205-12-28 神の国の福音とは

2025年 12月 28日 礼拝 聖書:ルカ4:31-44

 年が明けてから、祈祷会では「天国」についての学びをしていこうと計画しています。これは、4月から神学校のクラスとして担当する予定の講座の準備のためなのですが、聖書が教える天国って何なのか、私たちはどういう希望を持てるのか、私たちの人生にどういう意味があるのかを学んでいきたいと考えています。

実は、今私たちが使っている聖書には「天国」という言葉は出て来なくて、今は「天の御国」というふうに訳されます。そして「天の御国」という言葉自体はマタイの福音書には出てこなくて、他の福音書ではもっぱら「神の国」という言い方になっています。つまり、天の御国と神の国は同じ意味なのです。

今日の箇所には「神の国の福音」という言葉がはじめて出てきます。私たちが聴き、信じた福音は「神の国の福音」だということなのですが、「天国の福音」だと何となくイメージできても「神の国の福音」はピンと来ない人が多いのではないかと思います。イエス様が伝えようとした神の国とはどんなものでしょうか。

1.病人たちのいやし

今日開いている31~44節は、ある安息日から翌朝までの二日間の出来事として記されています。

故郷ナザレで人々から拒絶され、ガリヤラ一の町、カペナウムに戻ったイエス様は安息日ごとに会堂で人々を教えていました。そして、ある安息日に、イエス様が教えることばの権威を目の当たりにする出来事が起こったのです。

32節に「人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである」とあります。

実際に、どういうことを教えていたかは具体的に書かれていませんが、福音書を読むと、イエス様が聖書を教えるときの、聖書理解、教え方はどれも、当時の律法学者や教師たちとはずいぶん違ったものであったことが分かってきます。実際、それは聖書解釈をめぐる論争を引き起こしました。

しかし、何より人々の目を引いたのは、イエス様がまるで自分のことばであるかのように聖書のことばを語ることです。そして、その権威が張りぼてではなく、ほんものであることを証明するような力を目の当たりする出来事が起こりました。33節です。

その日、イエス様が入った会堂に、悪霊につかれた人がいました。ガリヤラの人たちは、イエス様が普通の教師たちにはない特別な権威があると感じ取っていましたが、まだイエス様が何者であるかについて確かな答えを持っていませんでした。しかし、この悪霊は、取り憑いた人間の口を通して大声で叫びます。「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」

神の聖者という言い方は珍しいですが、イエス様が何者であるかについては悪霊にとって疑いようのない自明のことでした。イエス様が神に使わされたキリストであることはすぐに分かったのです。しかし、イエス様は悪霊を叱り、男の人から追い出します。イエス様がキリストであることは悪霊の証言ではなく、イエス様のことばとわざによって証され、人々が気付くべきことだったのです。

人々は悪霊がイエス様のことばに従うのを見て、その権威と力に驚きました。

それからイエス様はシモンという人の家に入ります。彼は後にイエス様の弟子となりペテロという名を与えられる人物です。シモンの姑が同居していましたが、生憎高い熱で苦しんでいました。悪霊を追い出すのをみた人々は、イエス様に彼女をいやしてくれるよう頼みました。イエス様は悪霊を叱ったのと同じように、熱に向かって叱りつけました。もちろん熱は人格を持っていませんので、叱るというのは恐らく権威を示すための象徴的な行動です。

二つの奇跡は悪霊に対しても、熱に対しても、イエス様が従わせる権威があることを示すものです。その権威は完全で、悪霊は取り憑いていた人を傷つけることなく、シモンの姑も後遺症に悩むことなくすぐに立ち上がってお持てなしを始めることができました。

イエス様のこの権威が何を意味するか、人々がそこまで深く考えたかはまだはっきりしませんが、その権威は明らかで、自分たちが必要とする助けを与える方であるのは間違いありませんでした。

2.安息日明けのいやし

40節に目を移してみましょう。その日の夕方、日が沈むと様々な病気を抱えた人たちが、家族や友人たちに連れられてイエス様のもとに、つまり滞在していたシモンの家にやって来ました。

なぜ夕方なのかというと、その日が安息日だったからです。ユダヤ教の伝統では、安息日は働いてはいけない日であって、安息日にできることには厳格な定めがありました。たとえ病人でも、生死に関わることでなければ医者に診てもらうことは許されていませんでした。

それで、イエス様の噂を聞いた多くの人が一刻も早くイエス様のもとに行きたいと思ったに違いないのですが、安息日という縛りがあるので、安息日が明ける日没まで待たなければならなかったのです。

