2026年 3月 1日 礼拝 聖書:ルカ6:39-49
教会ではよく「成長」という言葉を使います。子どもが大人になっていくという意味での成長はもちろんのこと、信仰の成長や、教会が成長するということも語られます。
しかし「成長」という言葉に疲れを覚えたり、目的を見いだせなくなってしまうこともあります。現代はあまり成長を求めず現状で満足する人が増えているとも言われます。「成長戦略」なんて言葉が政治家の口から出ると、何か無理やりな感じがして胡散臭いなと思うときもあり、同じような空気を教会成長という言葉に感じてしまうことがあるのです。そこには何か、イエス様や使徒たちが意図した成長とは違った、とても人間的で歪んだ動機が紛れ込んでいるように感じるのかもしれません。
しかし、確かにイエス様は私たちが成長することを願っていますし、それは私たちにとっての幸いであり、またこの世界に対して福音の素晴らしさや希望を指し示すことにもなる大事な事柄です。今日もイエス様が弟子たちに語った言葉の続きを見ていきましょう。
1.十分に訓練される
今日の箇所では、イエス様が、弟子となった人たちを教えるために様々な譬えや比喩を用いながらお話になっています。つまり、クリスチャンになった人たちにどうあってほしいか、また何に気をつけて欲しいとイエス様が考えておられるかを知ることのできる箇所だということです。
最初にイエス様が私たちに語っておられるのは、十分に訓練される必要があるよ、ということです。まず39~40節を見てみましょう。
目の見えない人が目の見えない人を案内するとどんなリスクがあるでしょうか。二人とも穴に落ち込んだり、一緒に何かに躓いたりするリスクがあります。この譬えで前提になっているのは、イエス様の周りにいた弟子たちというのは、今はイエス様の弟子として学ぶ身ではあるけれど、いつかは他の人を導く者になるということです。クリスチャンがある程度の年数を経たなら教える立場になることを示す聖句があります。ヘブル5:12「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。」
職場で新人が入ってきたら指導を担当することになるし、同じチーム内で技術や経験を教え合うということがあります。家庭では台所仕事の仕方や部屋の整理の仕方を子どもたちに教えるでしょう。簡単な大工仕事や修繕の仕方を教えることがあるかも知れません。畑をやっていたら、どんな時期にどんな作業が必要か伝授する機会があるでしょう。同じように、すべての人が教会や神学校で人々を教える立場になるわけではありませんが、親として子どもに聖書を教えたり、先輩クリスチャンとして後輩を教えたりすることが当然のことと想定されています。ところが、ヘブル書の著者が手紙を書き送った人たちは、十分に訓練を受けず、教えられていなかったので、他の人を教えられなかったのです。それでも現実には子どもがいたり、教会の交わりの中には後輩のクリスチャンがいるわけですから、盲人が盲人の手引きをするような格好になって、一緒に躓いてしまうという悲劇が起こってしまうのです。
40節は私たちに謙遜に学ぶことで十分に人を教えられるようになるまでに成長できることを教えていますが、ここでのイエス様の強調点は十分な訓練なしに、学ぶことなしに人を教える立場に立ってしまうことの大きなリスクです。イエス様は、ご自身が天に帰った後は、多くの人が今目の前にいる弟子たちに、イエス様のことを聞きに集まり、福音について説明してくるようになることをご存じでした。私たちの周りにいる人たちがキリストについて、聖書について知りたいと思った時、いきなり教会を訪ね牧師に質問するなんてことは滅多にありません。多くの人たちが最初に質問を投げかけるのは身近にいるクリスチャンです。
クリスチャンになるということは、単に自分の問題をイエス様に解決してもらえる優待チケットをもらったようなものではありません。イエス様によって私たちの心と人生を新しくしていただき、私たちを通して、このイエス様の救いと恵みが拡がっていくものです。望むと望まざるとに関わらず、人はあなたを通してイエス様を知るのです。必死に学ぶしかないんじゃないでしょうか。
2.課題に気付いている
第二に、イエス様の弟子たち、私たちクリスチャンは自分の課題に気付いている必要があります。
41~42節をもう一度見てみましょう。
これもまた有名な譬えですね。何か、他人の罪についてあれこれ指摘するパリサイ人への批判のようにも見えますが、これはイエス様の弟子たちに対して語られたものだということに注意すべきです。自分自身の問題に気付かないまま、他人にあれこれ言いたがるのはパリサイ人に限らず、人間の性のようなものかもしれません。
