2025年 8月 17日 礼拝 聖書:詩篇139:13-16
3週にわたって、子どもキャンプでお話しした内容を分かち合わせていただいておりますが、今日はその3回目、最終回ということになります。
キャンプ2日目のことでした。2回目のお話しが終わって、それぞれのお部屋ごとに、聖書のお話を聞いて分かったことや考えた事を子どもたちが話し合う時間がありました。その様子をぼんやり眺めていたら、ある部屋の先生が来て、子どもから質問があったので来て欲しいと言われました。行ってみると、低学年の男の子の部屋のグループでした。質問というのはこうでした。「神様はどうしてぼくたちのことを造ったの?」。
なかなか難しい質問ですが、それは3回目のお話につながるとても良い質問でした。神様のお考えのすべて、お気持ちのすべてを理解することはできませんが、聖書を通して知りうることがあります。今日はダビデの詩篇を通して、主が私たち一人ひとりを特別に造られことを学んでいきましょう。
1.主は私を知っておられる
今日の聖書箇所を含む詩篇139篇は「ダビデの賛歌」という表題がついた歌で、悪意を持った敵によって苦しんでいるダビデが、主が自分のことを知っていてくださることを拠り所に心を整え、まっすぐな道を歩めるよう導きを求める内容になっています。
主が私を知っていてくださる、という確信は私たちにとって大きな拠り所になります。
139:1でダビデはこう語り出します。「主よ あなたは私を探り 知っておられます」
子どもキャンプでイエス様はぼくたちのことを何でも知っていてくださる、ということをお話をしたとき「怖い」という反応が出て来ました。その気持ちはよく分かります。神様が今の自分を見たら、きっと怒ったりがっかりするんじゃないか。そうすると、天国に行けなくなってしまうんじゃないかと恐れました。天国の門がバンと占められたり、イエス様がもう一度来られ、イエス様を信じる人たちが天に上げられる時に自分だけ取り残されるんじゃないかと不安になりました。
あるいは、隠れて悪い事をしたり、隠し事をしたときに、「神様が見ている」という親や教会の大人達の言葉がとても恐ろしく思い出されるのでした。自分も親になってから、子どもを従わせるための便利な言葉として、「神様見てるんだからね」と言ってしまってからとても嫌な思いをしたことを思い出します。主が私たちを知っていてくださることは、もっと肯定的な意味があることだと、幼い魂には教えるべきです。
ダビデは主が自分を探り、知っていてくださることを苦難の時の慰めと考えていました。とても印象深いのは7節から12節にあるように、私たちが神の前から逃げ、暗闇の中に閉じこもりたいと思ったとしても、そこにも主がいてくださることを、うざったいとか、しつこいとか考えず、それでも手を離さず決して一人にはさせない慰めとして受け止めていることです。
人間にとって、一人になる時間は大切ですが、苦難の時に一人になってしまうこと、嬉しいことがあったのに分かち合う人がいないことは、とても深い悲しみをもたらします。
イエス様を信じる私たちにとって、私たちが苦しみの中にあるとき、困難に直面しているときに、イエス様がそんな私たちの苦しみや辛さに全然気付いてもらえないと思ってしまったら、いったいどこに希望を見出すことができるでしょうか。それは友だちだと思っていた人が、状況が良い時には楽しく一緒に過ごしていたのに、状況が悪化するとすーっと離れて行くのにも似た、またそれ以上にひどく寂しく、裏切られた思いがするのではないでしょうか。
けれどもダビデは、人生の最も困難な時に、まさに命の危険を肌身に感じながら何ヶ月も過ごしたり、精神が破綻した振りまでして生き延びる惨めさを味わったり、取り返しのつかない罪を犯して他人や民を巻き込んでしまうような失敗もしましたが、そのような時も決して神は見捨てなかったという経験から、主は自分のうわっつらだけでなく、心の奥深くまで知っておられ、それでいて私を手放さず、見捨てはしないのだと分かっていました。
ですから、まさにいま直面している困難の時も主が自分の心の思いを分かってくださっていることに慰めと希望を求めました。
2.主は私を特別に造られた
しかしなぜ主はそのように私たちの心の深みまで知っていてくださるのでしょうか。
それは、主が私たち一人ひとりを特別に造られたからです。
いよいよ、今日お読みいただいた箇所、13~16節になるわけですが、お母さんのお腹の中で胎児が成長していく様が、神様ご自身の手のわざとして描かれています。もっとも、これは詩的な表現なので、これらの言葉を根拠に、すべての赤ちゃんの胎内での生育過程を神がすべて取り仕切っているというふうに言うと言いすぎだと思います。神様は人間に与えた生殖能力、お腹の赤ちゃんを守り育てる体の仕組みを用いていのちを育んでくださるのです。そうでないと、生まれながらに障害を持っている子どもや、生まれることなく流産したり、死産になったりする場合も、神はわざわざそのように小さないのちに苦しみを与えているのか、という別の難問にぶち当たってしまいます。
