2025年 11月 23日 礼拝 聖書:ルカ3:21-38
この中には、ここ数年で新しく楽器を始めたという方が結構おられます。トーンチャイムとかウクレレとか。始めるときには「楽しそうだな」とか「やってみたい」という気持ちがあったでしょうし、誰かから「やってみよう」と誘われたかもしれません。ちょっとした思いつきであれ、新しく何かを始めるときには、内なる動機とそれを後押しする何かがあるものです。
私の好きな小説家は、神宮球場外野席にある芝生に寝そべりながら野球の試合を眺めているとき、突如「小説を書こう」と思い立ったそうですが、そういう天啓のような場合もあるかもしれません。いずれにしても「よしやってみよう」という瞬間があります。
ここまでルカの福音書でイエス様誕生からバプテスマのヨハネの活動まで見て来ました。イエス様がメシアとして誕生したけれども、ごく普通の赤ん坊として産まれ、その時代の少年と同じように成長してきました。そんなイエス様が、30歳になったころ、突然活動を始めるのですが、いったい何があったのでしょうか。
1.イエス様のバプテスマ
まずは21節のイエス様がバプテスマを受けた場面を見てみましょう。
ルカはこの出来事をとても簡潔に記しています。マルコの福音書も割合簡潔ですが、イエス様がガリラヤ地方のナザレからヨルダン川のヨハネのもとに来たことは書いていますし、マタイの福音書ではそれに加え、ヨハネが「いやいやあなたにバプテスマを授けるなんてとんでもない。むしろ私があなたにバプテスマを授けられるべきです」と言うと、イエス様が「いえいえ、今はやるべきことをやらせてください」と答える、そんなやりとりが記されています。
それに対して、ルカはイエス様がバプテスマを受けた、という事実だけを記します。これは、イエス様のバプテスマを軽く扱っているのではなく、ヨハネとの会話やナザレからやって来た状況より、イエス様がバプテスマを受けたという事実を何より重視し、注目させたいからです。
前にもお話ししたように、バプテスマのヨハネが教えていたバプテスマは、今日の私たちがイエス様を信じた証、また教会の一員になるしるしとして受けるバプテスマとは大分意味が違っていました。3:3を振り返って見ましょう。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」であったと書かれています。
前回もお話ししたように、当時のユダヤ教社会で全身を水に浸すバプテスマというのは、ユダヤ人以外の異邦人がユダヤ教に改宗するときの儀式として行われたものです。そして、水に浸すということは、罪や汚れをすっかり洗い流すという意味があり、それは、それほどにユダヤ人から見ると異邦人が罪深く汚れた存在だと見なしていたことの裏返しでした。もちろん、ユダヤ教徒も罪や汚れはあります。しかし自分たちは神との契約があり、律法が与えられている選びの民だから、異邦人とは違うという感覚があります。ですから、ユダヤ人からすればバプテスマというのは、ユダヤ人が受けるものではなく、罪深く汚れた異邦人が受けるものだと考えていたのです。
そんな人々にイスラエルの子孫だからといって誰でも神の御国に入れると思うな、あなたがたも真剣に悔い改めなければ約束のメシアがおいでになったときに裁きに合うのだと戒め、悔い改めなさい、そのしるしとしてバプテスマを受けなさいと教えたのです。
ですから、イエス様がバプテスマを受けるということは、ご自分を罪深い者、汚れた者だと告白することです。もちろん、イエス様には罪はなく、聖いお方でした。ヘブル4:15にはイエス様についてこう書かれています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
私たちと同じように成長段階を通り、当時の人たちと同じ環境で生活し、同じように試みや誘惑に合いながら、どうやって罪を犯さずにいられたか、全く分かりませんが、それは決して簡単なことではなかったはずです。それでもイエス様は、ヨハネが教える悔い改め、つまり、ユダヤ人だからとか、メシアとして生まれたからというような特権を振りかざすのではなく、神の前で、罪ある者、汚れた者と同じ人間ですとへりくだり、そのへりくだりをバプテスマというかたちで表したのです。
2.天からの声
続いて、バプテスマを受けたあとの、驚きの光景が描かれています。21節後半から22節ですね。
イエス様はバプテスマを受けた後、祈っていたということです。ここでも詳しい状況は説明されず、やはり祈っていたことだけが記されています。
ルカは他の福音書記者の誰よりも、イエス様が祈っておられたことに注目し、早い段階から記録しています。
