2021年 5月 16日 礼拝 聖書:エステル4:13-17
旧約聖書の中には、イスラエルの民が祖国を失い、外国で過ごした時代のものがいくつかあります。そのような物語や、その中で語られた言葉は、私たち日本のクリスチャンのように、圧倒的に少数派の人々がもっと注意して読むべきものだと思います。
現代よりももっと厳しく、時に残酷な時代に、どうやって信仰を守り通し、未来に希望を持ち続け、正しい道、良いことを選択することができたのか、教えられることがたくさんあるはずです。
今日開いているエステル記は、エズラ記やネヘミヤ記より少し前の時代のものです。ちょうど神殿建設が終わり、城壁再建工事が始まったものの敵の反対や妨害によって中断してしまい、エルサレムに暮らす人々が苦しい生活を強いられていた時代のことです。
物語の舞台は瓦礫が残るエルサレムではなく、当時世界を治めていたペルシャの王宮です。1:1にあるようにペルシャがインドからクシュ、つまり今のエチオピアあたりまでの西アジアから中東、アフリカまでを支配していた時代のことです。様々な民族、宗教が入り乱れる時代、イスラエルの民がバビロンに捕囚となり、引き続きペルシャの国の中で生活するようになっておよそ100年が経っていました。そのような中で、人々はどのように生活していたのでしょうか。またどうやって信仰に立つことができたのでしょうか。
1.民族の危機
エステル記の前半、1章から5章までは、ユダヤ人が滅亡の瀬戸際に立つ様子が記されています。ユダヤ人でありながらペルシャ王クセルクセスの王妃となったエステルの養父であるモルデカイを、ハマンという王の家来が恨んで悪い事を企んだのです。
ちなみに、この捕囚の時代からユダヤ人という呼び方が登場するようになります。国を失ってから「イスラエル人」とは呼ばれなくなり、ユダヤ出身の人たちという意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのです。
さて、エステル記前半の物語をざっくりと辿ってみましょう。
クセルクセス王は、治世3年目に180日にも及ぶ大宴会を開きました。豪華で贅沢を尽くした上に、一般の人たちも何らかのかたちで恩恵に与れるような、非常に気前の良いものでした。
王にはワシュティという美人で自慢の王妃がいました。王様は人々に王妃を自慢したくて皆の前に来るように命じましたが、王妃はそれを拒みます。面目を失ったクセルクセスは激しく怒り、この問題はペルシャの国中を巻き込む大問題になりました。ついにワシュティは王妃の地位を剥奪されることになります。そして、彼女に代わる新しい王妃を迎えることになったのです。
2章でいよいよ「お妃選び」が始まります。王国中の行政機関を通じて通達が出され、各地の容姿の美しい未婚の女性が集められることになりました。集められた娘たちは、今風にいうならエステを受け、高価な化粧品でメイクをばっちり決め、念入りに衣装を選んで、王様に王妃を選んでもらうことになりました。
そうしたたくさんの娘たちの中に、捕囚となった民の子孫で、ユダヤ人のエステルがいたのです。彼女は幼い時に両親を失い、モルデカイが養父となって彼女を引き取り育ててきました。
モルデカイはエステルが候補に選ばれたことを聞いた時、エステルにユダヤ人であることを隠しておくよう忠告しました。当時、ユダヤ人は独自の律法に従って生活をしていたので、ペルシャの中では目の敵にされているところがあったのです。
それでも、エステルは非常に美しいだけでなく、他の娘たちが欲しがるような贅沢品も求めない慎ましい性質のために好感度ナンバーワンでした。彼女は王様に気に入られついに王妃となります。
そんな素晴らしい出来事があった頃、小さな事件が起こります。王宮の門で王様暗殺の計画を知ったモルデカイがエステルを通じて王に警告を与え、それで王の命が救われるということがありました。これはすぐに忘れられますが、後の物語の伏線になります。
こうした出来事の後、3章でハマンという敵役が登場します。彼は自分が王様に取り立てられていることを鼻に掛け、自尊心を満たすために自分に出会ったら膝をかがめて礼をしなければならないという法律まで作らせたのです。どんだけ自意識過剰かと思います。
