2026年 2月 8日 礼拝 聖書:ルカ5:33–39
「村の小さき教会」という賛美歌があります。地方から都会に出たクリスチャンが田舎の小さい教会を懐かしんで「いまもそこにあるだろうか」と歌っています。教会が成長している時期には、郷愁を誘い、信仰の原点に立ち返ろうという前向きな意味になるのですが、少子高齢化が進む日本では、笑い事ではない厳しい現実が浮かび上がってきます。
日本のクリスチャンは人口の約1%という時代がずっと続いています。クリスチャン人口の増減はありますが、実の所、それは見事に国全体の人口に比例します。長い間、教会は人口の1%にしか届かないことを変わらずにやり続けているというふうにも言えます。
時代が変わっても教会は同じことを実直に続けることを美徳する日本人のメンタリティもありますし、変わらないことには安心感もあります。しかし時としてそれは時代とともに消え行くことをも意味します。
これからの時代に、私たちはどうしていくべきなのでしょうか。
1.断食と祈り
ルカの福音書に戻って来ました。前回の箇所で、パリサイ人と呼ばれる一派が、イエス様が罪の赦しを宣言したことに文句を言ったり、罪人と呼ばれる人たちと一緒に食事をしたことを不満をもらした様子を見ましたが、今日の箇所ではイエス様の弟子たちが断食と祈りをないがしろにしているのではないかと批判しはじめました。
現代の私たちは少しはお祈りしますが、断食となるとダイエットのためにする以外はほとんど経験がないのが普通ではないでしょうか。いったいパリサイ人たちは何をそんなにカリカリしていたのでしょうか。
旧約聖書の中で、断食をしないさい命じているのは唯一、9月下旬から10月中旬に行われる「大いなる贖罪の日=ヨム・キプール」のときの、丸一日の断食だけです。他にも断食をしたという多くの記事がありますが、それらはいずれも特別な願いがあったり、悔い改めを表したり、神に嘆きを訴えるというような場面での自発的なものでした。
ところがイエス様の時代から遡ること200年くらい前から、人々はある種の危機感と切実な願いを込めて断食と祈りを始めました。バビロン捕囚の時代からペルシャに支配権が移ってからエルサレムには神殿が再建されましたが、未だにダビデのような王も、新しい預言者も現れず、相変わらず外国の支配の中にありました。ペルシャ、ギリシャ、ローマと次々支配者は代わります。そのような中で神が約束した王国の再建がなかなか来ないのは、イスラエルが民族としての悔い改めや律法を守ることが足りていないからではないかと考えたのです。それで彼らは徹底して律法を守るだけでなく、週に二度、大抵は月曜日と木曜日に断食をすることと、一日に三回祈りの時を持つことを敬虔さの証としてするようになりました。その祈りは個人的なものではなくて、民族としての悔い改めと神がアブラハムに約束されたことに誠実であるはずだから、約束の王を起こして異邦人の支配から救い出してください、という祈りが中心的なテーマです。
そのようにして始まった定期的な断食と祈りは、習慣として定着し、ちゃんとしたユダヤ人なら、週に二度の断食と一日三回の祈りをするのが常識となっていました。イエス様と同じように「神の国が近づいた」と宣べ伝えていたバプテスマのヨハネの弟子たちでさえ断食と祈りの習慣を守っていました。それなのに、イエス様の弟子たちは断食をしないで好きなように食べたり飲んだりしているのです。そうした態度、生活に対する批判は、単に不真面目とか、信仰心が薄いということではなく、国の再興を熱心に待ち望む心構えがないんじゃないか、という批判です。愛国心が足りないんじゃないか、という批判に似ています。
みんなが守っている伝統や習慣を守らない人がいれば、その社会の中では変わった人とか、反抗的とみなされるのはどの世界でも良くあることです。それが神の約束や信仰の問題と絡んでいるとなおのこと縛りは厳しく、また破る人への当たりもきつくなります。
彼らの批判の根っこには、取税人のような罪人たちの存在や、お前たちのようにちゃんとルールを守らず、断食や祈りを通して神に熱心に悔い改め、祈らないから約束が先延ばしにされているんだ、という思いがあったのです。
2.すでに花婿は来た
パリサイ人たちの批判に対するイエス様の答えは花婿の友人たちに断食させるか、という風変わりな譬えで返されました。
イエス様はご自分を花婿にたとえるお話を他にもしていますが、そのアイディア自体は、当時の結婚式の情景に根ざしていますが、おそらくイザヤの預言と深い関係があります。イザヤ61章は、ナザレの会堂でイエス様が朗読し、このことばが今日実現したと宣言した箇所です。その続きの10節にこのように書かれています。「私は主にあって大いに楽しみ、/私のたましいも私の神にあって喜ぶ。/主が私に救いの衣を着せ、/正義の外套をまとわせ、/花婿のように栄冠をかぶらせ、/花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」。ここでも花婿、花嫁は救い主が到来するときの喜びを結婚式の時に登場を待ちわびていた新郎新婦に会場が湧き上がる様子になぞらえたものです。
