにしましょう。
新約聖書のヨハネの福音書3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(イエス様)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
「世を愛された」というのは世間一般をということではなく、この世界にいる一人ひとりを、つまり「あなたを」ということです。この神の愛、イエス様を信じることで、いつまでも尽きないいのちの輝きと喜びを受け取ることができます。
祈り
「天の父なる神様。
永遠に変わることのない、真実な愛で私たちを愛してくださり、ありがとうございます。
私たちはあなたを知らず、あなたの愛に気付かず、自分の道を生きて来ましたが、今、私たちはあなたの愛を知りました。私たちの罪を赦すためにイエス様が十字架でそのいのちを差し出してくださったことも知りました。
どうか、ここにいるだれもが、イエス様を信じ、神様の愛を信じる者でありますように。神の愛を知りながら、知らない振りをしたり、あえて背を向けることなどないように、私たちの心と思いとを導いていてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。」