2025-09-21 この喜びは誰のため

2025年 9月 21日 礼拝 聖書:ルカ1:39-80

 「みんなで分けて」と言って手渡した贈り物を、受け取った人が誰にも渡さず、独り占めしたら、贈り物を贈った人はどう感じるでしょうか。

福音は、誰かと分け合うために私たちに届けられましたが、今日の問題は、誰かと分け合うために届けられたということが教えられていないか、理解されていないため、喜びがその人の内で留まってしまっていることです。そして喜びというのは、次の誰かに手渡されないと消えてしまうものです。

今日の聖書箇所は56節まで読んでいただきましたが、80節までを取り上げたいと思います。

ルカは、この箇所で二つの喜びの歌、賛歌を記しています。一人はイエス様のお母さんになるマリア。もう一人はヨハネの父となるザカリアです。マリアは御使いのことばを信じ受け入れ、ザカリアは同じ御使いのことばを信じられず口が利けなくなっていましたが、どちらも主を称える賛美を歌いました。そして二つの賛美が生まれる舞台を整えたのはヨハネの母となったエリサベツです。

これらもクリスマス近く、アドベントの頃に読まれる箇所ですが、クリスマスの雰囲気に流されることなく、少し冷静にというか、客観的にみことばを味わい、神様がルカを通して語ろうとしたことに耳を傾けたいと思います。

1.喜びは誰のため

最初の場面は、ザカリアとエリサベツ夫妻の家です。

御使いから救い主を身籠もるとお告げを受けたマリアは、すぐにエリサベツの家に向かいました。ナザレからユダヤの山地にある町には歩いて4日ほどかかるそうですが、マリアは御使いが神の御力の重要な例として挙げた、エリサベツが身籠もったという話しを聞いて居ても立ってもいられずにかけつけました。親戚のおばさんの喜ばしい知らせを祝うためということもあったと思いますが、二人に起こった出来事が、神の約束の実現という大きなご計画に共に加えられているという感覚もあったのではないかと思います。

ザカリヤの家に行くと、さっそくエリサベツに挨拶しました。すると、エリサベツのお腹の赤ちゃんが喜び踊るようにお腹を蹴りだし、エリサベツ自身も聖霊に満たされました。

驚くべきは42~45節のエリサベツの言葉です。マリアが御使いのお告げを受けて徒歩で4日も歩く距離を旅して来たということは、まだつわりも始まらない、妊娠のごく初期の段階だったと思われます。もしかしたらマリア自身もまだ自覚していなかったかもしれません。

しかし、エリサベツはマリアが身籠もっており、その赤ちゃんがやがて自分の主となり、マリアはその母だということを見抜きました。救い主の先立ちとなることが告げられていた自分のお腹の赤ちゃんも喜んで踊ったということがそれを裏付けています。

エリサベツは「あなたは女の中で最も祝福された方」だと、率直にマリアをほめ、また会えたことをとても喜んでいます。

エリサベツ自身、もう不可能と思われたのに御使いのお告げ通り、ザカリアとの間に子どもが与えられ、身籠もったことを本当に喜んでいたことは先週開いた24節で見た通りです。長い間子どものいないことは彼女にとって恥でした。現代的な感覚では子どもがいないことを恥だと思う必要はないと言うかもしれませんが、当時の感覚では、子どもができないことを女としての恥だと感じることは、決して拭うことのできないものでした。しかし、神様が「あなたがの願いが聞き入れられた」と言われように、彼女の恥を拭い去ってくださったのです。

けれども、エリサベツはこの喜びが決して個人的な満足で終わるものではないことをすぐに理解しました。この子は直ぐ後においでになる救い主のために道ぞなえをするために立つ者となるのです。その救い主の母となるマリアが目の前にいるのです。嬉しくないはずはありません、興奮しないわけがありません。しかし、それ以上に神様がなさろうとしていることに目を向けないわけには行きません。それが「私の主の母が私のところに来られるとは」という言葉に表れています。

そしてエリサベツは、マリアが最も祝福された女であることの一番の理由は、45節にあるように「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人」だからです。隣りで聞いていたザカリヤはそのことばにズキンと胸を刺されたかもしれません。神様のなさろうとすることを信仰によって受け止め、自分に与えられた恵み、喜びが自分のものに留まらず、多くの人々が待ち望む救い、祝福に至ることを信じる、そのような信仰を神様は喜び、祝福してくださるのです。

2.小さき者へのあわれみ

エリサベツの喜びと驚きの声に応えるように、マリアが46~55節で「マリアの賛歌」あるいは「マグニフィカート」と呼ばれる賛美を歌います。

ある人は、16、7の娘がいきなりこんな歌を即興で歌える訳がないと、これは後から誰かが書いたものをマリアが歌ったということにしたんじゃないかと邪推します。しかし、これは実際にマリアが歌ったものと考えても全然問題ありません。

