2026年 02月 01日 礼拝 聖書:マタイ5:1-10
休暇中に教会のメンバーではありませんが、ある方から、義理のお父さんが心臓の問題で倒れ処置を受けているから祈って欲しいと連絡がありました。残念ながら翌日の朝、「亡くなりました」との連絡がありましたが、未信者のご家族のために支えになろうと一生懸命の様子でした。
そこで思い出されたのが、今、祈祷会で学んでいる「天国」の希望についてです。天国について聖書が何を教えているかを少しずつ学び始めていますが、思いの他、複雑なテーマなので一緒に学んでいる皆さんも少し苦労しているかもしれません。
天国とはいったい何なのか、それはどういうもので、いつ私たちはそこに入ることができるのか。
どの国の人でも、そうしたことについて聖書が教えていること以外に、その文化、日本人なら「極楽」や「あの世」といった世界観から影響を受けていて、混乱しています。今日は、天の御国についてイエス様が教えたことに耳を傾けてみましょう。
1.天の御国は神のご支配
まず、言葉の整理が必要です。以前もお話ししたことですが、「天国」という言葉と結びつきやすいイエス様の言葉として、「天の御国」が挙げられます。これは、他の福音書で「神の国」と書いているものと全く同じ意味と受け取って構いません。
マタイの福音書はユダヤ人を念頭に書かれたと言われていますが、ユダヤ人は、長い歴史の中で神の御名をみだりに口にすべきではないという教えにより、「神」というところを「天」に置き換えて言う文化的な習慣ができていました。たとえば「神にかけて誓う」と言う代わりに「天にかけて誓う」と言ったりするわけです。
では、天の御国、あるいは神の国とはどういうものでしょうか。日本の文化には「極楽」や「あの世」といった、生きている者とは別な世界があり、死んだ人は向こう側へ行くという世界観があります。川を渡るとか、虹の橋を渡るとか表現の仕方は様々ですし、普段から本気で信じているかは別として、身近な人の死に直面したり、信じがたいほどの災害で多くの人が犠牲になったりするような状況では、向こう側へ行けば、この世の様々な苦しみから解放されるというイメージを一つの慰めとして語ります。
そして、クリスチャンになったあとも、そのイメージを「天の御国」や「神の国」という言葉と結びつけて理解しがちです。
では、イエス様が語る「天の御国」「神の国」の基本的な意味はなんでしょうか。
これも以前お話したことがありますが、「国」と訳されている言葉は、本来「王国」であって、天の御国、神の国の中心的な意味は土地や民族ではなく「神のご支配」にあります。
それは死後行く場所という意味がないわけでありませんが、むしろ、現在であれ未来であれ、神のご支配があるところを神の国、天の御国と呼ぶのです。ですから、天国に入る、という場合、死んだ後の世界に行くというよりも、神のご支配の恩恵に与るとか、神のご支配や保護の中に守られるという意味のほうが強いのです。
天国を死んだ後の世界とか、イエス様がもう一度来られるときに造られる新しい国というふうにイメージすると、今日開いている山上の説教は、この世では苦しみや悩みが多いけれど、信じて頑張っていれば、この世とお別れしたあとに慰められたり、満ち足りたり、あわれみを受け、幸せになれるということになります。
しかし、イエス様は神のご支配はキリストとしてのイエス様の到来とともにすでにこの地上に始まっているとおっしゃっていますから、死後や未来だけでなく、今私たちが生きているこの時にこそ、私たちは神のご支配の恩恵にあずかって、慰めや満足、あわれみを受け取り、幸せをつかむことができる、という意味に劇的に変わって見えるようになります。
今日、天国の希望はあまりに死後の希望や未来の希望として偏って理解されてしまっています。確かに、目の前で亡くなった人が、この世の労苦から解き放たれ、今は天におられる主の御元で安息を得ているという慰め、復活の日に再会できる希望は、愛する者の死という悲しみを和らげてくれます。しかし、天国の希望を死後の慰めや未来の希望だけに限定してしまうと、まるでコース料理の前菜だけ食べて満足してしまうようなものです。もっと素晴らしいものをイエス様は用意してくださっているのです。
2.神とともに歩む者に
イエス様が「山上の説教」と呼ばれる一連の教えの最初に語られたのは、「幸い」についてです。特に3節から10節は、覚えやすいように「~~な者は幸いです。~~だからです」という繰り返しになっています。
