2026年 1月 18日 礼拝 聖書:ルカ5:17-32
今日開いている箇所の後半には取税人レビがイエス様の弟子となる出来事が書かれています。そして前回のツァラアトの人のきよめと、今日の中風の人の癒やしは、レビが弟子とされることと、そのまえにシモン・ペテロがイエス様の弟子とされた出来事との間に挟まれています。
ペテロは舟の上でイエス様の権威を目の当たりにして、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と叫び、ひれ伏しました。
ここに私たち人間のかかえるジレンマがあります。イエス様は私たちの救いのために来られた神の御子ですが、この方を知れば知るほど、その権威や聖さというものに圧倒され、とてもじゃないが、このような方の前に出ることは無理と感じます。イエス様ご自身だけでなく、クリスチャンや教会に近づくことにちょっと恐れを感じることもあります。そうしたジレンマに対するイエス様の方からの答えが、この二つの奇蹟とレビの召命には表されています。
1.大視察団
さて、ある日のことイエス様が人々を教え、病人達をいやしておられるところに、大勢のパリサイ人たちと律法の教師たちがやって来ました。
17節には、「彼らはガリラヤとユダヤとすべての村やエルサレムから来ていた」とありますから、当時のユダヤ人の暮らすほぼすべての地域から集まって来た人たち、おそらく代表者たちがうわさのイエス様に会って、その働きを見るための、いわば大視察団でした。
あらためて、パリサイ人と律法の教師というのがどういう人たちなのか簡単に説明したいと思います。
パリサイ派の人たちは、神が聖い方であるようにあなたがたも聖くありなさいという聖書の教えを、汚れたものから離れることで達成しようとする人たちです。イエス様が誕生する160年ほど前に、時の権力者であったギリシャ系の支配者がヘレニズム文化というギリシャ的な文化を押しつけようとしました。律法に従うことを禁じたり、ユダヤ人のアイデンティティである割礼を施したユダヤ人を処刑したのです。その上、エルサレム神殿に「荒らす忌むべきもの」おそらくゼウス像のような偶像を置き、ユダヤ人にとって神聖な場所を冒涜しました。これに対して反乱が起き、マカバイ戦争と呼ばれる戦いが始まり勝利を収めたのです。このことを通して、ユダヤ人にとって律法を守ることと神殿の神聖さを守ることが、外国人の侵略から自分たちを守ることと同じ意味合いを持つようになっていきます。
パリサイ派の人たちはこの分離を社会の内側から変えるために、人々に汚れたものから離れ、異邦人との接触や外国の文化から遠ざかるよう運動を繰り広げた人たちなのです。
そして律法の教師たちは、そうした運動を律法の解釈によって下支えしました。
汚れたものから分離し、聖なるものを取り分けるということを重視ししたため、安息日と十分の一献金をとりわけ強調するようになっていきます。また食事の場面での聖さを重視し、食べ物の中身だけでなく誰と食事をするか、特に異邦人や罪人と呼ばれる人たちと食事の席をともにすることを徹底的に避けました。
こういう人たちが最近うわさのイエス様の教えや働きを見るためにやってきたのです。彼らは神の救いを求めて来たわけではなく、イエス様の教えや働きが、彼らの運動、聖書理解に反していないかチェックするために来たのです。
イエス様に対する近づき方には、病を抱えていたり、ツァラアトにかかっていた人のように人から汚れた者、罪人とレッテルを貼られ、救いを求めて近づく人たちと、「イエスとは何者か」と見定めようとする人たちです。自分には助けが必要だと自覚している人と、自分の眼鏡に適っているかを知りたいだけの人とという違いと言うことができるかも知れません。汚れたものや律法違反から遠ざかり聖さを求めるパリサイ派の人たちや律法の専門家であっても神の前では罪があり、汚れがあり、救いが必要なのは同じなのですが、いかんせん彼らは自分たちが正しく生きているという自負がありましたので、自分たちの必要を自覚していなかったのです。表面的に健康でも骨や内臓がボロボロの人のようです。
2.中風の人の赦し
そこに一人の中風の男の人が連れて来られました。脳卒中かなにかで体が麻痺して自力で歩くことも立つこともできない、かなり重度の状態です。
それで運ばれて来たのですが、家族とは書いていないので、おそらく友人たち4人で寝床に寝かせたまま運んできました。なんとかイエス様に合わせて、イエス様の力で病気を治してほしいと思いましたが、混み合っていて前に進めません。
先日、東京に行ってきましたが、大きな荷物を抱えてあの混雑する電車で移動するのは本当に大変なので、なるべく荷物を小さくしようと頑張りました。家の中に人々がぎゅうぎゅうに入っているところを歩いて割り込むならできるかも知れませんが、4人がかりで寝床ごと割り込むなんてとても無理でした。