祈るという行為は、やはり神の前で自分が力なき存在、神の助けや恵みを必要とする者であることを認め、称えられるべきは神のみだという謙遜と信仰が表れています。神でありながら完全な意味で人となられたイエス様が、たえず父なる神様とともにあろうとし、導きを求め、助けを求めていたということでしょう。
そんな祈りの途中で、「天が開け、聖霊が鳩のような形をして…降って来られた」のです。
「天が開く」という現象は旧約聖書にも登場しますが、それは神から預言者に対して新しい啓示がくだる場面です。聖霊がくだる、神の霊がくだるときは預言者に神のことばが与えられるときでした。しかし、なぜ鳩のような姿で降ったのかは分かりません。鳩が聖霊の象徴として理解されるようになるのはずっと後のキリスト教文化の中であって、旧約聖書の中で鳩が聖霊の象徴として描かれることはありません。ノアの洪水の後で、ノアが地上の様子を探るために鳩を放ったらオリーブの枝を加えて来たという場面と無理やり結びつけられなくもなさそうですが、重要なポイントは、聖霊がくだるのをイエス様がその目でご覧になったということです。バプテスマを受け祈っているときにイエス様に聖霊が降ったのは、イエス様が神のことばを語る者として選ばれ、聖霊による力を注がれたことを表していると言えます。
そして天からの声が、さらに確証を与えます。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」
神様が「わたしの愛する子」と呼んでいるのは、イエス様ただ一人です。しかもこの言葉は、イエス様だけに聞こえていたようです。そしてこの言葉は、旧約聖書でメシアについて預言されたことばを映し出しています。
イザヤ42:1を開いてみましょう。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」
つまり、神様はイエス様に個人的に、イザヤを通して預言されていたメシア、キリストとしての務めを愛する子であるあなたに委ねると語りかけ、そして預言のとおりに聖霊をくだされたということなのです。
だから23節にあるように、この出来事をもってイエス様は「働きを始められた」ということになるのです。イエス様がおよそ30歳になられた時でした。
ユダヤの社会で30歳という年代は、すでに仕事も身につけ、社会的にも十分力をつけた年代とみなされていました。家族とユダヤ社会の中でしっかりと仕え、歩んで来られたイエス様は、いよいよご自分の使命を果たすために、まずヨハネからバプテスマを受け、聖霊の力と神からの確証を受け取ったのです。
3.全ての人類のため
さて23節からは長い長い系図が記されています。
イエス様が働きを始めてからの時期を伝統的には公の生涯と書いて「公生涯」と呼んで来ました。およそ30歳からだいたい3年半という短い期間にイエス様はすべての働きをやり遂げることになります。
そしてルカは、その具体的な内容を書き始める前に、30歳の頃のイエス様がヨセフの子どもだと考えられていたことに触れ、すぐに系図を記します。
「ヨセフの子と考えられていた」というのは、福音書に記されているとおり、マリアは神の力によってみごもったので、ヨセフとは血のつながりがなかったのです。しかし、二人の子として育てられたので、このような言い方になっています。
しかし、この系図はちょっと変わっています。マタイにも有名な系図が出てきます。あちらのほうが、よく見られる系図の形式です。誰々は誰それ、という書き方です。アブラハムから始まってダビデを経由し、捕囚時代を超えてイエス様に至る系図でした。
しかしルカが書いたのは、イエス様の父とされたヨセフから遡っていくかたちで書かれています。しかも系図に登場する名前はマタイのものとずいぶん違います。
これには幾つかの説明があります。私はヨセフの父として名前の挙がっているエリが義理の父、つまりマリアの父であって、イエス様から見たら母方の系図になっているという説を支持しています。それでも辿って行けばダビデ王にたどりつくので、ヨセフとマリアのどちらも先祖を辿ればダビデ王家に連なる者ということになります。もちろん、正確なところは分かりません。
しかしこの系図で重要なのは、さらに遡ってアブラハムへ至り、そこからさらにアダムまで遡り、最後の38節の最後に「そして神に至る」と結んでいるところです。
マタイの系図はアブラハムから出発しています。つまり、マタイが注目しているのは、神がアブラハムに約束された祝福の契約が代々受け継がれ、イエス様に至ったというポイントです。それに対してルカの系図は最初の人アダムまで遡り、さらにいのちを与えた神にまで遡っています。