ここで言わんとしていることは、人間の赤ちゃんの誕生に神がどのように具体的に関わっているか、ではなく、神様が私たち一人ひとりの出生に関わってくださり、一人ひとりを特別に造られたという理解です。
ここでダビデが告白しているのは、なぜどんな状況にあっても、自分の心の状態がどのようであっても、主は私のことを知っていてくださるのか、その根拠です。それは主が自分を特別な存在として造られたからです。「特別な」というのは、他の人よりすぐれているということではなく、一人ひとりをその人なりの素晴らしさを持った存在として造られたということです。それを内臓を造り、組み立て、織り上げたという表現で表しています。
そして誕生の時ばかりか、16節にあるように、自分の生涯の日々についても、神ご自身の書物に書き記したとあります。私も神の手帳やらノートやらをたくさん保管していますが、それは自分の歩んで来た人生の一部です。しかし主は、その一日もまだ始まっていないうちにすべてを書き留めたというのです。もちろん、比喩的な表現ではありますが、これらを通してダビデが言っているのは、自分が生まれる前の、自分の記憶にはないことも、そしてまだ知り得ない未来のことまでも主は自分のことを知っていてくださる。なぜなら、主は私にいのちと人生を与えてくださった方だから、ということなのです。
神様が、人間の誕生を運任せにしているわけではない、ということは聖書の中でたびたび繰り返されています。モーセ、イザヤ、エレミヤといった人たちにも神様は、母の胎の中にいるあなたを形作ったとか、手や口を与えたとか、生まれる前から預言者に選んでいたというふうに言っておられます。
そして、新約聖書でも、特にエペソ書では、神様が私たちが生まれる前から、いやそれどころか天地創造の時から私たちをキリストのうちに選び、私たちそれぞれの人生における使命を与えておられると語っています。
私たちは誰一人として偶然生まれて来た訳ではありません。間違ってとか、親の身勝手でとか、たとえそういう人間側の都合のようなものがあるとしても、神様からすれば、私たち一人ひとりはご自分がいのちを与えた、特別な存在なのです。
3.私なりの人生を通して
では、最初のあの子どもの質問に戻ることにしましょう。神様はどうして僕たちを、私たちを造られたのでしょうか。しかも、一人ひとりを特別に造られたのでしょうか。そこには目的があります。
神様の御思いのすべてを私たちは計り知ることはできませんが、神様のなさることには意味があり、目的があることは分かります。19~22節の少し物騒な物言いで悪に対する激しい感情を吐き出した後で、ダビデはもう一度自分の心を探り、知ってくださいと祈り、最後に「私をとこしの道に導いてください」と祈って歌を終えています。
神によって一人ひとりが特別な存在として造られ、いのちを与えられた私たちには、歩むべき人生があります。その道は、神様の永遠の道のりと重なっています。つまり、神様の大きなご計画と、私の人生は重なり、私たちはそれぞれの人生で、それぞれなすべき事柄があるということです。
何かを作るときは、目的があります。それが子どもの夏休みの工作であろうと、前衛芸術家の見方がさっぱり分からないような芸術作品であろうと、何かを作り出すとき、そこには目的があり、エネルギーを注ぎ出す意志があります。神様が私たち一人ひとりを型にはめて大量生産するようにではなく、その手で組み立て、織り上げるようにいのちを与えてくださったのには、それぞれに目的があるのです。
陶芸をやったことがあるという話を前にもしました。「今回は何をつくりますか」と聞かれ、湯飲みだけでなく、お皿を作ってみたり、ご飯用の茶碗を作ったり、小鉢、蕎麦ちょこを作ってみたこともあります。こういうふうに使おうと具体的にイメージしながら、それに合うように形を作っていきます。
日本の社会で「特別」というと、優劣の違いや、特別扱いという言葉があるように、えこひいきするみたいなニュアンスがうっすら纏わり付いている場合があります。夏の特別番組や女性のための特別料金なら気になりませんが、平均的で皆と同じくらいがちょうど良いと感じている人が「特別だ」と言われると何だか歯がゆさや、いやいやそんな、という遠慮がちな気持ちが起こってきます。しかし、神様が私たち一人ひとりを特別に造られたというのは、目的のためにピッタリ合っているということです。誰かと比べて優れたものに、ということではなく、神様がこの人にはこんな人生で、こういう役割で周りの人たちの祝福のために用いられて欲しい、というお考え、ご計画に基づいて、それにぴったり合うように造られたということです。