最近、『日本宣教を阻む5つの障壁』という本を読みました。その中で福音がうまく伝わらない5つの最初のものとして挙げられているのが「私」、つまり自分のほうがすぐれているとか、正しいと思ってしまいがちが自分自身が最初の障壁なんだと指摘していました。「そんなことはありません」と多くの人は言いますが、お酒やたばこをやめられない旦那や同僚をどこか見下すような目や、クリスチャンの目から見て悪だと見なされることを平気で行う人に対する蔑む心が表情の中に現れてしまうことがあります。あの人はどうしようもない、ダメだと心の中で決めつけてしまうこともあります。そんなとき、私たちは相手の目の中のチリを気にしながら、自分の目の中の梁にまったく気付いていないと思うべきだとイエス様は語っておられます。
しばしば牧師や大きな影響力を持つ指導者、クリスチャン作家がお金や性的な問題を起こしてしまうことがあります。それはとても悪い影響を与えることです。若いころ大きな影響を受け、教えられたクリスチャン・ジャーナリストのスキャンダルに私も傷きました。そうしたことは時には信仰に疑いを抱かせてしまいます。親しい友人とこのことについてメールでやり取りをしていますが、心に抱えている闇に無自覚なままで大きな働きをするときに、恐ろしい罠があるのだと教えられています。
しかしこれは影響力の強い有名な指導者たちだけの話ではありません。イエス様はこの話を大勢の弟子たちに語っています。クリスチャンであれば誰でも有り得ることだということです。
教会は敷居が高いと言われることがあります。初めて来る場所に緊張するということだけではないように思います。
一方、イエス様の周りにいた人たちは確かに、自分の病気が治ることだけで満足するような、自分の都合だけでイエス様のもとに来ていた人たちですが、それでも、誰もイエス様のそばに来ることに敷居の高さを感じる人はいませんでした。それどころか、イエス様の迷惑をこれっぽっちも顧みずに朝から晩までひっきりなしに訪れ、イエス様の衣に触ろうと争うようにして押しかけました。
神様ご自身の聖さに触れて厳粛な思いになるならいいのですが、教会というのは自分より立派な人たちが集まる場所だ、賢い人たちの教えだ、自分たちが来るような場所じゃないと思わせてしまっているなら、それはイエス様の愛といつくしみではない何かを私たちが醸し出してしまっているのかも知れません。それは、私たちが気付かずにいる目の中の梁かもしれません。
もちろん完全な人はおらず、誰でも問題を抱えています。重要なのは、その問題、課題をちゃんと自覚し、謙遜であることです。
3.学んだことを実践する
第三にイエス様が弟子たちに教えておられることは、学んだみことばを実践することです。
43~49節でイエス様は譬えを駆使しながら、私たちが学んだみことば実践することについて二つの面から教えています。
最初は、43~45節です。良い木は良い実を結ぶというのは良く分かると思います。また、木はその実によって分かるというのもそうです。私はなかなか草花の見分けをつけられなくて、時々妻が植えた草花を雑草といっしょに草刈機で刈ってしまってがっかりさせてしまいます。花が咲いていると分かるのですが、葉っぱや茎だけだと分からないものが多くてこまります。
イエス様がこれらの譬えでおっしゃりたいことは、その人の内にあるものがその人の行動を決めるということです。私たちが、みことばをしっかりと心の内に蓄え、根づかせていれば、私たちの行動、言葉はみことばの性質を反映したものになります。
私たちの言葉や行動は、私たちの内にある考え方や価値基準、世界をどう見るかといったものによって方向付けられるものです。自分を偉く見せて人から称賛されるのが何より重要で価値のあることだと考えている人は、自然と尊大な態度や物言いをするようになり、自分の価値を認めない人や社会を敵と見做すでしょう。しかし、この世界を造られ治めている方がおり、この世界はいろいろ問題はあっても大事にすべき世界で、自分はその方の愛と恵みによって活かされ、この地上でなすべきことがある。そんな考え方が根底にあれば、文句を言うより自分にできることを見つけて喜んで奉仕するでしょう。
しかし、みことばを心に蓄えるだけで自動的に良い実を結ぶわけではないこと、もう一つの面として、聞いたことを行う必要がある、学ぶだけでなく実践することが必要だと46~49節で教えています。
今イエス様が語りかけている弟子たちは、イエス様を主と認め、文字通り「主よ、主よ」と呼びかける人たちでした。私たちも祈りの中で何度「主」と語りかけていることでしょうか。
「主」という言葉は、「主人」を意味する言葉で、奴隷が主人に対して使う言葉ですが、ユダヤ人はその言葉を神様に対して用いました。それは権威を認め、従う者であることを告白する言葉です。それなのに「なぜ…わたしの言うことを行わないのですか」と問いかけます。弟子たちはイエス様の教えを聞くために集まっていましたが、自分たちは病気を治してもらいたいだけの人たちとは違うと思っていたのでしょうか。それとも教えを聞いて満足したのでしょうか。もしかしたら私たちにもそういう面があるかも知れません。
