2026年 3月 15日 礼拝 聖書:ルカ7:1-17
朝、目覚ましが鳴る30分位前に目が覚めると、聖書を朗読してくれるアプリを立ち上げて、その日の聖書箇所を聞く、というのが最近の習慣です。ただ、ギリギリまで起きられなくて聞かないでしまうことがありますが、アプリには「何日ぶん未読です」みたいな通知が来るので、どこかで挽回しようとします。また、朝起き掛けなのでぼうっとしてほとんど聞き流していたり、時にはふたたび寝落ちしてしまうこともあります。
皆さんはどうでしょうか。日々の暮らしの中で聖書を読んだり、アプリで聞いたりする習慣があるでしょうか。日曜日、礼拝に来た時に聖書に触れるので精一杯でしょうか。タイミングや頻度に違いはあるとしても、みことばに触れる時、どのような心持ちで触れているでしょうか。
今日は、ルカの福音書の続きの箇所に書かれている二つの町での二つの奇跡を通して、イエス様のことばはどのようなものであるのかをご一緒に考えてみましょう。
1.権威あることば
第一に、イエス様のことばには権威があります。
前回まで見てきた「平地の教え」と呼ばれている弟子たちへの教えを終えて、イエス様はカペナウムへと移動しました。カペナウムはガリラヤ湖の北側湖畔にあるガリラヤ地方の主要都市でした。
ちょうどその頃、カペナウムに駐留しているローマ軍の百人隊長のしもべの一人が病のために死にかけていました。
イエス様の評判を聞きつけた百人隊長は、イエス様なら助けてくれるに違いないと、使いを送ることにしました。ルカが丁寧に記録している出来事は色々と興味深いことがあります。
まず、百人隊長はローマの兵士ですから、ユダヤ人ではありません。つまり、ユダヤ人から見れば異邦人であったわけです。しかもユダヤ人からすれば自分たちの国を勝手に支配するローマの兵隊ですから、普通はあまり仲が良くありません。
ところが、この百人隊長がイエス様の元に送った使いというのが、3節にあるように、ユダヤ人の長老たちだというのです。
長老たちに仲介をお願いしたのは、ユダヤ人であるイエス様を異邦人である自分の家に招くと困るのではないか、いきなり異邦人が出向いて行くのはイエス様を困らせるのではないかと、ユダヤ人の習慣や気持ちをよく理解できていたのだと思われます。
長老たちが異邦人の頼みを聞いてイエス様に伝言を伝えに行っただけでなく、4節にあるように一生懸命お願いし、彼にはイエス様の助けを受けるだけの資格がある人物だと推薦までしているのです。それは5節にあるように、日頃からの百人隊長の街での振る舞いに理由がありました。彼は他の百人隊長のように横暴に振る舞ったり、力で脅して金を巻き上げたりするようなことはしませんでした。それどころか、街の人々を愛し、街のために自腹を切って会堂を立てたというのです。長老たちの振る舞いを見れば、百人隊長が人々の歓心を飼うために見事なパフォーマンスをしたのではないとが明らかです。彼は単に親切なだけでなく、聖書の神に対する信仰ゆえにそのようにしていたと言えます。
イエス様は躊躇うことなく百人隊長の家に向かいました。イエス様は一般的なユダヤ人と違って、異邦人の家に入ることを特に気にかけてはいなかったようです。
ところが、イエス様が向かっているという話を聞いた百人隊長はさらに友人に伝言を頼みます。わざわざ家まで来なくても、お言葉一つだけくださいというのです。彼は言葉の権威というものをよく知っていました。百人隊長はローマ軍の中では一番下の役職です。それでも部下は命令に従います。ですから、全てのものに対する権威を持っているイエス様がただ一言、病に対して命じてくだされば、それで癒されるはずだと信じているというわけです。
この信仰は単なる強い思い込みではなく、イエス様の権威が本物であることを知っていて、権威ある人のことばには本当に力があることを分かっている、そういう揺るぎない信仰でした。イエス様はローマの百人隊長がこれほどの信仰を持っていることに驚き、ついてきた群衆に向かって彼を賞賛しました。具体的なイエス様の癒しの言葉は書かれていませんが、友人たちが家に帰ると、病気の僕はすっかり元気になっていました。確かにイエス様のことばには権威があったのです。
2.憐れみ深いことば
第二に、イエス様のことばには憐れみが満ちています。
11節には、間もなくイエス様がナインという町に行ったことが書かれています。ナインの正確な位置については議論があるのですが、おそらくガリラヤ地方の南端の方にある町で、カペナウムから45km位、歩いて1日から1日半といった距離です。百人隊長のしもべを癒した翌日のことかもしれません。
イエス様の旅には弟子たちだけでなく、大勢の群集も一緒でした。この群衆は、カペナウムでイエス様が振り向いて語りかけた群衆です。そして、さかのぼれば、平地の教えの直前、6:17に記されている「ユダヤ全土、エルサレム、ツロやシドンの海岸地方から来た、おびただしい数の人々」のことです。この時点ではイエス様の人気がとんでもないことになっていたことがわかります。