ところがモルデカイはこの命令を無視しました。それに腹を立てたハマンは、モルデカイを殺してしまおうと考えましたが、それだけでは気が収まらず、いっそのことモルデカイと同じユダヤ人を皆殺しにしてしまおうと計画するのです。そして王様にうまいこと取り入って、なんとユダヤ人を滅ぼすという勅令を出させることに成功してしまうのです。その王の名前で出された勅令はあっという間にペルシャ中に拡がり、各地でユダヤ人への攻撃が始まりました。
2.エステルの決意
民族滅亡の危機に直面した1~5章の山場が今日読んでいただいた4章になります。
王宮のあったスサの都にも多くのユダヤ人が住んでいましたから、大混乱に陥りました。あまりに理不尽な仕打ちに、モルデカイは衣を引き裂き、頭から灰を被り、大声で嘆きながら都の真ん中まで歩いて来て王宮の門の前に座り込みました。
その事件は、自分がユダヤ人であることを隠したままのエステルの耳にも入ります。彼女は付き人を通して王宮の門にいるモルデカイに事情を聞くことにしました。
モルデカイはハマンの企みと、ユダヤ人を根絶やしにするための法令の写しをエステルに託し、エステルに夫である王にユダヤ人のための憐れみを求めるよう言づてました。
11節で、エステルは一つの可能性を思いつき、モルデカイに伝えます。そこには自分自身のいのちを危険にさらすリスクもあり、また彼女自身の中にもためらいがあったことが感じ取れます。
王の部屋に呼ばれてもいないの入っていくことは、たとえ王妃といえでもできない、というのがペルシャの法律で決まっていました。禁を破れば処刑されます。しかし、唯一の例外措置がありました。王は権威の象徴として持っている笏と言われる金をかぶせた短い棒があるのですが、突然の予定外の来訪者がやって来た時に、王様がそれを受け入れるしるしとして笏を差し向ければ、入ることが許されるのです。しかしそれは王様の気分次第、考え次第なので、お気に入りの王妃エステルであろうとも何の保証もありません。実際、この1ヶ月、王様はエステルを部屋に来るように命じてもいませんでしたので、どうなるか分かりません。ただ、もし賭けに出てうまくいけば王はエステルの話しに耳を傾けてくれる可能性はありました。
それを聞いたモルデカイはエステルに返事を送りました。13節と14節はエステルに決断を促した重要な言葉ですし、歴史上の多くのクリスチャンたちが自己犠牲をともなう様々な決断をするときに励ましを受けたり、背中を押された聖句です。
「あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない」
バビロン捕囚によって祖国を失い、捕らえ移された捕囚の民の子孫であるエステルが、ペルシャの時代になってから、ユダヤ人であることを隠しながらも、王妃にまで上り詰めたことは何のためだったのか。自分もユダヤ人であることを黙っていれば、他の人たちが滅びても自分は生き残れたかも知れません。しかし、神様の約束、そしてユダヤの人々が信じて待っていたことは、時が来れば神様が約束の地へ再び連れ戻し建て直してくださるという事です。だから、エステルが何もしないなら、神様は別の人を起こして助けを与えてくれるに違いありません。しかし、モルデカイには、エステルが王妃となったのは、神様がこの時のためにと備えていたくださったように思えたのです。
エステルはモルデカイに返事を送りました。都にいる同胞を集め、三日間断食とともに祈って欲しい。法令に背いてでも王のもとへ行き、直訴することにしたのです。もし死ぬことになったとしてもそれを受け入れる覚悟でした。
3.見えざる神の御手
エステル記を読んで行くと一つの事実に気づきます。それは、エステル書の中には、聖書のどのページにも見つかる、ある言葉がひとつも書かれていないのです。それは神様の名前です。神という一般的な言い方すら出て来ません。しかし、それでもこの物語の主人公は確かに神様です。私たちの暮らしや人生にも直接はお姿をお見せにならない神様が、見えざる手を差し伸べて私たちを助け導くように、神や主という言葉が出てこないエステルの物語にも、確かに神様の御手が差し伸べられ、そのような神様へのエステルやモルデカイの信仰の姿が生き生きと描かれています。