8つの組み合わせがありますが、最初と最後のものには「天の御国はその人たちのものだからです」という言葉があり、これらの教えが天の御国、つまり神のご支配恩恵に与る人たちの幸いについて語っていることが分かります。
イエス様は、神の国、天の御国の訪れを待ち望んでいた人々に、いったい誰が神のご支配の恩恵にあずかるのかと教えているのです。神のご支配の恩恵として、慰めを受け、アブラハムに約束された祝福を受け継ぎ、満ち足り、あわれみを受け、神との親しい交わりを与えられ、神の子どもと呼ばれる特権にあずかれるのかと語っているのです。
イエス様の時代、律法を厳格に守り、聖い生活を送って汚れたものや罪から身を遠ざける人こそが神の御国にふさわしい、つまり神のご支配の恩恵にあずかる資格があると主張する声が幅を効かせていました。人は誰でも自分自身の内側に罪の根っこをもっていますから、いくら外側を聖く保ったとしても正直な人であればあるほど、自分は神の恵みを受けるに相応しいとは言えなかったはずです。しかし、パリサイ派のような人たちは自分を正しい者としてはばかからなかっただけでなく、汚れある者、罪ある人を軽蔑し、断罪し、遠ざけました。
イエス様はそうした自分を義とする人ではなく、神の前にへりくだり、神とともに歩む人たちこそ天の御国、神のご支配の恩恵を受けるに相応しいと語っています。
「~な者は幸いです」という8つの組み合わせは、幸いな人の8つのタイプというよりは、神の前にへりくだり、王として来られたイエス様と共に歩む人の様々な特徴や、神の前にへりくだって生きる人が直面する状況が描かれているのです。
神の前にへりくだり共に歩む人は、自分の貧しさを認め、悲しみを正直に訴え、傲慢さではなく柔和さを求め、主が正しいことをなしてくださるようにと心から願い、他者に対して優しく憐れみ深くあろうとし、心の内の罪や暗闇を隠すのではなく正直で、誰かを裁いたり見下すより平和をつくろうとする。そして神の前にへりくだり誠実に生きようとするなら誰かに何か言われたり迫害されることすらあるだろう。彼らはパリサイ人から見たら惨めで、神の祝福から遠い人たちに見えるかもしれないが、そういう人たちこそ神のご支配の恩恵にあずかれるのだ、と教えたのです。
念のために付け加えますが、これらは天の御国の祝福、神のご支配の恩恵にあずかるための条件ということではありません。
自分を義とする人たちは、心の貧しさや悲しみは表に出さず、他者に対して厳しく、神の義よりも自分たちの決めたルールを重視し、罪ある者や汚れた者とレッテルを張った人たちに冷淡で、自分自身のうちにある罪や悪意を隠し、平和を築くより分断を招き、他者を迫害します。神の恵みはそのような人たちにも向けられていますが、神の前にへりくだり、王であるイエス様と共に歩もうとするまでは神のご支配の恩恵に与ることはないのです。
3.その祝福は今この時から
では、天の御国の祝福、神のご支配の恩恵に与るのはいったいいつのことなのでしょうか。
今週のクリスチャン新聞の記事の中に「天国の希望」という見出しがあったので目を引きましたが、中身はクリスチャンが運営する介護事業所についてでした。どうしても、天国の希望は人生の終末期の文脈で語られることが圧倒的に多いようです。
しかし3節と10節にある「天の御国はその人たちのものだからです」という言葉は、原文を見ると、将来のこととしてではなく、今、この時のこととして言われていることが分かります。つまり、天の御国の祝福、神のご支配の恩恵は、神の前にへりくだる人々に、今まさに与えられているものであるということです。それは他のところでイエス様が言われたこととも通じます。
マタイ12:28でイエス様はご自分の御わざの意味を説明して「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」とおっしゃっています。またルカ17:21では、ローマの支配から解放された国のイメージを拭いきれずにいた人たちに対して、神の国とは「『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と言われました。場所の話しではなく、神様によるご支配の恩恵は私たちの心と生活の中にあるのだと言われました。
