2025年 9月 28日 礼拝 聖書:ルカ2:1-20
今日もまたクリスマスの時に読まれる、まさにイエス様誕生の場面になります。
飼葉桶に寝かされた赤ん坊のイエス様、野宿していた羊飼いたち、天使のお告げと天の軍勢の賛美、マリアとヨセフのもとに駆けつける羊飼いたち。これらの物語は、世の中に賑やかで商売根性丸出しのクリスマスとは一線を画す、穏やかで静かな、温かく恵みに満ちた物語として毎年思い起こすだけの価値があります。
ですが、前回もお話したように、ルカはイエス様誕生にまつわる出来事を季節の行事を飾るものとして読むために書いたわけではなく、クリスチャンが福音の確かさを確信する助けになるようにと書いたものです。
そのような意図を念頭に置いて読む時、今日のお話も、また違った面が見えてくるのではないかと思います。
ではご一緒にイエス様誕生の場面を改めて味わってみましょう。
1.歴史の中で働く神
イエス様がお生まれになったのは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代です。歴史好きな人にはおなじみの名前です。
聖書は歴史的な背景をとても大切にしています。様々な教えが歴史的な背景や具体的な状況の中で書かれたり説明されています。そしてルカはテオフィロに福音の確かさを確信してもらうために、イエス様の物語が、架空のお話ではなく、誰もが良く知っている歴史の舞台の上で繰り広げられたことを知っておく必要があると考えました。神様は旧約時代も、新約時代も、変わらずに、歴史の中で働かれる神様です。
ローマが民主的な共和国から皇帝が統治する帝国になって最初の皇帝がアウグストゥスでした。イエス様が誕生した頃のユダヤの住民登録に関する直接的な記録はまだ見つかっていませんが、ローマ支配下にあったエジプトでは紀元20年から70年まで、14年毎に住民登録が行われていた記録が残されているそうです。紀元前14年から皇帝になったアウグストゥスは、国のあり方を変え、支配体制を再編するために帝国全体の状況を詳しく知る必要がありましたので、各州に住民登録を命じたようです。そういえば日本でも今年は国勢調査が行われます。やり方は違いますが、だいたい同じ目的です。
普通のローマ人は住んでいる町で住民登録をすれば良かったのですが、ユダヤ人に関しては特殊な方法が採られました。おそらく各部族に割り当てられた土地ということを大事にする民族感情を利用したのだろうと言われています。
そしてこのことが、ガリラヤ地方というユダヤの北西部にあった田舎のナザレに暮らしていたマリアとヨセフが、いかにしてダビデの町ベツレヘムで救い主が誕生するという預言を成就することになったかの説明になっています。
ダビデの子孫であるヨセフとマリアは、ベツレヘムに戻る必要がありましたが、そこにはもう親類縁者はいません。しかし住民登録となれば戻らざるを得ません。しかも、住民登録はヨセフだけが行って手続きをすれば良いはずですが、マリアを連れて行くことにしました。5節に「身重になっていた、いいなずけの妻」という表現があります。私たちは彼女が聖霊の力によってイエス様を身籠もったことを知っていますが、まだ正式な結婚が成立する前の婚約期間中に身重になったことは、当時は非難の的になり得たことですし、聖霊によって子を宿したという説明をいったいどれほどの人が信じてくれたでしょうか。おそらく多くの人は下手な言い訳だ、あるいは神を冒涜する言い訳だと思ったことでしょう。ヨセフは自分が留守の間、身重のマリアがどんな目に遭うか心配で、大変だけれど一緒につれて行ったほうが良いと考えたのかもしれません。ともかく、二人して、ナザレからベツレヘムへと旅をしたのです。
旧約聖書のミカ書5:2にはベツレヘムに対して「あなたからわたしのために イスラエルを治める者が出る」と預言されています。神様はこの預言を成就するために、ローマ皇帝や、ユダヤ人の人口調査を担当したヘロデ大王の心を動かしてこのような状況を作りました。そのようなことができるお方なのです。
そしてイエス様の生まれた状況とその後に続く羊飼いたちの場面は、マリアとザカリアの賛歌の内容と響き合っています。
2.貧しい者のために
6~7節のイエス様誕生の場面は、イエス様が貧しい者、立場の弱い者としてお生まれになったことを印象づけます。
ヨセフにとっては先祖の町であるベツレヘム、ダビデ王に所縁のある町ですが、泊めてくれる親戚はおらず、宿屋にも二人のいる場所はありませんでした。
マリアとヨセフが宿とした場所、イエス様が生まれた場所が馬小屋や家畜小屋と言われるのは、生まれたばかりのイエス様が寝かされたのが飼葉桶だったからですが、聖書には馬小屋とは書かれていません。洞窟を利用した家畜小屋だったという人もいれば、宿屋に付属した家畜小屋だったという人もいます。また貧しい人の家にありがちな、住居と家畜小屋が同じ屋根の下にあるような場所だったという人もいます。