「方法が見つからなかった」ということなので、いろいろ試してはみたんでしょうね。前の人たちに頼んでバケツリレー式に運ぶとか、寝床ごと立てて運ぶとか。順番待ちをするという選択肢がなかったの理由は分かりません。もしかすると、体調が急激に悪化していて生命の危険性があると思っていたのかもしれません。
仕方がないので彼らはその家の屋上にあがりました。その地域の建物は、屋根が平らで、たいてい屋上がついていました。天井や壁の素材も土や粘土を塗り固めて乾燥させたものだったので、やろうと思えば穴を空けることができます。実際、壁や屋根に穴を空けて盗みに入る泥棒の手口もあったそうです。
そこまでしてイエス様の前に友だちを届けようとした人たちの信仰を見て、イエス様はいやしを与えるのではなく「友よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃいます。
病人に対して癒やしではなく、罪の赦しを宣言するというのは妙なことです。この人の病気が何かの罪が原因だということなのでしょうか。その点についての説明はありません。ただ、イエス様がこの世界に来られた目的が、病気をいやすこと以上に罪の赦しをもたらすためであることをはっきり示したということができます。人間を創造しいのちを与えたイエス様からすれば、病気や悪霊につかれること、ツァラアトのような外面的な汚れより、罪のほうがよほど深刻で回復困難な傷を人間にもたらすのです。
しかしこの発言が見守っていたパリサイ人たちに激しい動揺をもたらしました。どんな罪も究極的には神に対するものだから、罪を赦す権威は神だけのものであるはずです。イエス様が言ったことは、自らを神と等しくすることで「神を冒涜することではないか」と思ったのです。病人をいやす神の奇跡を行うすごい預言者が現れたのかもしれない、待ち望んでいた神の救いの時が来たのかもしれないと期待して視察に来て見れば、神を冒涜する発言をするじゃないか、こいつはいったい何様のつもりだ、と心の中でブツブツ言い出したのです。ただ、奇蹟の力は否定できないので正面切って批判することもできません。
それを見抜いておられたイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言って、中風の人に起きて寝床を畳んで家に帰るよう語りかけるとすぐ立ち上がります。言葉だけで「罪の赦し」を宣言するのは簡単ですが、イエス様に本当の権威があることをはっきり示したのです。
3.取税人レビの招き
まだ人々の驚きと興奮が冷めやらぬ状態のまま、イエス様はその家を後にして通りに出ました。そこで取税人のレビという人と出会います。このレビは、マタイの福音書を書いたマタイのことで、親がつけた名前がレビということになります。
ユダヤは当時ローマ帝国の支配下にあり、属州となっていました。そのため、人々にはローマから税金が課せられたのですが、これがすこぶる評判が悪かったのです。
収入や家族の人数に応じて課せられる税金だけでなく、メインの通りには収税所があり、荷物を運び入れたり、商売のために行き来する荷馬車などには税金が課せられます。今でいう重量税のようなものだと思いますが、それが取税人のさじ加減で正規の税金より多く取り上げられ私腹を肥やすような人もいたので、皆に嫌われていました。
特に、パリサイ派のような人たちは最初にお話ししたように、ユダヤ人社会が聖さを保つには汚れたものからの徹底した分離が必要で、ローマの支配こそはイスラエルに汚れをもたらす最悪のものの一つと考えられていましたから、その手先になって税金を集める取税人は罪人も罪人、最悪の種類の人間と考えられていました。だから彼らの友だちになることはおろか、近づかないだけでなく、家に入ることも、まして一緒に食事をすることも決してしません。
そんな取税人レビにイエス様は声をかけ「わたしについて来なさい」と言われました。あっちのほうに歩いて行こうということではなく、これからレビ-マタイを弟子にするという意味です。
彼は喜んでイエス様に従いました。人々から民族の的とか、裏切り者とかローマの犬、罪人と呼ばれ、嫌われてきた自分にうわさのイエス様が弟子にならないかと声をかけてくださったのです。一番あり得ないと思っていたことかも知れません。その喜びを表すために家で盛大な宴会をしてもてなしました。その席には取税人仲間や友人たちが集まりました。
ところが、その様子を見ていたパリサイ人、律法学者たちは、イエス様と弟子たちが取税人、罪人と一緒に食事をしているということで「あり得ない」と小声で文句を言い出します。真の預言者なら、彼らがどんな種類の人間か分かるはずだ。汚れや罪から遠ざからないどころか、一緒に飲み食いするなんてとんでもないというわけです。
しかしイエス様は医者と病人のたとえを用いて、ご自分がこの世界においでになったのは「正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」とはっきりおっしゃいました。