イエス様が町の門に近づくと、ちょうど葬式の行列が埋葬のために門の外に出てきたところでした。町の門は何かあると人々が集合する場所で、埋葬の行列も、ここからスタートすることになっていたのです。ある母親の一人息子が死んでしまったのでした。しかもこの母親は夫を亡くしたやもめでした。夫を亡くした後、女で一つで一人息子を育て、二人で慎ましい生活をしてきたのに、その息子に先立たれてしまうとは、どれほどの悲しみでしょうか。悲しみと喪失感だけでなく、これから先の孤独と生活の不安を考えると居た堪れない気持ちになります。それはイエスさまにとっても同じでした。主イエスさまは彼女を観て深く憐れみ、「泣かなくてもよい」と声をかけました。
泣かなくても良い、というのは一般的には慰めの言葉としては言っちゃいけない種類の言葉です。愛する者を失ったときには悲しいものですから、その悲しみを涙と共に注ぎ出さないと、心の中に痛みとして残ってしまいます。死に対して抗う力がない私たち人間はむしろ「泣きなさい」「泣いてもいいんだよ」と言うべきです。
しかし、イエス様は葬式の行列を止めるように棺に手を触れます。棺を担いでいた人たちはその歩みを止めました。そしてイエス様は「若者よ、あなたに言う、起きなさい。」
すると死んでいた若者は棺の中から起き上がって、勢いよく話始めたではありませんか。
私は3年前の復活の際に、意識を取り戻してからすぐに話すことができませんでした。口や喉の筋肉が硬くなってしまって、発声するのが難しかったのです。ですから、喋るためにリハビリが必要でした。この若者が死んでからどれほど経っていたかはわかりませんが、死後硬直は息を引き取ってから2~3時間で始まりますから、蘇生したとしてもすぐには喋れないはずです。しかし、イエス様の奇跡は完璧でした。いつものように、いきなり完全な状態に回復するのです。たとえ死んだ人を生き返らせる場合でも同じでした。
この出来事は人々の驚き、畏怖の念を引き起こし、神が偉大な預言者を遣わしてくださったに違いないとか、神がご自分の民を顧みてくださったなどと口々に神を讃えました。そしてその噂は17節にあるように、ユダヤ全土とその周辺の地域一帯に広がりました。ガリラヤ地方の町での出来事なのに、なぜユダヤの全土へと話が広がったのかというと、イエス様についてきた群衆がそれぞれ地元に帰って自分たちが観てきたことを話したからでしょう。
3.イエスの憐れみとは
ここでイエス様の憐れみについて少し立ち止まって考えてみたいと思います。
イエス様は大勢の病人をいやし、悪霊に取り憑かれていた人たちも自由にしてあげました。またケガレとみなされていたツァラアトに冒された人をいやし聖めました。これらの奇跡は預言されていたメシアによってもたらされる神のご支配のしるしという意味がありました。そして、数は少ないですが、死んでしまった人を生き返らせています。一つはこのナインの町でやめもの息子を生き返らせたケース。もう一つは会堂管理人ヤイロの娘、もう一つは友人であるマルタとマリアの兄弟ラザロのケースです。
いずれもイエス様の力が人々の想像を遥かに超えるものだったことが、目撃した人たちの反応から分かります。しかしルカの福音書で注目しているのはイエス様の力そのものより、死んだ者、残された者に対する憐れみの心です。
イエス様は死に直面した人をかわいそうに思っただけでなく、その憐れみのゆえに生き返らせてしまったのです。「可哀想に、気持ちはわかる。今は泣けるだけ泣いて、ゆっくり死を受け入れていこう」というのではなく、死を無かったことにし、生き返らせてしまいました。これは何を意味するでしょうか。
イエス様は母親の悲しみに共感して哀れんだだけでなく、死が人を支配し、苦しめていることそのものを悲しんでいるのです。それは天地創造の時に全て良いものとして造られた本来の姿からかけ離れた姿です。この出来事はイエス様が私たち人間を支配する最後の敵である死をも滅ぼそうとしていることを示しています。もしイエス様が最終的には死そのものを滅ぼそうとしているのでなかったら、こんなふうに一時の感情によって若者を生き返らせてしまったら、人々にありもしない希望を抱かせることになります。
パウロはコリント書で別な言い方で説明しています。「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう」。そしてこう続けます。「そしてキリストが蘇らなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなた方の信仰も空しいものとなります。」