しかし、もし私たちが聞いたみことばを実践するなら、私たちは岩の上に家を建てるように、揺るがない土台の上に人生を築けます。イエス様の教えたことを実際の生活、行動に適用することは簡単ではない時もあります。先週の箇所でも敵を愛しなさい、さばくより与える者になりなさいと教えられていましたが、それはクリスチャンが戸惑い、困難を覚えるイエス様の教えの代表的なものです。しかし出来ないとあきらめないで、聖霊の助けを信じて工夫しながら挑戦し続けるなら、私たちの心がみことばにしっかりと根ざすようになるのです。
適用:御国が拡大するために
弟子たちを見つめながら話し始めたイエス様の言葉を聞いて、弟子たちはまっすぐイエス様の目を捉え続けることが出来たでしょうか。あるいは、思わず目を伏せたり、視線を外してしまったでしょうか。
弟子としてしっかり歩むためには、十分に訓練される必要があること、自分の内なる問題・課題に気付き自覚していること、そして学んだみことばの上に実際に自分の生活や人生を建て上げていくことが必要です。
実は、このような歩みこそが、神の御国が拡がっていく道のりなのです。以前もお話ししましたが、神の国というのは、神様のご支配の恩恵が及ぶことです。神のご支配がみことばの学び、訓練を通して良い実を結んでいくための確かな備えがなされること、自分の内側にある罪や弱さに気付き、そこに神様が御手をおいて取り扱ってくださることを受け入れいること、そして学んだみことばによって、私たちの心と生活、人生全体が建て上げられていくことが、神の国が私たちの人生に拡がっていくことなのです。
さらに、このように私たちが御言葉によって人生全体を建て上げようとするとき、私たちを通して福音がさらに外側へと証しされ、人々に神の御国の祝福が届き、御国はさらに拡がっていくというのがイエス様や使徒たちが教えているやり方です。ところが、現実の教会では、個人の内なる問題に向き合うような取り組みや家族との関係がみことばを土台として造り変えられていくような段階をあまり重視しません。そういうことを取り扱うのは、余程問題が手に負えなくなって、ほとんど取り返しのつかない形に表面化してからです。
友人牧師が神学校で長い間開いている講座に参加している人たちの中には、傍目から見ると伝道熱心で牧師に忠実で元気な教会の中で実は傷付き、疲弊しているクリスチャンが相当程度の割合でおられるそうです。どうもイエス様が教えたような原則に立ってしっかり歩むプロセスを飛ばして教会の行事やプログラムのために奉仕者として動員されるので、自分自身の中に生きたキリストのいのちの力を感じられずにいるようなのです。
イエス様が弟子たちに十分に訓練されるべきだと言ったとき、それは聖書を知的にお勉強して終わりということではありません。知的な勉強も大事なのですが、それより重要なのは、聖書を通してつかんだ信仰の歩みや証しのための原則をよく考えて、自分の考え方、意識、願いなどが変えられていき、生き方を少しずつ変えていく取り組みです。そういうと難しそうに聞こえるかも知れませんが、料理をもっと上手くなりたいときに、近所の料理教室にいくようなものです。そこで新しい知識やテクニックを覚えたら、すぐに夕飯のメニューで試してみるでしょう。仕事のための新しい知見や資格を取ったらそれを活かす仕事をしたくなるでしょう。そして、最初からうまく出来なくても、確実にレベルアップしていることを感じられます。そんなふうに聖書から学び私たちの土台として根付かせていくのです。そして、自分の問題に正直に、あた謙遜に向き合い、たとえすぐに解決できなくても、自分にはこういう弱さがあると自覚しながら生活すること。そうやって聞いた御言葉を土台として人生を建て上げるなら、私たちはしっかりと歩み、福音の恵みを十分に味わい、御国が私の心や人生に確実に拡がっていることを実感できます。それにつれて、周りの人たちに証しをしたり、教えたりして、御国の拡大のためにも仕えられることを経験できます。
私たちはただ聞くだけの者ではなく、イエス様の弟子となったのです。イエス様の忠告、教えをよくよく考え、従う者になりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちはイエス様を救い主と信じ、まさに主とお呼びする者、弟子となりました。けれども、自分のことで精一杯な群衆と同じように、イエス様にお願いするばかりで、聖書通してイエス様から学ぶこと、自分の弱さや課題に正直に向き合うこと、みことばを土台に人生を築き直していくことには腰が重くなってしまう者です。
どうぞ私たちのうちに蒔かれた種が根付いて実を結びますように。岩の上に立てられた家のように、揺るがない人生となりますように。私たちを造り変え、成長させてください。恐れずに、面倒がらずにあなたの御言葉に学ばせてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」