2020年 10月 25日 礼拝 聖書:創世記12:1-4
私たちは人生を旅にたとえることがあります。特に、信仰の歩みは天の御国を目指す旅、というイメージがあります。
昔(今ももちろん手に入りますが)、『天路歴程』という本がよく読まれました。17世紀のイギリス人ジョン・バニヤンが書いた物語で、クリスチャンという名前の男が、「滅亡の都」という町から旅立ち、様々な困難を経て「天の都」にたどり着くまでの旅を描いています。
他にも、信仰の歩みを旅になぞらえた物語や譬えはいろいろありますが、そうしたイメージの出所は創世記12章から終わりまで続く、アブラハムとその家族の物語です。
聖書全体を読み通して行くというシリーズの最初の創世記の3回目は、この「アブラハムの召命」と呼ばれる箇所です。11章までが創世記と聖書全体の導入部分だとすると、12章から50章までのアブラハムの家族の物語は、神の民のルーツを描くものです。そして、聖書全体の中では、神が造られた素晴らしい世界で祝福を受けていたのに、神様のことばに背を向けて台無しにしてしまった人間を救うための神の救いのご計画が具体的に始まる出来事となっています。しかしまず、アブラハムが登場するまでに何があったか、少しだけ触れておきたいと思います。
1.箱舟と塔
アダムとエバはエデンの園を追放され、人生に痛みと悲しみを味わうことになりましたが、神様は希望とチャンスを与えます。しかし、その後の11章までの物語をたどると、人間はそのようなチャンスをことごとく失敗してしまうことがわかります。
エデンの園から追い出されたアダムとエバにはカインとアベルという二人の男の子が与えられました。しかし、兄カインが弟アベルに対してねたみに怒りを募らせているとき、神様はカインに語りかけます。「戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」ジェームス・ディーンが主演した映画『エデンの東』の原作本の鍵となっている聖句です。
神様は、もう一度、心を支配しようとする罪を選ぶのでなく、退けるために警告とチャンスを与えたのですが、結果は、人類史上初の兄弟殺しという悲劇で終わりました。
弟殺しの罪を背負ってさすらい人となったカインはやがて町を作ります。その子孫は豊かに発展していきますが、レメクという傲慢で、暴力的な人物まで産みだしてしまいます。
一方で残されたアダムとエバにはセツという男の子が生まれ、人々は神に祈ることを始めます。レメクのような傲慢な者が幅を効かせる世界にあっても、祈りを通して天地創造の神と共に生きようとする人々がいたのです。
しかし、世界はますます悪くなって行きました。6:5~6にはこうあります。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」
神様は大洪水で地上を滅ぼしやり直そうとします。その時、改めて人類の祖先として選ばれたがノアとその家族でした。ノアは、神に祈ることを始めた、あのセツの一族の末裔です。洪水の後、神様はノアとその家族を祝福し、ふたたびこの世界の管理を委ねます。空には契約のしるしとして虹をかけ、空に虹がかかるたびにこの契約を思い起こそうと約束してくださいます。
しかしその後、人類は再び悪の道に走り、バベルの塔と呼ばれる煉瓦造りの高い塔を建てて神様に反旗を翻します。あの善悪の知識を食べたら神のようになれるとそそのかされて実を食べて以来、神のことばに背き、神とは自立して生き始めた人間が、与えられた知性と能力を発揮して繁栄していった一方で、しようと考えたらもう何も止められない、歯止めが効かないと見た神様は、言葉を混乱させ、人類を地上の様々な場所へと散らしてしまいました。
今でも、世界は様々な言葉に分かれ、様々な国、民族がばらばらに歩んでいます。飢饉と貧困、戦争、エネルギー問題、地球温暖化、新たなウイルスに対するワクチン開発など、一致して協力したらもっと良い解決策が早く出来そうな気もしますが、聖書的な視点では、人間が一致団結したら、良い事以上に、人間の分を超えた神に挑戦するようなことをし始めるし、それを止めることはできないのではないかと思います。そういう意味では、とてもまどろっこしくて、面倒だなと思うことはありますが、民族や言葉がばらばらなのは、神様の哀れみなのかもしれません。
しかしこのままでは、アダムやノアに約束した祝福は誰の手にも届かないことになってしまいます。そこでアブラハムの出番です。
2.祝福への招き
第二に、神様は人類を罪と死から救い、祝福を与える救いのご計画を始めるにあたって、アブラハムという一人の人をお選びになりました。
アブラハムというのは、後に神様が付けた名前で、もともとはアブラムと言いました。