イエス様はやがてご自分が十字架の死から三日目によみがえることで、復活の初穂となり、イエス様を信じてそのいのちをいただいた人々が後に続いて、来るべき日が来れば復活することを思い描いていました。イエス様が十字架の死と復活を通して与えようとしている救いが、最終的には死を滅ぼして復活をもたらすものだからこそ、ケースとしては少なかったけれども、死んだ人を生き返らせました。そして、人が死に縛られていること、その死がもたらす悲しみ、死にまとわりつく苦しみは悲しむべき状態であり、憤りさえ覚えるのです。
諸行無常の考えが染み付いた日本人は死ぬことを自然なこととして受け入れることで苦しみから逃れようとします。生きとし生けるもの全てはやがて命が尽きる。やもめの息子のように時に順番が入れ替わることはあっても、いずれ自分の番が来るものだと考えます。それはある面で正しいと言えます。しかし、イエス様は死は終わりではないということを示します。そしてイエス様にはその権威があり、その言葉は死にさえも勝利する本物の権威があるのです。
適用:おことばをください
イエス様がご自身の復活によってさし示した死に対する完全な勝利は、私たちがやがての日に体を持って復活する時に完成します。それまではやはり、この地上で限りある人生を送り、時がくれば地上での生涯を終えることになります。
また復活されたイエス様は天に挙げられましたが、それは私たちの世界からかけ離れた場所、例えば空の彼方とか、宇宙の果てではなく、この世界と隣り合った神様の領域です。こちらからは行くことはできませんが、イエス様の方からは近づくことができます。ですから、イエス様は「わたしを見なくなります」とおっしゃいましたが、他方では「いつまでもあなたがたとともにいます」ということができました。ですから私たちはイエス様の姿を直接見ることはできなくても、その存在をありありと感じ取ることができます。
そして、私たちはこの人生の中でイエス様のおことばに力づけられ、励まされ、教えられて歩むことができます。それは聖書を通してです。聖書を読むときに、真剣に聖書を学ぶときに、聖書の内容を教える誰かの話を聞いたり読んだりするときに、記憶の中にある聖句を通してでも、聖霊が働いてイエス様のことばを私たちに届けてくれます。聖書に印刷されている文字は、それ自体何か特別な力があるわけではありません。呪文が書かれたお守りや護符のような効果はありません。しかし、その印刷された聖書の言葉、あるいは誰かが読んだ聖書の言葉とともにイエス様が私たちに語りかけます。聖霊がその手助けをしてくれます。
そして私たちが、みことばから力をいただいたり、慰めを受けたいなら、イエス様の言葉にはその権威があると、百人隊長のように理解し、信じる必要があります。
百人隊長にとって、しもべの病気は手に負えないものでしたが、イエス様にはそれを追い払う権威があると信じました。やもめの母親にとって息子の死は受け入れ難い悲しみでしたが、哀れんだイエス様の方から語りかけいのちを取り戻してくれました。
イエス様のみことばは、私たちが手に負えない課題に対しても力があること、私たちが嘆きや悲しみの時にも慰めを与えてくれます。
あるときは悔い改めるべき罪が指し示されるかもしれません。あるときは、人生の道標となるような導きを受け取るかもしれません。死の淵から戻って来られるような奇跡はそう簡単にはないかもしれませんが、それでも死を超えた希望があることを思い出させてくれるでしょう。人生には悩みや戦いがつきものですが、あらゆる苦悩と重荷は大きな報いをもたらしてくれることを教え、自分が背負うべき重荷を担う覚悟を与えることでしょう。
イエス様が語ってくださっていると、なかなかわからない時もあることでしょう。朝の起き掛けに朗読された聖書を聞き流しているだけだと、時折何か気付かされることもありますが、多くの場合、ぼんやりと聖書の世界に入り込んでいるだけだったりします。
悩みが深い時には、どの聖書の言葉もピンとこない、ピッタリこない、なんてこともあります。預言者エリヤも燃え尽き症候群になった時に、なかなか神の声を聞けずに山の中を歩き回りましたが、最後には静けさの中で神の語りかけを聞きました。イエス様が沈黙を守っている時には、そのときは意味がわからなくても、何かの意図があります。そして、信じて求めているなら、みことばを通して語りかけてくださるときが来ます。
権威を信じてイエス様のお言葉をくださいと願った百人隊長のように求め、憐れみを受け取ったやもめの母親のように、嘆く心をそのままイエス様に差し出しましょう。
祈り
「天の父なる神様。弟子たちややもめの母親がイエス様の言葉を聞いたようには、今の私たちは直接お声を聞くことはありませんが、イエス様は、今も私たちに語りかけてくださいます。
どうぞ、イエス様の権威と憐れみを信じて、ただお言葉をくださいと祈るものであらせてください。
今この時も、イエス様は私たちが直面するあらゆる問題や悩みを遥かにしのぐ権威を持っておられること、私たちの嘆きを知り哀れんでくださる方であることを感謝します。どうぞ、お語りください。
イエス様のお名前によって祈ります。」