2021年 2月 14日 礼拝 聖書:サムエル記第二7:8-17
現代の私たちにとって国は、かっこうの非難のターゲットです。経済が悪くなれば、経済政策がなっていないと批判し、新型コロナの感染拡大がやまないと国の動きはいちいち遅い。どこそこの県知事のほうが総理大臣に相応しいんじゃないかとまで言われたりします。うまくやれていることも結構あると思うのですが、それが誉められることは滅多にありません。
普通の人々が国に求めるのは、様々な脅威から安全を保証され、いろいろな悩みや困難がひっきりなしにやってくる人生の中で安心して生活できるような様々な制度や仕組みをちゃんと作ってやってくれることです。
前回はサムエル記第一を見ました。まさにそのような国を目指し、しかも神を中心とする王国を願って、サウル王が立てられましたが、彼の傲慢さは破滅を招き、次の王としてダビデが選ばれました。サウルに命を狙われながらも誠実さを保ち続けたダビデはどんな王様になっていくのでしょうか。
サムエル記第二は、サウル王亡きあと、イスラエル12部族を一つにまとめあげ、王国として確立していくダビデを中心に描かれて行きます。今日開いている箇所は、王国統一を成し遂げたダビデへの神様からの約束の言葉です。神様の約束はどのように実現していくのでしょうか。
1.敵を討ち滅ぼす
サムエル記第二の1~6章は、サウルと親友ヨナタンの死を嘆く歌から始まり、7年半かけてイスラエルを統一し、大いに祝福されていく様子が絵が描かれています。
王国統一を成し遂げたダビデは、エルサレムを勝ち取り、その町に立派な王宮を作りま政治の中心地としました。7章でダビデはエルサレムに、神の栄光にふさわしい神殿を建てたいと思うようになりました。預言者ナタンもこれに賛成しましたが、その夜、預言者に神の言葉がくだりました。それはすぐさまダビデに伝えられます。その内容が今日の箇所になります。
神様はダビデに、これまでわたしは旅をする民とともに天幕に住むようにして、ともに歩んで来たのだから、神のための家なんて考えなくて良いとおっしゃいました。それよりも神様は大事なことをダビデに伝えておきたかったのです。
この箇所は「ダビデ契約」と呼ばれ、神様がダビデとかわした永遠の契約とされています。この契約は、神様がアブラハムに約束した、アブラハムの子孫を通して世界が祝福されるという契約を更新したもので、約束された祝福はダビデの家系に生まれる王を通して世界にもたらされることが約束されたのです。もちろん、それは後に来られるイエス・キリストを指しています。けれどもダビデ契約は未来、遠い未来のことを語っているだけでなく、ダビデが確立した王と王国への祝福の約束です。
この中で神様が最初に告げていることは、神がこれまでダビデになにをしてくださったかです。神はダビデに勝利を与えました。
8節と9節で、これまでの歩みを簡単に振り返っています。神様は羊飼いであったダビデを神の民の君主としました。サムエル記第一のダビデの登場からサムエル記第二6章までの半生は、まるで戦国時代の天下取りの物語のように劇的です。神様はダビデに勝利をあたえ、全ての敵を討ち滅ぼし、周辺にあったどんな強国の王にも引けを取らない名誉をもたらしました。
サウル王が戦死し、サウルの息子で親友であったヨナタンもまた死んだ後、ダビデはヘブロンという町にゆき、そこでユダ部族の人々がダビデを王として認めました。これは2章の出来事です。ほかの11部族はまだダビデを王とは認めていなかったのです。というのも、サウルの一族がまだ残っていて、ダビデと対立し続けていたのです。サウルに仕える将軍アブネルはサウルのもう一人の息子イシュ・ボシェテを王に祭り上げイスラエルの正当な王だとしました。しかし彼が王であったのは二年間だけです。激しい戦いは7年以上続きましたが、そのあたりの戦いの様子は4章まで続きます。5章でダビデ37歳の時にようやく全イスラエルの王となり、国の統一を果たします。その時、縁イスラエルの長老たちがダビデにこう語り、忠誠を誓います。5:2「これまで、サウルが私たちの王であったときでさえ、イスラエルを動かしていたのはあなたでした。主はあなたに言われました。『あなたがわたしの民イスラエルを牧し、あなたがイスラエルの君主となる』と。」
そして、エルサレムを首都に定めた後で、ダビデは一つの確信を得ました。5:12「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」
2.平安を与えるために
さて、7章のダビデ契約に戻りましょう。
ここまで見てきたように、神様は羊飼いであったダビデを選び、彼を通して敵に勝利させ、王国を統一させてくださったのですが、その目的が何であるかが、次に記されてます。
10節と11節で二番目に告げられていることは、神がダビデに勝利を与えた目的です。神がダビデに勝利を与え大いなる者としたのは、民に平安を与えるためであったということです。
「わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。」