第一に、ナザレからユダヤの山間の町までの旅の中で考える時間は十分にあったということ。第二に、この歌のひな形と言える「ハンナの祈り」の存在です。

ハンナの祈りというのは、サムエル記に登場するハンナという不妊の女性が祈った祈りです。彼女は不妊のゆえに悩み苦しみ、恥ずかしさと耐え難い侮辱を受けていました。そんな彼女が神に熱心に祈りを捧げ、結果として祈りが聞き入れられます。奇跡的に子どもを身籠もり、生まれた男の子がある程度大きくなったときに、祭司のもとに送り届け、神に仕える者として捧げると約束したのですが、その時に祈った祈りが「ハンナの祈り」として知られています。苦難の中にある女性たちがハンナの祈りを暗記して自分の祈りとしていました。

マリアの祈りで使われる言葉は、旧約聖書に馴染みのある人ならすぐにピンとくるような表現が出てきますから、彼女がハンナの祈りをはじめとする旧約の祈りをひな形にして、ある程度即興でも歌うことができたと十分に考えることができます。私たちも、程度の差こそあれ、似たようなことはやっています。まして旧約聖書を暗記するほどに聖書に親しむユダヤ人ですから、不思議なことではありません。

マリアの賛歌の主題は、主が先祖アブラハムに約束されたあわれみを忘れずに、最も小さい者に表してくださったということです。

ナザレの誰にも知られていないような娘に神が大きなことをなさったというのは、彼女にとって驚きであり、名誉であり、喜びではありますが、マリアが強調するのは、それがアブラハムに約束された契約が実現されることの最初の一手だということです。マリアの賛歌の中には契約という言葉自体は出てきませんが、旧約聖書で明らかにされてきた契約の具体的な意味合いを反映しています。

アブラハムに約束されたことは、アブラハムの子孫を通して全世界を祝福するということでした。それがいったい何を意味するのかというと、罪と死が支配するこの世界で悩み苦しむ人々に神の恵みが表れ、救い、引き上げるということです。それは罪の赦しという面だけでなく、現実の苦難の中にある人たちの回復であり、慰めでもあるというのが、預言者たちの告げて来たことでした。

だからマリアはこの賛歌の中で、やがて主は約束どおりに、力強いわざを行い、高ぶる者や権力者、地位のある者を追い散らし、低い者、飢えた者、弱い者を満たし引き上げてくださるでしょう、それが主のアブラハムとその子孫に約束されたものだからと歌っているのです。

マリアは自分の喜び、自分に与えられた神の恵み、いつくしみが自分だけのものではなく、ここから始まって、多くの小さい者、弱い人々に向けられるものであることを何よりも喜びとしたのです。

3.罪ある者へのあわれみ

第二の場面は3ヶ月ほど滞在していたマリアがナザレに帰ってから間もなくのことでした。

エリサベツは臨月を迎え、無事に元気な男の子を産みました。大勢の人たち、近所の人たちや親戚達が御祝いにかけつけます。主がザカリヤとエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いていたので、無事の出産を大いに喜びました。

8日後、ユダヤのしきたりに従って割礼の儀式を行う日になりました。この時、赤ちゃんに名前がつけられます。人々は当然のように父ザカリヤに因んだ名前がつけられるものと思っていました。もしかしたら、早々と「ザカリヤちゃん」なんて呼び始めたおばちゃんとかいたかもしれません。

しかし、口の利けないザカリヤに代わってエリサベツが「ヨハネとしなければなりません」の一点張りです。親戚の中にもそんな名前は誰一人居ないので納得できない親戚達は、ザカリヤに身振り手振りでどうするのと尋ねました。どうやらザカリヤは口が利けないだけでなく、耳も聞こえていなかったようです。

するとザカリヤは書き板といって、大きさはだいぶ違いますが、今のメモ帳のようなものを持って来させ、そこに「その子の名はヨハネ」と書きました。人々はザカリヤの答えに驚きましたが、さらに驚くべきことに、この直後、突然ザカリヤの口が開かれ物を言うことができるようになったのです。

ザカリヤはさっそく神をほめ讃え、人々はこの出来事に恐れを抱き、その噂は辺り一帯に広がり、子どもの未来について皆が感心を抱きます。

67節からはザカリヤがヨハネの誕生を受けて歌った賛歌ですが、これは聖霊に満たされた預言したものでもあります。

ザカリヤの賛歌の主題は、やはり主が契約を覚えておられ、ご自分の民を省みて罪を贖ってくださる時が来た、ということです。罪を贖うために来られるのが「救いの角」と呼ばれているメシヤ、キリストであり、間もなくマリアを通して生まれます。そして、自分たちの子として誕生したヨハネは救い主のために道を備え、罪の赦しによる救いについて教える者となります。罪と死に捕らわれ暗闇の中に住んでいたすべての人たちの夜明けは近いと歌います。