イエス様は、あなたの罪は赦されましたと伝えた中風の男を「友よ」と呼びかけ、取税人レビを目の前にして「罪人を招くために来たのだ」と言うのです。これが、舟の上で、「自分は罪深い人間だから私から離れてください」と叫んだシモン・ペテロに対する答えでもあるのです。
イエス様は罪人の仲間にはなりませんが、友となってくださいます。罪人の仲間は一緒に悪いことを考え、やりますが、友となってくださる方は私たちの罪を赦し、罪から救い出し、新しい生き方へと歩ませてくださるのです。
適用:罪を自覚する者の友
ペテロが弟子とされることに始まり、ツァラアトに冒された人を癒やしてきよめ、中風の男の人の罪を赦していやし、そして取税人レビを弟子として招くイエス様の様子を見てきました。
イエス様の弟子となるのは、立派で正しいからではなく、人々から立派な人として認められているからでもなく、聖いからでもありません。彼らはみな、自分たちが罪ある者、また実際に罪人と呼ばれてさえいることを自覚していました。自分たちの正しさ、聖さを主張するパリサイ人からすれば最も神の国から遠い人たちです。
しかしイエス様はそのような者をご自分の御国に招いてくださっています。言い換えるなら、イエス様は罪を自覚する者の友となってくださるのです。
取税人であったレビが罪人と呼ばれていたのは、彼が実際に何か悪いことをしていたからというより、取税人という職業についていたからに過ぎませんでした。それは人が勝手につけたレッテルです。ただ、神の前には罪ある者であることは分かっていたでしょうし、他人から罪人呼ばわりされていたので、イエス様に声をかけていただいて、はじめて自分も神の恵みにあずかれることを知りました。
しかし罪を自覚するといっても、実のところ、自分の罪の性質や罪の深さを正確には分かっていないことがほとんどです。
子どもの頃から教会に来て、小さいうちから私たちは罪人ですと教えられて来たので、ああそうなんだと思っていましたが、その意味の深さ、重さを知るのはもっと後のことでした。自分の行動や言葉で誰かが傷付いたり、友情にヒビが入ったり、人には言えない秘密を抱えたりして、自分の罪や弱さが招く結果を目の当たりにするようになって始めて罪の正体を垣間見るようになりました。歳を重ねるごとにその力がどほど大きいか思い知らされるものです。だから罪について最初から分かっていることはほんの少しです。それでも、自分はイエス様の赦し、助けが必要だと自覚する者をイエス様は友としてくださいます。
それは自分の病気を正確に診断できなくても体調が悪くて治療が必要だと分かることに似ています。病院に行けば治療してもらえますが、「自分は大丈夫」と自分を騙し続ければ手遅れになります。病気の深刻さを痛感するのは医師の説明を受けたり看護師に叱られたりしてからなのと同じように、自分の罪の大きさを深く理解するのは、イエス様と共に歩み始めてからというのがほとんどです。「私は罪深い人間です」と叫んだペテロも、自分の罪深さが、十字架を前にしたイエス様を3度も知らないと裏切ってしまうほどとは思ってもみませんでした。使徒パウロも、「私は罪人の頭です」と告白したのは、晩年の手紙の中でのことでした。
ですから、イエス様の弟子になる、つまりクリスチャンになるときに知らなければならないのは、自分の罪の正確な種類や程度ではありません。たとえ不正確で不十分だとしても自分には神の前に罪があり神の赦しが必要だと分かること。そしてイエス様が私たちをいのちの道へと導くためにおいでくださり、イエス様の助けが必要だと認める者の友となってくださることです。イエス様が私たちの友となってくださることを喜んで受け入れるなら、イエス様は私たちを迎えてくださいます。
イエス様のみわざに舟の上で驚いているシモンや、人から軽蔑の眼差しを受けながら黙々と仕事をしていたレビが、それぞれに神の前では罪ある者だと自覚し、神の赦しや救いからは遠いと思っていたのに、イエス様がわざわざ「わたしについてきなさい」と言われたように、あるいはツァラアトの人に「わたしの心だ」といって触れてくださり、中風の人に「友よ」と語りかけたように、イエス様は今も私たちに、「友よ、わたしの心だ、あなたの罪は赦された、わたしについてきなさい」と語りかけてくださいます。彼らがみなすぐに立ち上がったように、イエス様の招きに応えて立ち上がりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
ひとり子イエス様を私たちの友としてお与えくださり、ありがとうございます。罪や汚れの中にある私たちに触れてくださり、その心を寄せ、友よと呼び、赦し、ついてきなさいと言ってくださり、ありがとうございます。
ここにいる者皆が、また私たちの周りにいる人々が、イエス様の招きに応えることができますように、その足を強め立たせてください。その心を励まし顔を上げさせてくださいますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」