ご自分の手で造られ、いのちを与えたものですから、その全てをご存じです。私たちが自分では知らないこと、気付いていない可能性まで神様はよく知っておられます。
そのように神様が私たち一人ひとりを特別に造ってくださったという確信は、ダビデが苦難の時にこの苦しさ、辛さを神様は分かってくださるという信頼をもたらし、忍耐する力、乗り越える力、そして希望をもたらしてもくれます。
その信頼と希望が、最後の自分が歩むべき道をまっすぐ歩めるよう導いてくださいという祈り、前向きに生きて行こうという願い、真っ直ぐ歩んでいこうという決意をもたらすのです。
適用:自分なりの仕方で
このような信仰、また考え方は聖書全体や新約聖書の中でどのように扱われているでしょうか。昔々の実例としてだけでなく、教会の時代に生きる私たちのための明確な教えとして語られているでしょうか。
今日は神様が私たち一人ひとりを特別に造られたという確信が、苦難の中にあるダビデを励まし、力づけ、隠れたり逃げたりする様子を見せながらも前向きに生きて行こうという思いにさせた様子を見てきました。
いのちの創造と、その人なりの人生への召命というテーマは、ダビデの祈りだけでなく、エジプトからイスラエルを連れ出すために召されたモーセや、預言者として遣わされることに恐れをいだいたエレミヤ、また神に背を向けることを繰り返しながらも見捨てはしないと言われ続けたイスラエルの民にも語られています。
神が私たちを造られたというメッセージは、人間の存在全般のことから、ことにキリストにあって神の子とされた者たちにとって重要な意味を持つようになります。
使徒パウロはガラテヤ書の中で、神の救いを受け取るの先祖伝来の儀式や律法を守ることによってではなく、キリストを信じた人のうちに始まる新しい創造だと教えます。またエペソ書の中で、私たちは神様の作品であって、それぞれに備えられた良い行いを自分の人生の中で取り組んでいくのだと教えています。
エペソ1章では、神様が私たちをキリストにあって、世界の基が置かれる前から選んだと、天地創造まで遡っています。そしてイエス・キリストの贖いによって罪を赦し、すべてのものを一つにするという神の御国の実現の中に私たちを加え、新しい生き方へと招いてくださっています。2:10では「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」と教えます。良い行いというのは道徳的に正しいということよりも、キリストにあって罪を贖いすべてを一つにするという目的にかなった行いという意味です。
つまり、私たちの誕生だけでなく、イエス様にあって神様の子どもとして新たに生まれたことを含んで、私たち一人ひとりを特別に造ってくださったというふうに意味が深まっています。ガラテヤ書ではこのことを「新しい創造」だと言っています。
そして使徒パウロはエペソ書の中で神の子どもとされた私たちが、それぞれ属している神の家族である教会や自分の家族、またこの世界の中で、それぞれの立場や持っている個性、賜物、能力、機会を活かして、互いの祝福と成長のために、周りの人たちに神の恵みが及ぶために仕えるのだと教えます。またこうした務めは、子ども時代から青年期、壮年期、高齢期と年代が変わっていく中でも、それぞれの年代や状況に応じて変化し、ふさわしい役割があることも教えています。
神様が私たち一人ひとりを特別に造ってくださったのは、私たちの誕生だけでなく、神の子どもとされたこと、そしてこの家族、この教会、この地域や世界の一員として、自分なりの仕方で貢献し、神様の祝福や恵みを届けるという目的があってのことです。そうした人生であってもなお、ダビデのように苦難はつきものです。人生とはそういうものだからです。しかし、神が私を知っていて下さることが私たちを励まし、力づけ、希望を思い出させてくれるでしょう。神様が私たち一人ひとりを特別に造ってくださったゆえに、私たちの人生には意味があり、たとえ誰が理解してくれないと思うようなことがあっても主は私を知り、分かってくださっています。
祈り
「天の父なる神様。
私たちが生まれる前から、それどころか天地の基が置かれる前から私たちを選び、母の体の中でいのちを育み、この世界に送り出してくださりありがとうございます。
あなたのご計画の中で私たちもイエス様を知り、イエス様の十字架の贖いによって神の子どもとして生きる者にしてくださいました。
この特別な人生を感謝します。そして、私たちそれぞれが自分なりにすべきことがあり、あなたの恵みの器として用いられる者であることを感謝しつつ、日々、小さなことに愛をもって取り組んでいけますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。」