聖書、特に創世記はアダムが神によって創造され、いのちを与えられたところから人類の歴史が始まったと聖書は語り、そして創造主である神に背を向けた人類がどんどん罪に染まり、世界が暴力や不正にまみれていく様子を描いています。この世界にはびる悪や暴力、不正、戦争、貧困、差別、不平等などありとあらゆる問題に支配されている人類を救うためにアブラハムを選び出し、その計画が次第に明らかになっていく中でダビデ王が誕生しついには約束されたメシアであるイエス様が誕生しました。
ルカが強調しているのは、イエス様がアブラハムの子孫だけでなく、全人類のために救い主として来られたというポイントです。
アブラハムやモーセ、ダビデといったユダヤ人の先祖たちとの契約に基づいた約束された救い主、王である方がなぜテオフィロをはじめとするローマ人やすべての人の救い主であるのか、それははじめから全人類を救うために神が遣わした方だからとルカは示そうとしているのです。
適用:へりくだることから
これまでのことをまとめてみましょう。
イエス様はバプテスマを受けることで、ご自分を罪人や汚れた者、特にユダヤ人が異邦人として見下していた人たちと同列におき、へりくだってくださいました。
それを受けて神様は天を開き聖霊を与え、イザヤの預言の言葉をなぞらえながら、約束のメシアとしての確証を与えてくださいました。
それによってイエス様はメシア、キリストとしての働きを始めた訳ですが、ルカは系図を挟むことで、このキリストがアブラハムの子孫、つまりユダヤ人だけでなく、全人類の救い主としてはじめからご計画されていたことを示そうとしています。
全体として、今日の箇所は、マリアとヨセフのもとに人の子としてお生まれになったイエス様がいかにして全ての人の救い主としての働きを始められたかが描かれていると言えます。そして、その確信を持って働き始めるときに鍵になったことは、罪のない方なのに罪ある者、汚れた者としてご自分を低くした、へりくだりです。イエス様の働きはへりくだりから始まったのです。
イエス様がそのようなお方であると知ることは、私たちにとってどんな意味があるでしょうか。イエス様が誰よりも謙遜にご自分を低くされたことは、イエス様を信じ、イエス様に従う私たちにとって決定的に重要なことの一つです。
使徒パウロはこのイエス様の謙遜なお姿を、教会の交わりの基礎とすべきだと手紙を通して教えました。ピリピ2:1~11を開いてみましょう。
これはもう説明不要です。私たちは教会に与えられている愛の交わりを、イエス様のへりくだりに倣って、ますます互いに謙遜になり、相手を敬い、思いやり、仕え合うようにして、キリストにある交わりを真実で確かなものにしていくなら、12節にあるように、与えられた救いを達成することになります。つまり、与えられた救いの素晴らしさを味わい尽くすことになるのです。
私たちは罪ある人間ですから失敗することがあります。それは家族の間でも、教会の交わりの中でも、地域社会やこの世界に届いていく様々な取り組みの中でも、変わりません。完全であることはできないのです。ですから、交わりであろうと奉仕であろうと、へりくだることから始める必要があります。へりくだることがなければ、私たちの内にある小さな罪の根が大きく、しつこく私たちの心と交わりに拡がり、抜いても抜いてもしつこく茂ってしまう雑草のように、私たちの心や交わりを荒らしてしまいます。
神様はアダムの子孫であるすべての人を救うためにアブラハムを選び、救いのご計画を始めました。そして全ての人を救うためにイエス様をキリストとしてこの世界に送って下さり、イエス様がご自分を低くして仕える者になってくださいました。
そして神様は、同じようにこの世界の人々を救うためにイエス様を信じる私たちを選びだしてくださいました。この世界や周りの人たちの罪深さや混乱を冷ややかな目で見るのではなく、イエス様にならって、私も同じように罪ある者としてへりくだり、愛をもって仕えるにはどうしたらいいか、イエス様にならって祈り求めていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
ひとり子イエス様が私たちの救いのためにおいでくださり、徹底してへりくだってくださったことをもう一度思い起こしています。
イエス様に従う者として、私たちの日々の歩み、家族や教会、この社会で人々に対してへりくだり、尊敬して仕えることができますように。
すべてのことにおいて、謙遜であることができますように。
イエス様のお名前によって祈ります。」