ザカリヤの歌も様々な旧約聖書の言葉を引用したり、表現を借りて書かれています。

マリアの賛歌は、小さい者、弱い者に対するあわれみに焦点を当てていましたが、ザカリアの賛歌では罪ある者に対する贖いと赦しに焦点を当てています。自分を「主のはしため」と自覚していたマリアと、主のことばを信じなかったザカリヤの、それぞれの自己意識が映し出されているとも言えます。そして主イエス様による救いには、これらの両面が含まれています。貧しく、弱い者、小さい者、無力な者に対するあわれみとしての救いと、罪ある者に対する救い。小さな者たちには良いもので満ち足らせ、引き上げるという恵みを伴い、罪ある者には罪を贖い、赦し、主の御前に歩む新しい生き方をさせるのです。

年老いてとうに諦めていた、子どもが与えられるという願いが聞き入れられたザカリヤですが、その喜びは個人的なものに留まらず、その先にある神の救いの御わざに向けられたものでした。

適用:私の受けた恵みは

今日はここまで、マリアとザカリアの賛歌を見て来たわけですが、彼らはまず、自分たちに示された神のあわれみ、神の恵み、神の御力を喜び、主を称えました。しかし彼らの喜びの声、歌には、この喜びが自分の嬉しさや満足ということに留まらず、もっと多くの人々にも及ぶものだという驚きと喜びがありました。それはこの嬉しい出来事に表された神の救いのご計画、果たされた契約、約束だという視点から、自分たちに示された神のあわれみは、自分だけでのものではなく、他の人々、弱さや貧しさの中にある人々、罪の中にある人々にも及ぶものだという希望につながります。

私たちはこのような物語を読むとき、ヨハネやイエス様の誕生にはこんな隠れたエピソード、彼らの両親たちの信仰の物語、感謝と喜びがあったのだと、共感したり感動したりするかもしれません。しかし、これらの歌に表れている神のあわれみのあり方を考える時、自ずと、私たちが主から受けたあわれみや御力、またその喜びは、自分のためだけのものだろうかと考えざるを得ません。

ある人はマリアが歌ったように、自分の弱さや小ささ、貧しさ、足りなさに嘆いたり悲しんだり悩んだりしている中でイエス様を知り、その救いを受け取ったかもしれません。イエス様を信じて慰めを受け、希望を持つようになったことでしょう。けれどもマリアの賛歌は、あなたが受けたあわれみは、同じような悩みや悲しみを抱えた人にも向けられるものだということに気付かされます。

またある人は自分の生き方に悩んだり、自分の罪深さに思い悩んでイエス様を知り、その救いを受け取ったかもしれません。イエス様を信じて罪赦され、新しい生き方へと導かれたでしょう。けれどもザカリヤの賛歌は、あなたが受け取った赦しと新しいいのちは、同じような悩みや悲しみを抱えた人にも向けられているのだということに気付かされます。

私はクリスチャンホームに産まれたこともあって、自分から救いを求めて探したということはありません。それでも、マリアの賛歌もゼカリヤの賛歌も響いて来ます。自分の足りなさ、弱さ、貧しさ、小ささにもがいたり悩んだりしましたし、罪深さを感じ、正しくあろうとしても出来ない現実、こうありたいと思うようにはなれない無力さ、勇気のなさにがっかりすることが何度もありました。

そのような自分にもイエス様の御手が伸ばされ、神様のあわれみが注がれていることをただ感謝するしかありません。

しかし、聖書は言うのです。私が受けたあわれみは、ただ私が慰められ、励まされるためだけではないのです。私を通して誰かが神のあわれみを受け取り、慰めや罪の赦し、主の道を歩むための知識と知恵を得るためです。

福音書を読んだテオフィロはどうだったでしょう。彼に福音を伝えた人が誰だったかは分かりませんが、その人は自分が受けた神のあわれみを自分のところで留まらせず、誰かに渡そうと心に決めたり、機会が訪れたときに勇気を持って語りかけてくれたから彼はイエス様を信じることができました。ルカは、テオフィロにも、自分が受けた喜びが誰のためであるか考えて欲しかったのです。そして、その問いかけは私たちにも向けられています。私たちが受け取った恵み、喜びを自分のもので終わらせず、誰かに分け合うことでいつまでも続くものになります。

祈り

「天の父なる神様。

エリサベツの喜び、マリヤとザカリヤのそれぞれの賛歌を通して、イエス様を通して私たちにもたらされた神様の大きな恵みとあわれみをもう一度覚えることができ、感謝します。

あなたの救いによる喜びは私一人のものではなく、もっと多くの人たちに分け与えられるべきものです。どうぞ私たちをあなたの恵みの器とし、喜びを分け合う者にしてください。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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