天国の希望は死んだ後の平穏で幸せな世界に行くという個人的な幸せの約束ではなく、今の困難が多い人生のまっただ中で、神のご支配がもたらす恩恵を受け取りながら生きて行ける希望なのです。
適用:死後ではなく今を生きる
イエス様は他にも、天の御国、神のご支配の性質についていくつもの譬えを通して教えていますが、それらを見ても天国というのは頑張った人たちへのご褒美という面よりも、神のご支配の中にある私たちはどう生きるのかや、福音宣教を通して神のご支配による恩恵がどのように拡がっていくかが教えられていることが分かります。
マタイ13:31以下の有名な「からし種のたとえ」では、非常に小さな種が大きく成長し、やがて鳥が巣を張れるほどになる様子を通して、はじめは小さくとも神のご支配が大きく成長し、拡がり、その恩恵が他の人々に及んでいることを描いています。
天の御国、神のご支配の完成形はまだ見ていないし、その素晴らしさを知るのはイエス様がもう一度おいでになる時のことですが、それでも、天の御国の祝福は私たちの個人的な成長や福音宣教の拡がりを通して現実のものとして味わうことができるのです。
だれかが温泉に浸かって「極楽、極楽」とつぶやくように、私たちの心の貧しさに主が触れてくださったと感じる時、悲しみの中で慰めを得た時、私たちは天の御国のただ中にあります。
狭い心で人を裁いたり、他者への思いやりに欠いていた人が主イエス様とともに歩む中で柔和や寛容、親切を表せるように成長していくとき、私たちは自分の中のからし種が茎を伸ばし葉を伸ばしていることを実感できます。
確かに、イエス様は未来における救いの完成の時には、神のご支配が完全に世界を新しくし、信じて来た者たちも既に召された者も肉体をもって復活し、すべての労苦の報いを受け、主から託されたものに忠実に仕えた者には栄誉を与え、永遠の住まいと喜びの宴が備えられていると言われます。
それでも、イエス様の御国についての教えが未来のこと以上に、今を生きる私たちに与えられる祝福として語られるのは、私たちが困難の多い人生、敵対する者もいるこの世界の中で、神の御国がまさに到来していることを、身を以て味わい、喜びながら証するためです。天国の希望はクリスチャンだけが密かに見ることのできる未来の約束ではなく、私たちがイエス様を王とし、その方と共に生きると心に決め、心の貧しさや悲しみ、正義を求め、争いや冷たさがはびこる世の中で柔和と憐れみと真っ直ぐな心で生きる時に、神を知らない人たちにも目に見える希望となっていくのです。それが「あなたがたは地の塩、世の光です」ということの大切な意味ではないでしょうか。それはただ正しい道を示すとか、世の中が悪に染まるのを防ぐというだけではなく、イエス様のもとには本当に希望があるということを示せるということです。それこそが、イエス様を通して与えられた天の御国、神によるご支配の恩恵を受けることの素晴らしさです。
心の貧しさをかかえ何かに渇いている人に「ここに飢え渇きを癒してくださる方がおられる」。悲しんでいる人に「主イエス様が慰め手くださる」。世間の風当たりや人の悪意や不正に嘆く人に、天国の希望を持つ者が柔和で憐れみ深く、真っ直ぐな心で語りかける。そのようなことを通して、私たち自身が御国の素晴らしさを味わいながら、天国がただの言葉ではなく、確かな手応えと手触りのある希望であり、今受け取れる祝福であることを証できるのです。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様が「天の御国が近づいた」と言われたことを、私たちはあまりはっきりと理解していませんでした。天国の希望を、死後の安息や遠い未来の報いといった程度にしか捉えておらず、この世にあって歩むまっただ中で味わえる神様によるご支配の恩恵であることを学びました。
イエス様は、私たちがイエス様を王として認め、へりくだり、イエス様とともに歩むことで、この素晴らしい祝福を、私たちの人生、周りの人たちとの生活、教会の交わり、福音を証しする務めの中で味わって欲しいと願っておられます。
どうか、天の御国を、イエス様が言われたとおりに、私たちのただ中にあるものとして味わい、生きる希望として持ち続けさせてください。特に、悲しみや飢え渇きの中にあるとき、困難の中にあるとき、そこに神のご支配があり、恵みがあることに目を開かせてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」