2020-05-10 語り継がれる二人

2020年 5月 10日 礼拝 聖書:マタイ26:1-16

 先日の葬儀では、ある意味貴重な体験をしました。新型コロナの影響で、人数が少なかったというだけではありません。火葬で待っている間も、持ち込んだ飲み物以外は飲食禁止になっていましたので、1時間半の間、普通なら何かつまむものがあって会話が止まっても何とか間が持つものですが、ちょっと手持ち無沙汰で、みな自分のペットボトルを持ったまま時折お話をし、その後また沈黙が流れるというような時間がしばらく続きました。

それでもポツポツと**兄の思い出や、十七年前に亡くなった**姉の思い出が語られ、ほんの少しだけ、お二人の人生に触れることができました。終わり頃にはかなり暖かい雰囲気になりました。

こうして、亡くなった人の人生を語ることは、生きている者にとってはとても意味のあることです。親であれ、肉親でなくても人生に影響があったり、関わったりした人との思い出や、彼らが後の時代に託した願い、時には彼らとの間にあった葛藤やいろいろと割り切れない思いなどが、やはり今の自分を作っています。

今日登場する二人の人物は、私たちとは直接関わりがありませんが、しかし長い年月、語り継がれて来た彼らの人生の一コマ、マリヤの香油注ぎとユダの裏切りは、愛と裏切りという私たちのうちにも起こり得る出来事として、深く語りかけるものがあります。

1.一つ屋根の下で

第一に、愛と裏切りは一つ屋根の下で姿を表しました。愛はとても美しい場面として、裏切りは闇の中で密かに進行しました。

26:1に、今日の出来事がいつ起こったかが記されています。「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。」

イエス様の最後のエルサレムでの一週間の火曜日のことです。朝から律法学者やパリサイ人たちと議論された後、夕方、エルサレム郊外に戻り、エルサレムと谷を隔てた丘から町を眺めながら弟子たちにエルサレムの最後と、この世の終わりについて教えておられました。

その話しの最後は、イエス様が王として、裁き主として栄光のうちに帰って来られるというお話でした。しかし、イエス様には、その前にしなければならないことがありました。

2節「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

すでに日没が過ぎ、ユダヤ人の暦では日付が変わり、水曜日になっていました。あと二日で、つまり金曜日の夕方には過越の祭の安息日が始まります。その日に、イエス様は十字架に付けられなければなりませんでした。

そのようなイエス様の予告に呼応するかのように、大祭司カヤパの家には祭司長や長老たちが集まり、どのようにイエス様を捕らえ、殺そうかと密議がこらされていました。

しかし、このときのエルサレムには過越の祭直前と言うこともあって、大勢の人々が集まっていました。もちろん、イエス様の評判を聞きつけて来た人たちもいますし、イエス様や弟子たちについてガリラヤやユダヤから来た人たちもいます。つい、数日前に、人々がイエス様を大喜びで迎えた様子も彼らの目に焼き付いていました。5節で「祭の間はやめておこう」と言っていますから、彼らの計画では、何とかイエス様を捕らえる口実を作り、祭が終わって人々が町を離れた頃合いを見計らって殺害計画を実行しようということだったのかもしれません。しかし、祭が終わってしまえば、イエス様と弟子たちもガリラヤに帰ってしまうので、祭が終わる前に何とかしなければならず、彼らもまた焦っていたわけです。

ところが、彼らにとっては思いがけない展開によって、事は急ピッチに進み、イエス様は過越の祭で献げられる犠牲の子羊のように、人々の罪を背負って殺される事になってしまうのです。

大祭司の家でそんな密談がされている間、イエス様と弟子たちはシモンという人の家で食事のために集まっていました。おそらく宿泊もシモンの家ですることになっていたのでしょう。その食卓が愛と裏切りの舞台となりました。

「ツァラアトに冒された人シモン」というのは、一種のあだ名です。皆からそう呼ばれていたのでしょう。かつて汚れた病と言われる病気にかかっていましたが、イエス様に癒していただいたのだと思われます。というのも、もしその病気のままだとしたら、汚れた者とされ、友人を家に招くなんてことはできないからです。彼のあだ名は、かつて彼がどんな悩みと苦しみの中にいたか、そして彼がどれほど大きな恵みを受けたかを表していました。

2.愛と献身

第二にシモンの家でイエス様に対する愛と献身が示されました。

女性がイエス様に香油を注ぐという話しは、4福音書全てに記されています。ルカだけは、別の人の話を書いていますが、マタイとマルコとヨハネは同じ出来事を書いています。ただしヨハネは書く順番がズレていて、あたかもエルサレムに入場する前の週のようになっていますが、それはまた別の意図でそのようなまとめ方がされたものと思われます。実際の日付は、火曜日の夜のことです。

