2020年 4月 12日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ20:24-29
世界中を覆っている新型コロナの脅威の中で、世界の諸教会は、どうやって礼拝と交わり、宣教の働きを続けていけるか、どういう形ならできるかということに悩みながら歩んでいます。アメリカの***さんから昨日来たメールでは、10人以上で集まることができないので、家にこもっているそうです。教会には行けず、ネットで礼拝に参加し、まるで最初のイースターの時のように、家のドアに鍵を掛けてイースターを迎えるのだと書いてありました。
先週は、いよいよ緊急事態宣言が出され、皆さんも少し緊張なさったかも知れません。大船渡教会でも集まっての礼拝はしばらくお休みにし、ご自宅で礼拝をすることになりました。どうぞ覚えてお祈りください。
もちろん、礼拝式にどう参加できるかというのも重要なことですが、もっと切実な課題もあります。仕事上での人との関わりや、自分や家族の健康被害、単に感染の恐ろしさだけでなく、引きこもった生活で身体や心のバランスが崩れやすくなったりもします。
そういう現実の中でイエス様の復活は、今も希望であり続けるでしょうか。もちろん答えは「イエス」です。しかし、それはどういう意味でしょうか。今日はトマスの物語を通してイエス様の復活が今の私たちにどのように希望であるのかを学んでいきましょう。
1.見て信じた弟子たち
第一に、人間は基本的に、見ないとなかなか信じない者です。
トマスのお話はとても有名なので、多くの方は何度もきいたことがあるでしょう。
「疑い深いトマス」なんて不名誉なあだ名まで付けられて、可哀想ですが、ギリシャやロシアといった正教会では、逆に「研究を好むトマス」と呼ばれていて、この辺は受け止め方の違いが面白いです。伝説によれば、後にトマスはインドに渡って福音を伝えたと言われています。もっとも、伝説の類は、かなりの眉唾物もあるので鵜呑みにすることはできませんが、それでもあの疑い深いトマスがキリストの復活の証人として福音を伝え続けたことは間違いないことです。
さて、トマスの話では、当然、疑い深かったトマスに注目がいくわけです。25節でトマスが仲間の弟子たちに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言っていますが「それはけっこう言い過ぎじゃないか」、「トマス、だいぶ意固地になってるなあ」という印象を受けます。あるいは、本当にトマスは科学者気質で目で見たものしか信じない姿勢の持ち主だったのでしょうか。
しかし、今日注目したいことは直前の仲間の弟子たちの言葉です。「私たちは主を見た」です。
信じないと言い張っているトマスに、他の弟子たちが「俺たちが見たと言ってるのに、なんで信じないんだ」と言ったのかどうかは分かりませんが、他の弟子たちもまた、日曜の朝に、マリヤたちが墓に行ったら空っぽで、よみがえられたという天使のお告げを信じられずにいました。イエス様は最初、マグダラのマリヤに姿を見せましたが、その話しも半信半疑で聞いていました。二人の弟子がエマオに帰る途中、道すがら一緒に歩き聖書を教えてくれた方が、イエス様であることに気付いて、慌てて戻って来て他の弟子たちに伝えたのですが、それでも完全には信じられませんでした。夕方、部屋に鍵を掛けて閉じこもっている時にイエス様が現れた時でさえ、まだ半信半疑で、幽霊じゃないかと怖がる者もいたくらいで、しばらくやりとりをしてからようやく信じたのです。
使徒たちにはイエス様の復活の直接の証人という役割があったので、イエス様を直に見ることは必要でした。けれど、確かに彼らも、見たから信じたのでしたし、そこはトマスと同じです。
私たち人間は見ないと信じません。自分の目で確かめて、確信をもって何かをするというのは、神様が与えてくださった能力の一つではあるのですが、信頼すべき方を信頼できない、信じ合うべき仲間を信じられないという悪い方に働いてしまうこともあります。
旧約時代から、神様は見ずに信じることを求めて来ました。他の民族の宗教がどれも、神々の像を持ち、ご神体があり、信仰のよすがとなるものがありますが、神様は頑なに「偶像はならぬ」とおっしゃってきました。偶像を持ち始めると、生きておられる目に見えない神様より、目の前にあるモノそのものが大事になってしまうのは当然の成り行きです。しかし、本当の信仰、信頼は、自分の目で見ていない方を信じ、まだ実現していない未来の約束を信じて、今を生きる信頼なのです。弟子たちは、復活の日の直後からその大事なレッスンを受けていたのです。
2.平安があるように
第二に、イエス様を信頼することが私たちに平安をもたらします。
26節に、イエス様が再び弟子たちの前に現れたときの様子が描かれています。今度はトマスもいました。
「八日後」ということは、イエス様が復活されてからちょうど一週間後の日曜日ということになります。弟子たちは、ユダヤの長老や祭司長たちの目を恐れて家に閉じこもり、戸には鍵を掛けていました。
そこにイエス様がどこからともなく現れ、真ん中に立ってこう言われました。「平安があなたがたにあるように」
これは前の週の日曜日に最初に弟子たちの前に姿を表したときにも言われた言葉です。19節「平安があなたがたにあるように」
これはユダヤ人が一般的に挨拶の言葉として使う「シャローム」ということなのですが、しかし、イエス様はそういう一般的な、あいさつをしたわけではなく、その挨拶が持っている本来の意味で、本当に弟子たちに平安を与えようとしておられたのではないでしょうか。
ヨハネ14:27節を開いてみましょう。この箇所は、イエス様が十字架に付けられる前夜の最後の晩餐での弟子たちとの会話の一部です。イエス様は何度か「心を騒がせてはなりません」とおっしゃっていますが、ここでもそう言われます。そして「わたしはあなたがに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」と特別な平安を約束されています。あのとき約束していた平安が、いまあなたがにあるようにと言っているのです。