つまり、イエス様がわざわざご自分を花婿にたとえたのは、この預言を意識した上で、そして当然パリサイ人や律法学者たちも知っていることを意識しつつ、イザヤの預言した花婿はもう来ている。主の霊が注がれ油注がれたキリストは、すでに来たのだと暗に言っているのです。
パリサイ人がこだわる断食と祈りはもともとが約束されたキリストによる王国が再建されることを待ち望むものでした。それに対して、イエス様はすでにその約束のキリストとしてご自分が来たのだから、もう断食と祈りに拘らなくてもいいのだと主張しているのです。
ただし、イエス様は断食や祈り自体を不要なもの、時代遅れなものとは言っていません。事実、ご自分もたびたび荒野や寂しいところに出かけていって長い時間一人で祈っておられました。
そしてイエス様と一緒にいて楽しく食べたり飲んだりしている弟子たちも「花婿が取り去られたら」つまり、イエス様が捕らえられ十字架につけられて殺されてしまう時には悲しみと悔い改めの中で断食するだろうとおっしゃっています。実際に彼らが断食をしたかどうかは書かれていませんが、そういう自発的な断食は信仰や嘆き、悔い改めを表すものとして有意義なこととして残るのです。
ですから、ここで問題になっているのは、断食や祈りは現代においてもされるべきかどうか、ではなく、時代をどう見るかです。今なお救い主を待ち望み、そのために断食と祈りを絶やさないのか、それとも救い主はすでにおいでになったのかということです。
福音書を受け取ったテオフィロと同時代の教会にも、クリスチャンはユダヤ人と同じように断食と祈りを習慣化すべきだと主張する人たちがいたかもしれません。そのような人たちに、その習慣の意味は何かを問いなおすことにもなったでしょう。罪の悔い改めや、悲しみや嘆きを表すために断食をしたいならそれは良いことだ。けれども、花婿である救い主はすでにおいでになり、十字架の死は果たされ、復活されたイエス様は今も生きておられるのです。イエス様を信じるクリスチャン生活の基本的なトーンは嘆きと悲しみではなく、喜びと感謝です。
そこでイエス様は続けて譬えを用いて、すでに救い主が到来した喜びの時代に生きる私たちに、どういう信仰のかたちをもつのが良いかヒントを与えてくださいます。
3.新しい皮袋
この譬えは3つの譬えが語られているようですが、「一つのたとえ」だとルカは記しています。いずれの話しにも、古いものと新しいものという似たような小道具が出て来ますのでちょっと混乱しやすいところがあるのですが、3つで一つということのようです。
福音のうちに秘められたいのちの力は律法と伝統に縛られた古い信仰の形に押し込めようとすればすべてを台無しにしてしまうし、福音の恵みの素晴らしさを知ったら誰もわざわざ律法に縛られたあり方を望んだりはしないということを示しています。
布が貴重だったイエス様の時代は「継ぎ当て」日常の光景でした。今でも、子どもが小さいうちはしょっちゅう穴をあけてくるから可愛く当て布をしてあげたり、趣味でリメイクをする人はやるようです。目的は何にしろ、継ぎ当てをする際に大事なのは布の重さと厚みを合わせること、そして最も重要なこととして伸縮性を合わせることだそうです。伸縮性のある新しい布をいい具合に伸びきった古い布につぎあてとして使うと、うまく馴染まず、新しい布の伸縮の力に耐えきれず破れてしまいます。
ぶどう酒を入れる皮袋も同じです。ぶどう酒を皮袋に入れるというのが、現代人にはピンと来ませんが、イエス様の時代は見慣れた光景でした。新しいぶどう酒は発酵が続いていたので、ケチって伸縮性が失われた古い皮袋に入れると発酵の圧力に負けて破れてしまうのです。ケチらずに新しい、張りと伸縮性がある皮袋に入れる必要がありました。
イエス様がもたらす福音のいのちの力、喜びは週に二度断食して日に三度祈らなければならないという、しきたりの中に押し込めようとしても無理だとイエス様はおっしゃいます。そんなことをしたら福音の持ついのちと喜びが押し殺されるたり、断食と祈りが本来持っている良さまで失われることになるでしょう。
三つ目の話しにもぶどう酒が出てくるし、最後に「古い物が良い」というセリフが出てくるのでちょっと混乱しますが、こちらは「良い物を味わったら、わざわざ味の劣るものは頼まない」ということがポイントです。古いぶどう酒と新しいぶどう酒では、一般的に「古い物が良い」と言われます。熟成されて角の取れた古いぶどう酒のほうが良い味とされていました。ぶどう酒に馴染みがなければ、他のもので言い換えることもできます。バリスタの入れた香りの高い美味しい珈琲を飲んだ後でおかわりとしてインスタント珈琲を頼む人はいないです。