しかしルカが注目しているのは、生まれた場所よりも、置かれた状況です。肝心なのは、救い主がお生まれになるというのに、その両親であるマリアとヨセフには居場所がなかったということです。お腹の大きな女性が目の前にいるのに、誰も自分のところに招かなかったということは、マリアとヨセフだけでなく、お腹の赤ちゃんをも拒絶したということです。現代の私たちが読むと、妊婦がいたら誰かがここに来なさいとスペースを作ってくれそうなものです。いくら世知辛い世の中になったと言われても、それくらいの親切心が残っている人はまだまだいるように思います。なぜマリアとヨセフのために誰も部屋を空けてくれなかったのか、譲ろうとしなかったのかは分かりません。ルカが注目しているのはその理由ではなく、その状況そのものです。救い主は神の御国、神の王国の王位につく方なのに、居場所がなく、最も貧しい場所で生まれなければならなかったということに重要な意味を見出したのです。この点はヨハネの福音書でも注目しています。1:11で「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」と記しています。この世界を治めるはずの方が、受け入れられて当然の世界で居場所がなく、最も貧しく、身分の低い者のように過ごさなければなりませんでした。
先週開いた箇所で、マリアの賛歌と呼ばれる歌の中で、マリアは自分を「卑しいはしため」と呼び、主が最も貧しい者、身分の低い者に目を留めてくださったように、あわれみによって多くの貧しい者、低くくされている者に目を留め、引き上げるために救い主がおいでになる。それがアブラハムに主が約束されたことで、主はそれを忘れてはおられなかったと歌いました。
その歌と響き合うように、イエス様は最も貧しく、低くされた者として生まれたのです。
ある時耳にしたショッキングな言葉は、とあるノンクリスチャンの口から出たものです。その人は教会というのは上等な人の行く所だと思っていた、自分には似合わないということでした。
言い方は少し違いましたが、そういう意味合いのことを言っておられました。田舎者とは違う上品さ・ちょっと良い服を着られるくらいのゆとり・言葉遣いが少し都会っぽい・話し方が賢そう。何か、自分たちの場所じゃないと感じたようでした。もしクリスチャンや教会がそういうイメージを醸し出しているとしたら、イエス様の姿に私たちは立ち返る必要があります。
3.罪人のために
貧しい者、低くされた者たちのための王の誕生、救い主の到来というテーマは、次のベツレヘム郊外での出来事にも続いています。救い主は、罪人とされた人たち、のけ者にされた人たちのための王でもあります。このテーマは先週見たザカリアの賛歌と響き合っています。マリアの賛歌は貧しい者、低くされた者への神の哀れみに焦点が当てられ、ザカリアの賛歌では罪ある者の贖いと新しい生き方へと導く神の哀れみに焦点が当てられていました。
なぜベツレヘム郊外の出来事が罪ある者へのあわれみというテーマなのかというと、当時の羊飼いたちの扱われ方にポイントがあります。
羊飼いは多くの場合、羊の所有者から羊の群を預かって世話をします。動物相手の仕事ですから、安息日だからといって仕事を休むわけにいかず、それが宗教指導者たちからは「律法を守らない、不信心者」と見なされていました。また羊の群の食べる草や飲み水を求めて山地を歩き回るのですが、そのとき誰の土地かなんてあまり気にしませんでしたので「信用ならない者たち」と見なされていました。ですから裁判では羊飼いは証言者として認められていなかったほどです。
エルサレムやベツレヘムの均衡で飼育されていた羊は、そのほとんどが神殿で神様への献げ物とされていたそうですし、革や脂肪、肉などはどれもが生活に欠かせないものでした。まさに衣食住、そして宗教生活に欠かせない羊の世話をしてくれる羊飼いたちなのに、尊敬されるどころか、罪人のレッテルを貼られ、信用できない者としてのけ者にされていました。羊の世話のために街から離れた荒野にいましたが、社会的にも人々から遠ざけられていたのです。実際には正直で信仰深い羊飼いたちだっていたでしょうが、どの世界でも見られる偏見と差別によって罪人とされていたのです。
マリアが赤ちゃんを出産したその夜、ベツレヘム郊外にはそんな羊飼いたちが野宿をしながら羊の群を飼っていました。そこに突然、主の御使い、天使が現れて辺り一帯を主の栄光が照らしました。突然の出来事に羊飼いたちは恐れましたが、マリアやザカリヤに天使が現れた時と同じように「恐れることはありません」と語りかけ、安心させようとします。そして御使いは彼らに大事なことを告げました。この知らせは民全体への良い知らせだということ。その内容は、今日ダビデの町、つまりベツレヘムで「あなたがたのために」救い主が生まれたこと、この方こそキリストだということ。そしてその赤ん坊を見つけるための目印を教えました。