アブラハムはメソポタミア文明の中心地ともいえる、ユーフラテス川沿いのウルという町に生まれました。ウルは月の女神を祀っている町で、アブラムの家族も、その女神に仕えていたと、ヨシュア記には書かれています。その時代、天地を造られ、人間を祝福してくださった神様は、すっかり忘れられ、バベルの塔の後の時代の人たちは、それぞれ別れた地で生活する中で、神への信仰は姿をかえ、様々なものを神の代わりとするようになっていました。
ヨシュア24:2を開いてみましょう。アブラムもそうした多くのまことの神を知らずに生きている人たちの一人だったのです。
創世記に戻りましょう。
12:1で聖書は唐突に「主はアブラムに言われた」と記します。どんな状況で、どんなふうに語られたか、なぜアブラムだったのか何の説明もありません。どういう場面だったか、どんな状況だったかはあまり重要ではなく、天地を造り祝福と救いの希望を指し示してくださった神様が、歴史を越えて、再び人間に語り始めたということが大事だと言うことです。
神様は、私たちのそれぞれの人生の中で、聖書と出会わせたり、教会に行くように導いたり、イエス様の話しを聞く機会を与えたりして耳には聞こえませんが、私たちの心に語りかけてくださいました。それぞれ違った状況です。ある人の話を聞くと、自分が経験したことがないような素晴らしい証しに聞こえたりします。しかし、重要なのは、神様が私にも語りかけてくださったという事実です。
アブラムに対する神様の語りかけは、祝福の約束であり、招きでした。「わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
神様の語りかけのポイントは3つ。神様の示す地を目指して旅を始めなさい、あなたを祝福する、世界があなたによって祝福される。
神様がこの世界をお造りになり、ご自身に似たものとして人間をお造りになった時に祝福しました。神様のことばを信頼せず、背を向けて祝福を逃した人間に対し救いの希望を残された神様は、ノアの洪水の後、ふたたび人類を祝福しました。それでも再び神様から離れ、代わりに他のものを神にしてしまった人間に対して、もう一度アブラハムを通して、失われた祝福を回復しようとしてくださったのです。12章以下のアブラムとその家族の物語の中には何度も何度も「祝福」という言葉がくり返されます。それは将来の約束の時もあれば、現実の生活の中で与えられる様々なかたちの祝福でもありました。
神様がモーセを通して創世記の中で語っておられることは、神様がアブラハムとその子孫を選んだのは、彼らの祝福のため、彼らを通して祝福が世界にもたらされるためだ、ということです。
3.旅の始まり
第三に、アブラムは神様の祝福の約束と招きに、信仰によって応え、旅を始めました。
4節に、アブラムの応答が記されています。「アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。」
とてもシンプルな書き方です。アブラムは神のことばに従って出かけました。ロトは甥にあたる人物ですが、このときアブラムはすでに75歳であったということも驚きです。
しかし、一見シンプルに見える事柄も、実際にはいろいろとあったらしいです。11:31を見ると、アブラムの父テラが、ロトを含めた一族を引き連れてカナンの地を目指して旅を始めたということが記されています。
神様がアブラムを最終的に導く場所、約束の地とされるのはカナンのことですから、ウルを出発するときは、すでにそこを目指していたことがわかります。しかし、アブラムの父テラはハランという町まで来ると、そこに留まります。結局、テラが存命中は、アブラムも旅を続けることはありませんでした。しかし、使徒7:2によれば、テラがウルを出発する前に、すでに神様がアブラムに現れ、12:1で言われたように。「わたしが示す地へ行きなさい」という言葉を頂いていたことが分かります。
どういうことかというと、アブラムはまだウルに居たときに神様のことばを頂いていましたが、11:31に書かれているカナンに向けた旅は、父テラ主導の旅だったということです。父テラは彼自身の判断でウルを離れ、カナンを目指したけれども途中のハランで旅を止めたということ。ウルはその後エラム人によって破壊されていますので、何か不穏な情勢を感じ取ったのかも知れません。ウルから大きく北回りの街道があり、それはハランを通って、カナンを通過し、エジプトにまで至ります。おそらく遊牧と商人を兼ねたような生活をしていた一族は、街道沿いに新しい可能性を探して出発したのでしょう。
一方で、神様の言葉を聞いていたアブラムは父と共に出発しては見たものの、その時点ではまだ、どこが目指すべきところかははっきり分かっていませんでした。そして父がハランに留まった時、ここが目的地なのか、また別の場所なのか判断しかねていたのだと思われます。ハランはウルと同じ月の女神を信仰する町でしたので、テラにとっては、商売に都合が良いだけでなく、心理的にも落ち着くものがあったのでしょう。アブラムも、神様の示す地について具体的な手がかりがあるわけではないので、そこに留まらざるを得なかったのかも知れません。
