2021年 12月 6日 礼拝 聖書:ルカ1:26-38
先週からアドベントが始まりました。先週はクリスマスカードをお送りし、12月に入ったら急に寒くなって来て、いよいよクリスマスが近いなあという気分になってまいりました。
さて今月のみことばは、マリアの受胎告知の場面から取り上げました。マリアに告げられた、祝福の言葉がどのように現実のものとなっていったのか、おなじみの箇所ではありますが、今年も味わってみましょう。
ところで、相当前のことですが、昔、電子メールというものが始まった頃、知らない差出人から一通のメールが届きました。英文で書かれたメールには、「おめでとう」で始まり、アメリカ人の大富豪の夫が亡くなり、莫大な遺産を受け継いだので、あなたに受け取って欲しい。連絡をくださいと書かれていました。
今でも、似たようなメールが来ると、当時のことを思い出してついつい笑ってしまいます。あの頃は、「なんでこんな話しが自分の所に来るのだろう」とちょっと焦りました。すぐ、ああ、これはヤバイやつだと消したのですが、頭のどこかで「ホントだったらもったいないなあ」と思っていたものでした。最近は、良い話しというのはあまり信用されません。
しかし、マリアは突然訪れた「おめでとう」という祝福の言葉をどう受け取ったのでしょうか。
1.祝福を受ける者
第一に、マリアは祝福を受ける者として選ばれました。
マリアは紀元前1世紀の終わり頃、ユダヤの国のガリラヤ地方にある、ナザレという小さな村に住んでいました。特別な産業もなく、優れた人物や歴史的な偉人を輩出したこともありません。人々はナザレを何も良いものがない、ど田舎とばかにし「ナザレから何の良いものがでるのか」という決まり文句までありました。岩手県は日本のチベットなんて、岩手にもチベットにも失礼な言い方がありますが、そんな感じで見られていた土地です。
マリアについては、「一人の処女」「ダビデの家系のヨセフという人のいいなづけ」であったとあります。
いわゆる「処女降誕」と呼ばれる、男性経験のない、結婚前の娘から救い主が生まれたという教理の出所になっています。近代になって、処女が妊娠するなんて非科学的だということで、疑問がなげかけられ、「処女」と訳されている言葉は「若い娘」と訳すべきだとする意見が強くなったりして処女降誕の教理にケチがついた時期があります。しかし、当時のユダヤ人の道徳観念からしても、婚約中の身である若い娘が処女であったというのはむしろ普通のことでした。しかも、結婚前の若い娘がまだ婚約中のヨセフとの間に生まれた子が救い主に選ばれたのだとすると、マリアの疑問、ヨセフの狼狽、「聖霊によって身籠もる」とか「神にとって不可能なことはありません」といった御使いの言葉が無意味になってしまいます。信じがたい、科学的に説明出来ないとしても、素直に読めば、聖書は救い主が処女マリアから生まれたと主張しているのです。
考えてみれば旧約時代の不妊に悩む女性たち、貧しい境遇の女性たち、弱い立場の女性たちを通して次の世代に繋がる子どもが与えられるという物語がいくつも残されています。親戚のエリサベツもまた同じ経験をしていました。それらは、祝福を約束されながら不妊という現実に悩み苦しむ女性たちへの神の恵みであり、貧しい者、弱い者を神が省みてくださるというしるしでした。それらすべてが、やがて起こる救い主の奇跡的な誕生を指し示していました。
御使いガブリエルが神から遣わされて、このマリアのもとを訪れ、預言者たちでさえ受けたことがない挨拶をしました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
結婚してまもない女性が赤ちゃんを身籠もったときに「おめでとう、恵まれた方」なら分かりますが、急にこんなふうに言われてマリアは戸惑いました。全く身に覚えのない赤ちゃんを身籠もるということ自体が考えもつかないことでした。それだけでなく、当時のユダヤ人社会では、結婚前の妊娠は姦淫とみなされ死罪にあたる可能性がありました。むしろそれは不吉な知らせとも言えたのです。
しかも、彼女はまだ知りませんが、待ち受けている人生の中では、息子が人々の憎しみとねたみを買って無残に殺される姿を胸が張り裂ける思いで見届けなければなりませんでした。
それでも、彼女自身はこの知らせを幸いなことと受け止めたのです。来週改めて開きますが、46節以降の祈りの中で、神が自分のような者に目を留めててくださったことを何より喜んでいます。アブラハムに約束された祝福が、今このとき自分に向けられたことをはっきり理解しました。だから、目の前に迫ってくる不安があっても、むしろ神の祝福への招きを喜びました。
2.祝福を与える者
第二に、マリアが祝福を受ける者として選ばれたことは、同時に祝福を与える者となることを意味しました。
32~33節には、生まれてくる男の子がどういう者になるかが告げられています。「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