現代の私たちがこの箇所を読む時、気をつけなければならないことがあります。聖書の中に神様が戦争を用いてみこころを実現する様子が覗えるからといって、神様が戦争を肯定しているわけではありません。あるいは神の民以外の者は滅んでもいいと命を軽んじているわけでもありません。戦争はいずれ止み、神の平和が全世界を覆うと約束されています。戦争という暴力もまた、人間の罪の結果の一つだからです。しかし、神様が罪ある者をも用いられるように、戦争によってしか国際問題を解決できなかった時代の王や国々も神様は用いられました。
確かに、ダビデの時代や、あるいは人間の歴史の中でたびたびくり返された戦争においては、戦いを終わらせ平和を取り戻すためには剣や銃を投げ捨てるだけでは済まみません。どちらかが勝利しなければならない現実があります。日本が始めた太平洋戦争が、どんな大義名分があったにしろ、戦争を終結させるためには、日本が勝利するか、負けを認めて降伏するしかなく、それまでは血が流され続けるものです。それが戦争の現実です。
しかし、神様がダビデを勝利させたのは、力にものをいわせて世界を支配したり、戦争に大義名分を与えるためではありません。何よりも民に安息をもたらし、もはや恐れる事なく暮らせるように、士師記のような混乱や酷い指導者によって社会がめちゃくちゃにならないようにするためです。それは、今は神を知らず、それぞれが勝手に祭り上げた神々を拝みながら争い続けるすべての民に、神がどんな世界をもたらそうとしているかを表すためのものです。その平安はやがて周りの国々にも与えられ、すべての世界がこのようになる、という希望を示してくださいました。
神様の平和の計画が実現する時には、神様が打ち破る敵は、どこかの国や民族ではありません。争いを引き起こす人間の罪そのもの、そして死です。ですからイエス様は王としてエルサレムに入場するとき、戦争の象徴である馬や戦車ではなく、平和の象徴であるロバの子どもの背に乗って入場しました。刃向かう者を滅ぼす力も権威もありましたが、むしろ、彼らの罪をも背負って十字架につけられました。そしてイエス様は最後の敵である死を打ち破ることで、完全な勝利と平安を与えることのできる方であることを示しました。
3.揺るぎない王国
ダビデ契約の中身に戻りましょう。11節後半からが三つ目の内容で、未来についての約束となります。それは、神がダビデの子孫から王を立て、揺るぎない王国を確立させるということです。
国が戦争の脅威から守られ、治安が安定し、いろいろ大変なことがあったとしても、しっかりとしているということがどれほど有り難いことか、日本にいるとなかなか想像できません。でも見渡せば本当に大変な国がいくつもあります。ニュースでは伝えられない、普通の人々の暮らしがどほど恐れのない安心して暮らせる日常を望んでいることでしょうか。
モーセに率いられてのエジプト脱出と荒野の旅、その後のヨシュアに率いられて約束の地を勝ち取るための戦いの年月、ヨシュアなき後の、混乱の士師たちの時代がおよそ180年。混乱の時代に終止符を打つと思われた初代の王サウルは、しかし、神への畏れと誠実さに欠け、王国を再び混乱のフチに陥れてしまいました。
ダビデによって、ようやく王国は一つになりました。神の約束は、ダビデにとって、そしてイスラエルの民にとって、どれほど大きな慰め、励まし、希望となったことでしょうか。神がアブラハムに、あなたの子孫を祝福し、約束の地を与え、あなたの子孫を通して世界に祝福をもたらすと契約を結んでからおよそ1000年。神様はその契約を更新し、さらに強固なものにしたのです。ダビデの王国が確立したことで人々は安心を得、自分たちの居場所を確かなものとして得ることができたのです。
しかし、このダビデ契約がダビデの人生のピークと言えます。
すべてが安泰と思われたダビデに思いがけない落とし穴が待っていました。その事件が11章に記されるバテ・シェバとの不倫とそれを隠すためにバテ・シェバの夫を謀殺するという信じがたい行いです。
それまで常に兵士たちの先頭に立って戦って来たダビデは、国をとりまく状況が安定して来たので、自分が戦場に立つ必要もなくなり、信頼している将軍たちに任せるようになりました。部下たちや兵士たちが戦っている間、エルサレムに留まっていたダビデは、夕暮れ時になってようやくベッドから起き上がるという、これまで見せたことのないだらしなさを見せます。屋上からエルサレムの街を見渡すと、一人の美しい女性が体を洗っているが見えました。ダビデはその女性について調べさせ、人妻だということを知りながら自分のもとに来させ、関係を持ち妊娠させてしまいます。
バテ・シェバが妊娠したことをダビデに伝えると、この不祥事を誤魔化すため、ウリヤを暗殺してしまうのです。
その後、預言者ナタンに罪に指摘されたダビデはすぐさま悔い改め、神様もダビデを赦します。しかし、ダビデがしたことの結果から逃れることはできませんでした。このあたりは私たちへの罪の赦しと、結果を負うことについて大事なことを教えてくれます。