さて御使いの言葉の重要な点は、やはりこの出来事が主キリスト、つまり神の救いのご計画の中で約束され預言されてきたことの成就であるという点と、羊飼いたちに向かって「あなたがたのために」と言っていることです。宗教指導者たちは羊飼いたちに対して、あなたがたはキリストの救いからは遠いと言ったでしょうが、御使いはキリストは「彼らのための救い主」ではなく「あなたがたのための救い主」だとはっきり言ったのです。
数えきれないほどの御使いの軍勢が現れて神を賛美する驚愕するような光景を目撃した後で羊飼いたちはすぐに立ち上がり、ベツレヘムへ走って行って、すべてが御使いの告げた通りであることに再び驚き、神を称えながら群のもとへと帰って行くのでした。
適用:今この時も
さて、御使いが羊飼いに告げた「大きな喜びを告げ知らせる」とは、当時の教会が「福音を宣べ伝える」と言う時の言い方と同じでした。彼らこの物語を聞いた時、初めて福音を聞いてイエス様が自分の救い主としておいでになった方であることを知った時のことを思い出したことでしょう。あるいは自分たちが誰かに良い知らせとして福音を伝える時の状況を思い浮かべていたかもしれません。
そして救い主が来られたことの最初の証人として選ばれたのが、当時、証言者としては最も相応しくないと考えられていた羊飼いだったということに、驚きとともに、神様が福音宣教のためにどういう人たちを用いるか、考えさせられたことでしょう。
現代と変わらず、初代教会も、福音を宣べ伝えるには、雄弁さや豊富な聖書知識、深い聖書理解、立派な身なり、堂々とした態度が必要だと考える人たちは結構いたようです。実際、パウロのしゃべり方、態度について文句を言い、使徒らしくないと非難する人たちもいたほどです。ユダヤ人からユダヤの伝統を守っていることを強調すべきだとも圧力がかけられ、ギリシャ人から古代ギリシャ哲学の学問的な対話と渡り合うような知性を求められました。
しかしパウロは、ユダヤの宗教的伝統はキリストの救いとは何も関係ないし、学問的な知恵や雄弁さよりは、十字架しか知らない愚かな言葉で福音を語るのだと言っています。
そして、実際の福音宣教の現場で福音を証ししたのは使徒たちよりも、普通のクリスチャンたちでした。そうでなかったら最初の3世紀で教会がローマ帝国中に拡がることなど無理でした。
しかし、やはりクリスチャンの中には自分が福音の証人として相応しいか疑問を持つ人もいたのです。奴隷の立場であることを気にする人もいたでしょう。学問がないことに引け目を感じる人もいたでしょう。あるは過去の行いが人からの非難の的になるのではと心配する人たちもいたに違いありません。もちろん、クリスチャンとしての生き方が未熟で自信が持てないこともあったでしょう。
しかし、約束のキリストがお生まれになったという、とても大事な知らせの最初の証人として選ばれたのが、羊飼いたちだったということに、神様の豊かな知恵が隠されていました。常識的に考えたら最も相応しくないと思われる人を用いることで、この福音がどんな人たちのためのものであるかを際立たせているのです。
今日、福音宣教や教会運営を専門家と見なされる人たちに任せ、一般のクリスチャンは日曜日、礼拝に参加して、説教を聞いているだけというのが殆どの国々では教会はどんどん廃れています。一方で最も福音宣教が盛んに行われている国々では、福音宣教の最前線に立っているのは普通のクリスチャンたちです。牧師たちでさえ正規の教育を受けて教会から給料をもらっているのは全体の1%に過ぎません。それでも福音は証され、教会の交わりは広がります。
私たちは羊飼いの証言がどういうものだったか、もう一度考えるべきです。彼らは、自分たちが見て経験したことが御使いの言った通りだった、ということを人々に語りました。そこに何の知恵も学問も専門性もありません。罪が赦されたこと、慰めを受けたこと、希望が与えられたこと、人生が新しくなったこと、それぞれが、イエス様を信じて見て、確かに聖書が語っていたとおりだったと思うことがあるなら、それを語ることが福音の証になるのです。
今も、この時も、キリストの良い知らせは羊飼いたちのような者たちに託されているということを、心に留めましょう。
祈り
「天の父なる神様。
貧しい人たちの間に、罪ある者とされる人たちのもとに、救い主としておいでになったイエス様。その喜びの最初の知らせが羊飼いたちに託されました。
私たちは自分の能力や立場、生活を考えて、相応しくないと考えがちですが、救いは相応しくない者にこそ与えられる恵みです。私たちが羊飼いたちのように、イエス様が私たちの救いの為においでになってくださったという知らせを聞いた者です。自分が信じて、見て、聞いたことを喜んで証するものとしてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」