この御使いのことばは、アブハラム、イヤク、ヤコブ、モーセ、ダビデといった祝福の契約の担い手となった人たちや、救い主の出現を預言した預言者たちの言葉と響き合う言葉です。聖書全体が指し示していたのはまさにこういう方です。もっと遡るなら、あのアダムとエバが蛇にそそのかさされて堕落してしまったときに、やがて蛇の頭を踏み砕く者が女の子孫として生まれると言われた、神の言葉が長い年月を経て、マリアの子によって実現するのです。
それはマリア自身が祝福されたというだけに留まらず、マリアを通して世界に祝福がもたらされるということです。
当面は、お腹に宿る子どもを、およそ10ヶ月の間、愛情を注ぎ守り育てることから始まります。イエスと名づけられる子は、やがてダビデ王に約束された、王国を確立する者となり、アブラハムの子孫に約束された全世界を祝福する者となっていくのです。
私たちが常に覚えておきたいことは、神様が私たちを祝福するときは、私たち自身の祝福に留まらず、周りの世界に祝福をもたらすためということです。マリアもそうです。彼女は一人の女性としてはイエス様の後に弟たち、妹たちが生まれ、いわば子だからに恵まれました。言い伝えによれば夫に早くに先立たれたものの、イエス様を初めとする子どもたちが母マリアを手伝い、家を支えてくれたようです。それはナザレという何の特徴もない田舎暮らしをする家族にとっては慎ましくも幸せな家庭の姿だったのかも知れません。
「マリア様」と神のように崇められるのはそんなに嬉しくはないと思いますが、多くの人たちから救い主の母として尊敬を集めたとは思います。しかし彼女が幸福だと考えたのは、神が約束を忘れず貧しい者、弱い者に目を留め、さらに祝福を世界大の規模で広げてくださる様子を目撃する事だったかも知れません。イエス様が天に帰られた後は、歴史の表舞台には出て来ませんが、弟子のヨハネが引き取り慰めを得ました。そしてイエス様によって多くの人たちが癒やされ、救われ、新しい人生を歩み出し、たくさんの教会が生み出されていくのを見守りました。
私たちは、普段の暮らしが良くなること、健康が守られたり、病気が回復したり、何か「いいこと」があると、直感的に祝福されたと感じます。完全な間違いではありませんが、ちょっと順番が違います。神様が私たちとこの世界に与えたいと願っている祝福は、まずは神様と人間の間に平和が回復されること。それによってその人自身のうちに平安があり、さらに人と人との間に平和があること。その上での恵みの上乗せ分として豊かさや健康などがあるのです。
マリアはイエス様を身籠もり、産み育てることを通して、そのような祝福をもたらす器として選ばれました。そして私たちもまた、違った形ではあっても同じように祝福の器、祝福をもたらす器として選ばれたのです。
3.信じて応える
第三に、祝福の器、また祝福をもたらす器として選ばれたマリアですが、それが実現するためには信仰によって応えることが必要でした。
思い出してみてください。神様が聖書の中の登場人物に呼びかける時、それは結構途方もないこと、信じがたい未来を指し示していました。
世界が大洪水で滅びるから舟を作れと言われたノアは、周りの人に馬鹿にされながらも、その言葉を信じて家族でコツコツ作り、そして救われました。わたしが示す地へ行け、あなたの子孫は星のようになると言われたアブラハムは、すでに年老いた身でしたが、不妊の妻とともに信じて旅立ち、その約束の答えとしてイサクが与えられました。エジプトの奴隷だった民にモーセを遣わし救い出すと言われた時、イスラエルの民は信じて海を渡ることができました。しかし、約束の地へ行くことを恐れた者、エジプトに帰ることを望んだ人々は荒野で死に絶えることになりました。
神様は世界に祝福を取り戻すために救いのご計画を立てました。それを一歩一歩推し進めるために用いた人々に「信じること」を求めました。たとえ途方もない話しであっても神に信頼することを求めました。なぜなら、それこそがアダムとエバがエデンの園でしそこなったことだからです。神様の祝福は、神様が私たちに向ける愛と恵みに私たちが信頼することで形を表すのです。
マリアは王となるべき神の子を宿すと言われた時、はじめはどうしてそんなことが起こるだろうかと、当たり前の反応を示しました。それに対してガブリエルが「神の力によって」と応え、不妊の女と呼ばれすでに老いた身の親戚、エリサベツも御使いが告げた通りに男の子を身籠もっていることを知らせました。そして力強く「神にとって不可能なことは何もありません」と断言します。
「神様が助けてくれるから」「神様が力を与えてくれるから」「神様が守ってくれるから」私たちも何度も言われ、聞かされた言葉です。その都度、私たちはどうしてきたでしょうか。マリアはその言葉を信じました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
エリサベツが妊娠したという話しはマリアにとってはかなりの驚きだったはずです。だからこそ「神にとって不可能なことはない」という御使いの言葉はより一層、現実的な力をもって彼女に迫ったにちがいありません。