ダビデはバテシェバを正式に妻に迎えますが、その後のダビデの生涯はサウルがそうだったように、緩やかに転落していきます。ダビデは家族と国がばらばらに壊れる悲劇を味わいます。
自分が犯した罪を息子たちがくり返し、王位を狙った息子はクーデターを画策し、国を二分しての争いとなり、かつてサウルに追われて逃げたように、息子の手を逃れて荒野に飛び出さねばなりませんでした。ダビデの晩年は悲哀に満ちています。
適用 真の王座
サムエル記第二7章のダビデ契約は、神様がダビデとダビデの子を通して神の王国を確立し、人々に平安を与える、ダビデの王位と王国がいつまでも揺るがないという、この上もない約束でした。
しかし、サムエル記第二のダビデと王国の行方は、その約束とは違う方向に向かっているように見えます。これはどのように理解したら良いのでしょうか。
21章から24章は、物語の続きではなく、サムエル記のまとめになっています。サウルとダビデの失敗、弱さをそれぞれ描き、その間に挟まれるように、ダビデの二つの歌が22章と23章に記されています。22章のほうは詩篇18篇のもととなった歌ですが、この歌のテーマはダビデが自分の人生を振り返って、神がいつも恵み深く、自分の弱さにも拘わらず助け出してくださったことを感謝しています。そして23章の「ダビデの最後の歌」では、神がダビデと結んでくれた永遠の契約に従って自分を救い、支えてくださったことを強調しています。その約束は、神が立てられる永遠の王、キリストへの希望につながっています。
実際のダビデ以降の歴史を見れば、彼の後を継いだ王はソロモンです。彼は出だしは良いのですが、途中から道を誤り、そのために彼の死後王国は分裂してしまいます。
また、イスラエルの王国は決して堅固なものではないことが、サムエル記の後の歴史を描いた列王記を見れば一目瞭然です。その終わりは南北に分かれた王国が、バビロンやアッシリアという大国に飲み込まれ、滅亡する姿です。辛うじてダビデの家系は続きますが、民族は捕らわれ外国につれていかれ、国を失います。ダビデが建てたエルサレムの町と、ソロモンが建設した神殿は破壊され、焼け落ちた瓦礫だけが遺されました。その後、帰還し、再び神殿を建設しますが、わずかな帰還を除いて、支配者がペルシャ、ギリシャ、ローマと変わるだけで、約束されたような国は出来なかったのです。神の約束はどこへ行ったのかと思うような状況です。
しかし突如、人々は「神の国が近づいた」という言葉を聞くようになります。神の国をもたらす約束の王が来られたという噂はたちまち駆け巡りました。それが、ナザレ出身のイエス様でした。
イエス様の誕生を巡るいくつものエピソードが、ダビデの子孫であり、王となるはずの方だということを指し示していました。イエス様の系図は父方ヨセフの先祖を辿っても、母方マリヤの先祖を辿っても、ダビデに結びつきました。ダビデの町と呼ばれていたベツレヘムで生まれ、訪ねて来た東の国の賢者たちは「新しく生まれた王はどちらにおられますか」と訪ねます。イエス様の誕生を知らせる天使や、赤ん坊の救い主と出会った人々の言葉や賛美の中でも、神が約束を忘れず果たしてくださったと主が讃えられます。
サウル王は残念な王様でしたが、その後の期待を背負ったダビデでさえ間違いを犯し、悪を行ってしまいます。それでも、神様はアブラハム、モーセ、ダビデと交わしてきた約束を投げ出さず、ダビデの子孫から救い主を起こし、約束された永遠の王としてくださったのです。私たちの敵である罪と死を打ち破り、赦しによる平安と、新しいいのちに生きる祝福の中へと招いてくださいました。
ハンナが祈ったように、人間は神様に逆らったり、不誠実だったりしますが、神様は約束どおり油注がれた王としてキリストを与えてくださったのです。私たちが求める安全、安心、居場所は人によって与えられるものでなく、王である救い主となってくださったキリストによってこそ与えられるのです。ぜひ、この方を私の救い主として、王として、信じ心に迎え入れましょう。そして、サウルやダビデの歩みから教訓を得て、傲ることなく、頑なになることなく、誠実に、へりくだった心でいられるよう祈りましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日はサムエル記を通して主が人の弱さや罪深さにも拘わらず、救いの約束を投げ出さずに成し遂げてくださる方であることを覚えることができました。
私たちの本当の敵である罪と死を打ち破り、約束された平安と祝福、居場所を、真の王であり救い主であるイエス様が与えてくださいました。
私たちの人生は今もなお、ダビデのように忠実で熱心な時もあれば、彼の後半の歩みのように、油断し、誘惑に負け、罪を犯し、その結果を刈り取らねばならないような時もあります。それでも、神様が私たちに与えた約束、救いが揺るがないものであることをただただ感謝します。
どうぞ、私たちの道のりをこれからも導いてください。傲ることなく、頑なになることなく、誠実に、へりくだった心でいさせてください。
主イェス様のお名前によって祈ります。」