キリストによる福音の恵みと喜びを知ったら、もう意味の無くなった宗教的慣習を伝統だから、という理由で守る必要はないし、そんなことは馬鹿げていると言っているのです。もちろん、何か理由があって自発的に断食することを否定しているのではありませんが、福音に根ざした新しい信仰の歩みの形に相応しくはない、新しい皮袋、新しい形が必要なんだということです。
ですから、使徒の働きやパウロたちの手紙を読んでいくと、クリスチャンであれば誰もが守るべきものとして教えられているのは、礼拝の仕方や断食などの習慣ではなく、神を敬う新しい生き方、夫婦や親子の関わり方の回復、神の家族とされた兄弟姉妹や隣人たちとの関わり方、福音を証しする使命に参加することなのです。
適用:これからの時代に
では、今日のイエス様の教えを現代の私たちの教会にはどう適用できるでしょうか。
現代の教会、私たちもそうですが、西洋の伝統を受け継いだ教会のあり方や習慣は、16世紀の宗教改革後から17世紀のプロテスタント教会が確立するころに由来のあるものがほとんどです。もちろん、オルガン一辺倒だった賛美の伴奏がピアノに置き換わったり、バンド演奏になったり、新しいタイプの賛美歌が歌われるようになるとか、礼拝にプロジェクターが使われるようになったとか、オンラインで配信されるようになったというような小さな変化はありますが、説教を中心とする礼拝プログラムの組み立ては殆ど変わっていません。また、教会の集まり方も、新約聖書には見られなかった礼拝堂に集まる仕方に変わったのは4世紀頃からで、だんだんに教会は人々の交わりそのものというより、会堂に集まることを意味するように変化して行きました。町の中心には礼拝堂があるヨーロッパならそれでいいですが、岩手のように教会のない町や何十分も車を走らせないと会堂にたどり付けないようでは、日頃からの神の家族の交わりなんて望めず、なんとか日曜日に礼拝に出席したり時々何かのプログラムに参加できれば良いほうです。そして、高齢になって車を手放したらどうやって教会に行こうか、という問題が出てきます。
今、私たちが慣れ親しんでいる教会のあり方や集まり方、礼拝の仕方というのは、過去のある時代に、その時に福音の素晴らしさを表し、イエス様の教えに立つやり方として、新しい皮袋として考えられ、実践され、定着してきたものです。パリサイ派の人たちから見たらびっくり仰天するような新しい皮袋ではあったのです。そして、いろいろと良い点があるのも確かです。
しかし、時代が変われば、最初は新しかった皮袋もだんだん固くなり、しなやかさが失われます。福音の喜びやいのちの力を入れておくには不十分になります。問題は、実際の現場ではたとえ話とは違って、皮袋が破れるより、本来あるはずの福音のいのちの力がすっかり鳴りを潜めてしまうということです。
私たちの教会に限らず、日本の教会では「伝統」と「前例」ということが大きな縛りになっているように思われます。他の国のことは良く知らないので日本だけじゃないのかも知れませんが、文化的にそういうことを大事にはしていると思います。それは良い面もあるのですが、変化への対応が遅れがちという弱点があります。
教会の集まり方、礼拝の仕方、何かしら教会員の中で問題が起こったときの対応の仕方、伝道のためのアイディアを考えるとき、伝統や前例が足かせになって思い切って新しいことができなかったり、細やかな対応ができなくなったりします。
例えば皆さんは教会員誓約を覚えていますか。何十年か前に書かれたものですが、おそらくその中身はアメリカの教会で使われていたものを元にしています。それは誰もが日曜日に教会に集まることができ、その当時、理想的なクリスチャンはこういう生活、という内容で、聖書的な根拠があまりないものもあります。厳密にやったらみんな誓約を破っているかもしれません。でもあまり内容を考えず、ずっとやってることだからと、ほぼ形式的に使っています。
イエス様がこれまで示してきたように、大事なのは伝統や慣習を守ることではなく、本当に人が救いを得、回復を得、福音がもたらす喜びを受け取り、神の恵みを証できるようになることです。
今日の午後、「みらいワークショップ」を行います。未来について考えるわけですが、10年後自分が生きているかも分からないという人がいるかもしれませんが、これからの時代のためにどんな教会を残してあげたいか、という視点で良いと思います。ぜひご一緒に楽しく考えていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
古いしきたりにこだわる人々に、新しい皮袋が必要なのだとイエス様はおっしゃいました。私たちは、この時代の私たちの教会にとってそれがどういう意味合いをもつのか問われています。
自分のために慣れ親しんだものを守ることから離れて、福音を必要としている人たちのため、次の世代のため、どんな新しい皮袋をもつべきなのか、どうぞ知恵を与えてください。午後のワークショップも導いてください。
イエス様のお名前によって祈ります」