この世の平安、安心は、目で見えるものに確かさを求めようとします。不安の中にいた弟子たちなら、長老たちの監視の目が緩むとか、人々が他のことに関心を向け始めるとか、息を潜め部屋に隠れているとき扉に鍵がかかっていることで安心するかもしれません。
しかしイエス様が与える平安は、死を打ち破ったイエス様が復活された方として、弟子たちとともにいることで与える平安です。
この新型コロナウイルスの大きな災いの中で、目に見えない神様、よみがえられたイエス様を信頼する、死に打ち勝ったイエス様を信頼する、ということには特別大きな意味があります。
世の中では、安心を得ようと多くの人が様々なことをします。マスクや消毒液の買い占めや食料品の買い占めをしてみたり、免疫をあげるという食べ物や飲み物の情報を探し出したり、やれマスクを配れだ、経済的な保証をしろ、もっと外出規制を強化しろだと、これはもう際限がありません。もちろん、そういう対策や、自己防衛は大事です。教会でも毎週のようにやります。でも、それは対策であって、平安を与えるためのものではないことに、私たちは気付くべきです。そうした対策は、状況が変われば無意味になるし、それで得られていた安心もあっというまに消え失せます。
イエス様の平安は、世が与えるのとは異なる、状況が変わっても、たとえ死を迎えることになっても変わることのない平安です。よみがえりの主がともにおられ、私たちをそのいのちのうちに守っていてくださるという平安です。イエス様はまだ恐れの中にあった弟子たちに、そういう平安を与えようとしておられるのです。
3.信じる者になりなさい
第三に、今日はこれで最後ですが、イエス様はその平安を、信仰を通して与えてくださいます。
弟子たちの真ん中に立たれたイエス様は、トマスの方を向いて、トマスに語りかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエス様はトマスが言い張っていたことを知っていました。だから「指をここに当ててみなさい。わき腹の傷跡に手を触れてみなさい」と言われました。
トマスはイエス様に触れるまでもなく、「私の主、私の神よ。」とイエス様が生きておられることを信じ、イエス様が確かに救い主であり、神であることを信じて、叫ぶように告白したのです。
しかしイエス様は彼に言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
もちろん、これはトマスや他の弟子たちに言われたことではあるのですが、この後の全ての人に語っておられる言葉でもあります。イエス様が天に帰って、誰も直接お会いすることのできない時が来たときに、イエス様が生きておられ、共にいてくださる事を、見ずに信じることが求められるのです。直接の目撃者である弟子たち以外には、誰もが信仰によってイエス様が生きておられることを信じ、その信仰を通して約束された平安を頂くことになるのです。
トマスや弟子たちのように、見ないと信じられない、というところに留まったままなら、後の時代の人々、ユダヤの外の人、ましては2000年後の地球の裏っかわの私たち日本人に救いは訪れようがありません。しかし、信仰は見ずに信じるということを可能にします。見てはいないけれど、イエス様が私たちのために十字架で死なれ、よみがえって今も生きておられることを信じる時、私たちはイエス様がともにいて下さることを感じ始め、私たちの心の内に平安をもたらしてくださいます。
まだ見てはいないけれど、イエス様が約束を果たす方であることを信じ、再びおいでになる方であることを信じる時、私たちには希望と忍耐する力が沸き起こってきます。
今、私たちの周りでは「見えないと信じられない」「より明確な保証がないと安心できない」「手元においておかないと心配でしかたがない」ということが溢れています。
そういう方法で安心を得ようとすると、いくらあってもどこか不安です。実際の危険性や本当に心配しなければならないこと以上に不安で恐れに支配されてしまうのです。
しかし、イエス様を信じる者、つまり私たちが赦され、新しく生きる者となるためにイエス様が私たちの罪と死ののろいを背負って十字架で死なれ、三日目によみがえり、目には見えずとも今も生きておられることを信じ、そのイエス様に信頼して歩む時、私たちは平安を取り戻すのです。
トマスのように、疑う気持ちが湧いてくることがあるでしょう。弟子たちのように不安や恐れに支配されてしまうことはあるでしょう。しかし、その度に私たちは何度でも立ち戻るのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださるイエス様を信じる者、信頼する者になりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
主のよみがえられた日を覚え、記念するイースター礼拝を捧げることができ、心から感謝します。
受難週であった先週は、世界中が恐れと苦しみの中に置かれていました。
そしてイースターを迎えた今日も、復活の朝を迎えた最初の弟子たちが鍵を掛け部屋に閉じこもっていたように、新型コロナウイルスの影響で共に集うことができず、家で過ごしている多くの兄弟姉妹が世界中にいることを覚えます。
また、まことの神様からの平安を持たない人々が、恐れと不安に支配されたままであることを覚えます。
死を打ち破った、いのちの主であるイエス様。どうぞ、私たちの心に触れ、励まし、慰めを与え、約束の平安を満たしてください。
神を愛し、兄弟姉妹を互いに覚えあい、隣人を愛して仕える者として今週も私たちを遣わしてください。
よみがえられた、今も生きておられる主イエス・キリストの御名によって祈ります」