「主のはしため」とは、主に仕える女奴隷、という意味です。もったいぶったり、さらなる根拠を求めたり、もう少し考えさせてくださいと答えを引き延ばしたりせず、静かに、簡潔に、主のおことばどおりにと、完全に信頼し、従うと応えました。
けれども、これは大変な決意であり、大きなリスクを覚悟しての決断です。まだヨセフと正式に結婚していませんでしたので、その状況で妊娠したら、ヨセフが疑ったり、離縁を迫ったり、ひょっとしたら姦淫の罪で訴えられ死刑になるかも知れませんでした。対面を取り繕って急いで結婚式を挙げ、世間的には何もなかったようにしながら夫婦の間でわだかまりが残り続けるということだってあり得ました。それでも、彼女は神の力がおおって守り導いてくださることを信じ、祝福の器となるよう招くその招きに応じたのです。
適用 マリアのように
マリアをあまり持ち上げ過ぎて、まるで神様と人間の仲介者のようにあがめ、祈るのはやり過ぎだとは思いますが、それでもマリアは救い主の母として選ばれ、信仰によってそれを受け止めた、特別な存在です。そして、彼女の聡明さとまっすぐな信仰は手本として、目指すべき理想としても良いと思います。
マリアは当時、16~18歳くらいだったのではないかと言われています。当時のユダヤ人社会の中では、それくらいで結婚するのは珍しいことではありません。現代とは違って、かなり早くから大人になるための準備を始め、教育を受け、手に技術を身につけること、家庭の仕事をこなすことを訓練されたそうです。ですから、私たちの目から見れば、ずいぶん成熟した信仰であるように見えますが、まだ結婚前の少女だったことに驚かされます。
マリアが担った役割は、私たちが背負う人生の重荷のどのようなものとも比べられない特別なものです。それでも、私たちもまた、神様からの祝福の器として、またその祝福を他の人々にもたらす器となるように選ばれ、招かれています。そして、同じように、その選び、招きが現実のものとなるために必要なのは信仰です。
「私はそんな祝福に招かれただろうか」「選ばれるんだろうか」と心配する必要はありません。この福音のことばを聞いたこと、教会に導かれたこと、クリスチャンの証しを聞いたこと、そういう様々な機会をとおしてイエス様のことを知ったということ自体が、神によって祝福の器となるよう招かれていることの証拠です。ぜひ、信仰をもってその招きを受け入れて欲しいと思います。
そして、すでにクリスチャンである皆さんは、イエス様を信じた時に、神様の招きを信仰を持って受け入れました。しかしそれは言ってみれば期限のない終身会員になったようなものです。実は、昨日、迷惑メールをチェックしていたら「この度は誠におめでとうございます!終身名誉会員に選ばれております!」というタイトルのメールがありました。もちろんこれは詐欺ですからひっかかってはいけないものです。しかし、イエス様を信じると、私たちは永遠に神様の子どもとされ、天の御国の祝福を受け継ぐ変わることのない特権を手に入れます。これは信じていいことです。
しかし、会員権を持っていても使わなければその特権を実際に味わうことが出来ません。最近、やたら何とかポイントとか何とかペイがお得とか、いろんな情報があって、追いつけてないですが、たぶん特権を持っているのに使っていないで損しているものが結構あります。神様の祝福をそんな安っぽいポイント特権と一緒にして眠らせてはいけません。
日々の暮らしの中で私たちが神の祝福を味わい、また周りの人に祝福をもたらす器となることも、信仰によって受け取っていかなければならないのです。信仰は一度きりのことではなく、日々の暮らしの中でこそ働かせなければなりません。このコロナ禍で日々ストレスにさらされ、我慢しなければならない日常であっても、思いもしなかった病気や出来事に翻弄されているように思えても、この現実のただ中で神様の祝福、恵みがあることを信じ、またこういう時でも私たちが回りの人に祝福を与える者、神の恵みを表す者となるよう召され、神の助けによってそれが出来ることを信じなければなりません。だから、マリアと同じように私たちも信仰とともに告白しましょう。「私は主のはしため、しもべです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
祈り
「天の父なる神様。
救い主の降誕をお祝いするクリスマスが間近になっているアドベントの季節に、あなたの豊かな恵みとご愛を改めて感謝し、賛美いたします。
マリアを救い主の母として、祝福の器として選び、彼女が信仰をもってその招きに応えた姿を改めて味わうことができ、感謝します。私たちもまた、違ったかたちであなたの祝福を受け取り、また溢れ出させる器として選ばれていることを覚えて感謝します。
どうか、一人一人がこの恵みを信仰をもって受け止めることができますように。そしてまた、楽しいことばかりではない日々の暮らしの中で、この恵みを、この約束を、現実のものとして信じていけますように。どんなときでも神様の恵みがあること、どんな時でも神様の力によって周りに祝福をもたらす器となることができると信じることができますように。
どうぞ私たち一人一人に励ましと信頼する心とを増し加えてください。
主イェス様の御名によって祈ります。」