後に、イエス様は人々を縛っていた、当時の安息日律法の捉え方に異を唱えますが、ここではまだそうした対立にはなっていません。会堂で悪霊を追い出したことやシモンの姑を癒したことについて、安息日に働くことは許されないと文句を言うパリサイ人も律法学者もまだ登場していません。田舎のガリラヤ地方では少し締め付けが緩かったのかもしれませんし、イエス様の活動自体が始まったばかりで、そうした人たちの注目はまだ向いていなかっただけかもしれません。

しかしながら、人々の暮らしが本来の意図とは異なった律法解釈と杓子定規な適用でがんじがらめになっていたことに変わりはありません。約束の救い主であるキリストが来られたのに、人々はその恵みを受け取るために、安息日が終わるのを律儀に守らざるを得ませんでした。神の恵みにあずかるための律法が人間の勝手な解釈によって神の恵みを遠ざけるものになっていたのです。

日没が安息日の終わりの合図です。人々は暗くなってからイエス様のもとに病気の家族や友人を連れてやってきました。家に入りきらない人たちが玄関前に大勢集まっています。中には悪霊につかれた者もいて、大声で「あなたこそ神の子です」と叫んでいました。

イエス様はそうした人たちを一度にまとめて癒すこともできたはずですが、そうはならさずに、一人一人に手を置いて癒されました。それはイエス様の人に対する慈しみや真実を表しているだけでなく、イエス様の目的が病気を治すこと自体にあったわけではないことを示します。

もし病気の治療が働きの目的なら、むしろ大勢集まって来た時が好機で、一度にまとめて癒やしを行ったら効率的です。しかし、そうはならさらず、一人一人に手を置いていやしました。それによってイエス様の関心が、病気を治すこと以上に、その人自身にあることをお示しになりました。時々、患者の顔を全然見ないで、パソコンの画面だけ見て治療する医者がいる、という話しを聞きます。幸い、今まであたったことはありませんが、もしそういう医者がいるなら、その人の関心は病人ではなく病気の治療だけということなのでしょう。もし、一変に病人を治せる治療法があるならためらわずに使うかも知れません。しかし、イエス様にとっては、一人一人の顔を見て、声を聞いて、どこが傷むとか病んでいるかを知り、やがてご自身を通して与えようとしている救いを思いながら、癒やしたのです。夜遅くまでかかりましたが、イエス様はそうしました。

3.神の国の福音

安息日が明けた夕方から、夜遅くまで一人一人手を置いていやし、もしかしたら明け方近くまで働き通しだったイエス様は、夜が明ける前に「寂しいところに出て行かれた」と42節にあります。

だいたい、こういうときは一人で祈るためです。事実、同じ出来事を書いたマルコは、祈るためだったと記録しています。

朝から一日中人に囲まれ、休む時間もほとんどなく、肉体的にも精神的にも疲労の極致であったに違いありません。そのような時に人々から離れて一人になることは大きな休息になったはずです。たとえ肉体的な休息が十分取れなかったとしても、一人になることは重要でした。

しかしイエス様にとって一人になることは完全な孤独になることではなく、父なる神様の前に出ることであり、誰にも、何にも邪魔されないで、祈りながら自分を見つめたり、働きについて思い巡らす大切な時間です。福音書にはイエス様が大きな決断をする前に一人祈っている場面が何度か出て来ますが、それは、普段から、このような時間をしばしば持っていたからこその行動だったと想像できます。

人は忙しくなり、また人からの大きな期待を寄せられると、本来の自分の立ち位置を見失ったり、目的から逸れていることに気付きにくくなったりします。人として歩まれたイエス様は、たとえキリストとしての使命を果たすためだとしても、父なる神様に祈りながら取り組む必要があったのです。

しかし、周りの人たちの期待は、「もっと自分たちのために役だって欲しい」ということでした。だから離れないで欲しいと引き留めます。

それに対してイエス様は答えます。今日の鍵となる言葉です。「ほかの町々にも、神の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

ここでイエス様はご自身の使命についてはっきりと語っておられます。「神の国の福音を宣べ伝えるため」です。そしてこれは、イエス様の後、教会に託された使命でもあります。

では、神の国の福音とは何でしょうか。「神の国」は正確には「神の王国」と訳すべき言葉ですが、その中心的な意味は、神が治めるとかご支配なさることにあります。当時のユダヤ人は神の国と聞くと、約束されたメシアが王となって異邦人から独立したユダヤ民族のための国家を建設してくれるということでした。その時代の状況からすれば、ローマの支配を打ち破って独立国家を打ち立てる、反乱軍の指導者を期待しました。