そのヨハネによると、シモンの家には、死人の中からよみがえらせてもらったラザロとその兄弟にあたるマルタとマリヤ姉妹がいました。そして、イエス様に香油を注いだのは、そのマリヤだと記されています。

マリヤは非常に高価な、具体的には300デナリですから、4、500万円くらいは価値のある香油を持って来ていました。量としては1リトラ、340グラムくらいです。比重が分からないので、何ミリリットルかは分かりませんが、片手で持てるくらいの小さい壺でしょう。シャネルの香水だってそこまで高くはありません。

マルコとヨハネはこの香油がナルドの香油であったと書いています。ナルドの香油は特別なもので、ヒマラヤの高山植物から精製された油で、インドから輸入されたものでした。非常に高価な贅沢品で、特に埋葬の時に遺体に塗るために用いられたと言われます。

マリヤはその壺を割って、ぜんぶ使い切ってしまいました。マタイは頭に注いだと書いていますが、ヨハネは足に注いだと書いています。しかも、自分の髪でイエス様の足を拭ったとあります。頭から足まで油を注ぐというのは、まさに遺体に塗るイメージです。

家中が香油の香りに包まれ、むせかえるほどだったでしょう。料理の匂いも味も分からなくなるほどだったに違いありません。

マリヤが埋葬の備えという意識があったかどうかは分かりませんが、間違いなく、それはイエス様に対する愛と献身の表れでした。イエス様の頭に油を注ぐ事はイエス様が王であり、自分はその民であるという気持ちの表れ。足を洗うことは奴隷の仕事でしたから、足に香油を注いで髪の毛で拭うことは、自分がイエス様のしもべであり、最大限のへりくだりを表していたと言えます。

その様子を見ていた弟子たちには、まったくの無駄遣いに見えました。8節には憤慨したとまで書いてあります。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに」。

確かに、香油を注ぎだしてしまったらそれっきりです。けれど、もし、大切に思っていた方が亡くなり、その埋葬のために香油を用いたら、そんな言い方はしなかったかも知れません。お葬式の時のお花は、普通のお花よりかなり割高ですが、それでも無駄な事とは考えず、悲しみと愛や感謝を表すために美しく飾ろうと考えます。

イエス様はそんなふうに、マリヤの行為を「良いことをしてくれました」「埋葬の備えをしてくれた」と受け止めました。

しかも「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」とまで言われました。

私たちの為に死なれたイエス様に対する、まことに相応しい応答として、マリヤの愛と献身は私たちの模範です。

3.密かな裏切り

第三に、同じ屋根の下で、密かに裏切りが始まっていました。

マリヤの行動を弟子たちが寄ってたかって責めましたが、ヨハネの福音書によれば、その中心にいたのが、イスカリオテのユダであったことがはっきりと記されています。

ヨハネ12:4「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。」

そして、ヨハネはこのように解説しています。6節「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」

その場にいたマタイもヨハネも、その時はユダの密かな罪も、裏切りもまったく考えもしなかったことでしたが、あとあと考えて見れば、そして、ユダが首を吊って死んだ後で、彼が残したものを調べて、彼の中にあった闇は明らかになりました。

シモンの家でマリヤがイエス様に対する愛と献身を美しく表しているとき、ユダの心の中にあった闇がみるみる具体的な形となっていき、最終的には夜が明けた翌日、水曜日に裏切り、大祭司の家に向かうことになります。

愛の証しとも言える香油の香りがまだ強く残るシモンの家をでたユダは、もう一つの舞台である大祭司の家に向かいました。そこには権威と富を持つ人達が集まっていましたが、悪意と憎しみという悪臭が漂う家です。

民衆の反感や騒ぎを起こさないように、どうやってイエス様を捕らえたらいいか答えを探していた祭司長や長老たちにとって、ユダの訪問は思いがけない解決になりました。

自分の師であるイエス様を裏切るというユダが、良いタイミングで合図をくれることになったのです。彼らにしてみれば、一番難しいところを、イエス様のすぐ近くにいる者が引き受けてくれるというのですから「渡りに舟」です。

15節のユダの言葉を見ると、祭司長たちの言い値で良いと言っているようです。彼らは裏切りの代価として、銀貨三十枚を与えました。それは奴隷を売り買いするときの、奴隷一人あたりの相場でした。彼らにすれば、銀貨三十枚でも、安く済んだと思ったに違いありません。

ユダがなぜイエス様を裏切ったのか。いろいろな推測がされて来ました。私も、考える度、学ぶ度に、ああじゃないか、こうじゃないかと思わされて来ました。

預かっていたお金からくすねていたことから、金に汚い面があったのも事実です。イエス様が期待していたようなイメージの救い主ではなかったことに気付いたのだという、最近好まれる説もなるほどです。じゃあなぜ報酬を求めたのか、ということにもなります。