しかし、父テラが死んだ時、アブラムはこのあとどうするか再び選択しなければなりませんでした。その時、神様がふたたび、ウルの時と同じように、改めて語りかけたのです。実際、アブラハムとその家族の物語の中には、何度もこの祝福の約束がくり返されています。そして、今もう一度、神のことばを信じて歩み出す時が来ました。アブラムは、今一度、神のことばを信じて旅立ちました。 アダムが神のことばに背を向けて、祝福を逃してしまったのに対し、アブラムは神が約束した祝福を求めて、神のことばを信頼して従うことを選んだ、というのが最も大事なポイントです。
適用 神の恵みと信仰
ヘブル11:8~19にはこの信仰が彼の生涯全体を貫いていたことが証しされています。アブラハムだけでなく、その子どもたち、イサクやヤコブにも受け継がれていきます。
ヘブル書の評価は、信仰の父たちと呼ぶに相応しく、彼らが信仰に立って決断し、神を信頼し、約束されたものを目指して信仰の旅、人生の旅、文字通りの旅を続けたことを記しています。
しかし、創世記をを通して読めば、彼らもまた実に失敗の多い人たちだったことがわかります。それでもなお、聖書がアブラハムやその子ども、孫たちを「信仰の人」と評価することができたのは、神様の恵みに他なりません。
アブラハムが、自分の身を案じて妻を裏切り危険にさらしたのは一回だけではありませんでした。子どもがなかなか与えられないことに不安に駆られて女奴隷を通して子どもをもうけ、家庭の中にモメゴトを起こしてしまったりします。それでも神様は、彼を忍耐強く導き、教え、くり返し「あなたとあなたの子孫を祝福し、あなたを通して世界を祝福する」と約束し続けました。
アブラハムの後継者となったイサクは双子の息子のうち、神が後継者としていた弟ヤコブではなく、兄エサウを可愛がりえこひいきしますが、妻リベカはヤコブを応援します。家庭内に妙な空気が流れ、ヤコブはイサクの長男の権利をだまし取り、怒りを買って逃亡者となりました。
ヤコブは逃亡先で伯父のラバンに騙され14年もただ働きさせられた上、ただ一人愛したラケルだけでなく、その姉のレア、二人の妻に仕えるそれぞれの女奴隷も妻とし、4人の女性から12人の息子たちを設けます。ぜんぜんハッピーではなく、争いは絶えません。その上、愛したラケルの息子ばかり可愛がるので、兄たちの憎しみは頂点に達し、野獣に殺されたと父ヤコブに嘘をつき、エジプチに奴隷として売り飛ばしてしまうのです。
そんな信仰者とはちょっと思えないような酷い家族の姿を晒しながらも、神様はそれでも、イサクにもヤコブにも、ヤコブの子らにも、祖父アブラハムへの約束をくり返すのです。
そのことが決定的になるのは、売り飛ばされたヤコブの息子ヨセフが、エジプトで用いられ、エジプトの飢饉を救っただけでなく、ヤコブの家族をも救ったことでした。ヨセフは苦労続きの人生を振り返って創世記の最後でこう言っています。50:20「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」
人は間違いを犯します。アブラハムとその家族のように、祝福を約束され、全世界の祝福の回復のために選ばれた者であっても、失敗し、恐れのゆえに罪を犯し、自分の欲やねたみのために悪を行ってしまうのです。それでも神様はそのような者たちを見捨てることなく、良いことの計らいとしてくださり、多くの人の祝福のために益としてくださいました。だから、彼らは失敗続きでも、ダメなやつと言われるような者であっても、神様に信頼しなおすことができたのです。そして神様が目を留めるのは、私たちがどんな失敗をしたか、罪を犯したかではなく、神様の約束や悔い改めを促す言葉、導きにどのように応答するかです。信仰を持って応え、私たちの旅を続けるなら、神様はそれを喜んでくださいます。アブラハムの信仰に倣うような、そんな歩み方をする私たちを喜んで「アブラハムの子」と呼んでくださいます。
これからも、私たちに祝福を与えると約束し、私たちが失敗しようと、罪をくり返そうとも、すべてを益と変えてくださる神様を信頼して、何度でもやり直し、神様が指し示す旅路を歩んで行きましょう。
祈り
「天の父なる神様。
創世記を通して、神様がこの世界をお造りになった、礼拝されるべきただお一人の神であり、私たち人間を祝福してくださったのに、いつも神様のことばを信頼せず、背を向けてしまう罪ある者であることを教えられます。
しかしそれ以上にあなたは恵み深く、なおも人間を救い、回復させ、祝福を与えようとしてくださることを感謝します。そしてアブラハムに約束された祝福が、キリストを通して私たちに与えられていること、その祝福の中に今も、これから後も、私たちがいることができること感謝します。どうぞ、これからも恵み深い神様に信頼し、私たちの前に指し示された旅路を歩ませてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」