しかし、イエス様は神の王国、神のご支配というのは、そういうものではない、ということをこの二日間の出来事を通して表しているのです。神のご支配される世界が訪れたという良い知らせ、福音を宣べ伝えたイエス様は、そのしるしとして癒やしをもたらしました。病気の癒やしそのものが目的ではなかったことは先ほど話した通りです。一人一人に手を置いたイエス様が与えようとしていたのはもっと大きな意味でのいのちの回復でした。罪と死によって損なわれてしまったいのちを完全に回復することが神のご支配によってもたらされることです。神の国の福音とは、イエス様を通して神がいのちの回復をもたらす時が来たことを知らせるものなのです。

適用:いのちをもたらす方

今月はずっとイエス・キリストが人としてお生まれになったことを覚えて来ました。

今月のみことばにあるように、イエス様は私たち人間の世界においでになって、ひとり子の神としての栄光を表してくださいましたが、それは恐ろしいほどの聖さや力に圧倒されるようなことではなく、恵みと真実に満ちたお方として歩み、人々と関わってくださったお姿でした。

そのようにしてイエス様が人と関わり、与えようとしているのが、いのちの回復なのです。ですから、天の御国や神の国といったことばをほとんど遣わないヨハネの福音書では、代わりに「永遠のいのち」という言葉を用いています。ある人は、その用語の違いについて、神のご支配を表す「天の御国」や「神の国」は、「神がなしていること」であり、「永遠のいのち」は神が与えるものに焦点を当てているのだと言いました。

永遠のいのちの回復が、神がそのご支配、神の御国によって私たちに与えようとしているものであり、イエス様を通して私たちに与えるものです。イエス様は私たちにいのちをもたらす方です。

イエス様が生きていた時代、病気は現代以上にいのちを脅かすものでした。先日の同盟祈り会で、同じグループになった80代の先生が去年はインフルエンザから肺炎になったと聞いて驚きました。あの年齢で肺炎は命取りになりかねませんから、まったくそんなふうには見えないほど元気だったので驚いたのです。

確かな医学的知識も治療法も確立していなかったイエス様の時代に病気にかかるということは、現代の高齢者が風邪をひくことくらい、簡単に命の問題に関わることでした。ですから、いのちの回復をもたらそうとしているイエス様が病気の人たちを放っておくことが出来なかったのは当然です。しかし癒やしはイエス様が与えようとしているもっと大きな回復から目をそらすリスクもありました。

今日、病気は2000年前よりずいぶん扱い易いものになりました。ですから、現代はイエス様は病気をなおす奇跡より、もっと大きな意味でのいのちの回復をもたらすことに直接向かわせようとしていると言えるかも知れません。

それでも、私たちはイエス様によるいのちの回復を、罪の赦しということに狭めることには注意が必要です。今日、回復されなければならない「いのち」は、病気とは別な形で傷つき、損なわれています。貧しさや差別、仲間はずれといった昔からあるおなじみのものがあれば、生きる目的が分からないとか、絶望的な孤独、親密であるはずの親や教会のような共同体から受けた深い傷といったことも癒される必要のあるものとして数えることができます。イエス様が罪の赦しだけに関心があったわけでなく、いのちが傷ついていた病や悪霊の支配、律法の間違った適用による縛りといったことにも敏感だったように、現代の人間がかかえる罪だけでなく、さまざまな痛み、苦しみに目を向けておられるのです。

イエス様は、そうした様々な痛みを抱えた私たちを十把一絡げに癒すのではなく、今日も、一人一人に手を置くようにして取り扱い、回復を与えてくださる方です。イエス様のいたシモンの家に押しかけた人たちのように、私たちもイエス様にいのちの回復を求めて進みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちの救いのために来られたイエス様が、神様の御国が到来したこと、神様がご支配なさり、いのちの回復をもたらす時が来たことを告げるためにおいでになったとおっしゃった意味について思い巡らすことができました。

今でもイエス様は私たちのいのちの回復をもたらす方です。罪を赦すだけでなく、いろいろなかたちで傷付いたり弱っている私たちの肉体や心、魂を気に掛け、一人一人手を置いて回復を与えてくださる方です。この地上では回復しきれない痛み、病、傷があるかもしれませんが、永遠のいのちを与えてくださる主は、かならず私たちを完全に回復させてくださいます。

どうぞ、イエス様がそのようなお方であることを信じて、イエス様に救いを求めることができますように。慈しみ深いイエス様の御手を私たちの上にも置いてください。

今年一年の守りと祝福を特に覚えて感謝いたします。どうぞ主にあって新しい一年を待ち望み、良き年を迎えることができますように。おひとりおひとりを導いてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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