あとでまた見る事になりますが、ユダは自分の裏切りによってイエス様が処刑されることになるとは考えていなかったようです。やはり、金に対する執着が彼の弱点だったのでしょう。それはあまりにも単純すぎるように感じますが、そんな小さな心の闇を放置しておくとサタンはまんまとそこを突いて恐ろしい裏切りをさせようとするし、案外、私たち人間はそういうことに弱いのだと知っておく必要があるように思います。

適用 私たちの捧げもの

イエス様に香油を注いだマリヤと、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダ。この二人のことは、イエス様の十字架の物語、すなわち福音が語り伝えられる時に、どんな時代でも、どんな世界でも、語り継がれて来ました。

イエス様の十字架の二日前の夜、一つ屋根の下、麗しい食卓の風景の中に、もっとも美しい愛と献身、そして裏切りがありました。

それは、マリヤとユダという二人の個人的なイエス様への愛と信頼、信仰であり、また失望と背信ではあります。しかし、同時に、私たちを救う方が無力に十字架で死んだのは私たちのためである、という福音のメッセージに対する、すべての人間の応答の代表のようにも見えます。

私たちのために死なれた方を、私のための救い主であると受け止め、イエス様に対して愛と信頼を献げるのか。それとも、そんなことで私が救われるわけがない、そんなのは私にはどうでもいい、それよりは私の欲しいもの、私の関心、私の理想のほうが大事だと、背を向け、自分のうちにある闇に捉えられるままにするのか。

ベタニヤのマリヤは、イエス様がエルサレムに行ったり、帰ったりする途中に何度かお会いするくらいしか出来なかったでしょう。それでも、その都度、マルタが「なんで手伝わないの」と苛立つほどに、少しでもイエス様のそばにいて教えを聞きたいと願い、何よりもその時間を優先し、最期の時には、最大限のものをもって、献身の想いを表しました。

イスカリオテのユダは、3年半、四六時中イエス様とともにいて、他の弟子たちと同じようにイエス様から愛され、直接教えられ、権威を与えられ、彼もイエス様の名によって病人をいやし、福音を語り、悪霊を追い出したりもしたに違いないのに、心のうちにある金に対する執着か、自分の救い主に対する勝手な期待かは分かりませんが、その小さな闇をそのままにしておいたために、最後の最後に悪魔にからめとられ、裏切ることになってしまいました。

他の人たちはマリヤの行為を全くの無駄だと思いました。でも本当に貧しい人を気に掛けてたわけではなく、「もったいない」ということの体の良い言い訳です。特に、自分の得にはならないユダにとっては、腹が立つほどに愚かに見えたことでしょう。

たとえ他の人が見て、無駄だとか、もったいないと言ったとしても、それが私にとってイエス様の愛と恵みい対する感謝と愛、尊敬を表すのに最善だと思うなら、喜んで献げる。そういう信仰をイエス様は喜んでくださいます。イエス様は300デナリの香油をかけてもらう必要があったわけではありません。それがなくてもイエス様は十字架の苦しみを受ける覚悟は出来ていましたし、マリヤのような人が一人もいなかったとしても、やるべきことに変わりはなかったのです。しかし、そのような信仰を喜びました。

誰かのそのような献身の姿に、称賛や感謝、尊敬よりも「もったいない」「無駄だ」という冷ややかな想いや、ねたみや苛立ちを感じる時、私の心の奥底に、ユダが抱えていたような小さな闇があることに気付かねばなりません。それは放っておくと悪魔に突き入るスキを与えてしまいます。

私たちが、どのような応答をするとしても、その姿は、思いのほか他の人に大きな影響を与えます。マリヤやユダほどではないにしても、私たちの信仰のありようは語り継がれ、次の時代の人々の信仰や人生を少なからずカタチ作りものとなります。そういう意味では、結構大きな責任もあるのです。

私たちは、イエス様の愛に、その犠牲に、何をもって応えたら良いでしょうか。何を献げますか。喜んで献げますか。

祈り

「天の父なる神様。

私のためにすべてを捨ててくださったイエス様に対して、何を持ってお応えしたらよいでしょうか。私の感謝や愛を、真心を、どのように表したらよいでしょうか。

誰かの信仰の姿勢や、献げる姿勢に冷ややかな想いやねたみや苛立ちを感じる時、自分の中に取り除かれるべき闇があることを思い出させてください。悪魔にスキを与えてしまうことがないように守って、導いてください。

他の人の目に愚かに見えても、無駄に見えても、喜んで献げる者としてください。

イエス様のお名前によってお祈りします。」