エステルはモルデカイや都に暮らす同胞の断食と祈りに励まされ、意を決して王の部屋に向かいました。王様はエステルを迎え入れ、なんでも願いを聞いてあげようと言ってくれます。
そこでエステルは願いを口にするのですが、ここがエステルの賢いところです。いきなりハマンの悪巧みを責めるのではなく、まずは王とハマンのために宴会を開きたいので参加してほしいというのです。その賢さと物語の面白さはぜひご自分で読んでいただきたいと思います。
7章からは悪者であるハマンの企みが暴かれ、逆転劇が始まります。エステルのいのちがけの行動と告白によってハマンの悪巧みはついに明らかにされ、ユダヤ人を滅ぼせという命令は撤回されます。逆にハマンは、モルデカイを見せしめにして殺すために建てた20メートルもある柱に吊されて命を落とします。
そして8章から終わりまでは、民族としての滅亡の危機を乗り越えたユダヤ人が生き延び、権利を取り戻すために戦い、名誉を回復していく話しが続きます。現代の私たちから見るとかなり過激な方法ですが、古代の歴史と文化の文脈の中での事として読んで行く必要があります。
物語の最後はユダヤ人がプリムの祭と呼ばれるようになる祭を始めたことが説明され、命を狙われていたモルデカイも、エステルの勇気ある行動とイスラエルの民の祈りと団結によって救い出され、ペルシャで王に次ぐ最も高い位を与えられ、尊敬される人物となったことが紹介されて物語は閉じます。
ちょうど創世記で兄弟たちに憎まれて奴隷として売り飛ばされたヨセフが、エジプトで神の守りと助けによってナンバーツーの地位に上り詰めた話しと良く似ています。
エステル記の時代を改めて考えてみると、神殿が再建されたものの城壁の工事は中断したままで、長い間エルサレムでは帰還した民が敵に苦しめられていました。多くのユダヤ人はエルサレムに戻ることをせず、ペルシャに留まっていました。そういう中で、追い打ちを掛けるように起こったハマンによるユダヤ人絶滅計画です。それは神様がイスラエルの民に約束された再建と復興をダメにしてしまう可能性がありました。
エステルの思いがそこまで及んでいたかは分かりません。彼女にとっては、自分のいのちをかけて王にあわれみを求めることに精一杯だったかも知れません。それでも、今これこそが自分のなすべきことだと信じて、行動したことが結果的に多くの命を救い、神様の救いのご計画が途絶えることなく先に進むことになりました。まさに見えざる神様の御手がすべてのことを導いていたのです。
適用 その時が来たなら
さて、エステル記のような書物を読むとき、物語として読むには結構ハラハラドキドキもしますが、神のことばとして、私たちにどんなことがメッセージとして語られるのか考える時、吟味しなければならないことがあります。
例えば、エステル記の後半は、民族抹殺の命令が撤回された途端に、ユダヤ人による反撃が始まります。敵対した人たちへのこれでもかという復讐が行われます。それは現代の私たちからすると、あまりに暴力的で、復讐してはならないという教えとどう調和するのか混乱しますし、特に最近のイスラエルで起きている空爆や陸上戦のニュースを聞くと、ざわざわします。実際、クリスチャンの中にはイスラエルの行動は正しいのだと認める人たちもいます。しかし、エステル記をよく読めば、これが当時のペルシャの法律に則ったもので、現代の私たちが想像するような無差別で際限の無い復讐劇ではなく、実際にユダヤ人を敵視し、撲滅を図ったグループへの正当な反撃とみなされていたことが分かります。
とはいえ、こうした反撃を、私たちの周りにいる仲の悪い誰かやひどい事をした人たちへの暴力を許しているとか、勧めているというようには読むべきではありません。命を守るための行動はもちろん許されるはずですが、しかしイエス様ははっきり、復讐してはならないとも言われましたし、敵を愛し敵のために祈り、善を持って悪に報いなさいとも教えています。
エステル記は民族滅亡の危機からエステルの行動によって大逆転した物語ではありますが、語られているのは、目に見えないところで確かに生きて働いておられる神の存在であり、なすべきことを受け止め行動したエステルの信仰と勇気ある決断です。
民族滅亡の危機のようなことが私たちの時代に、そう簡単に起こるとは思えませんが、それでも様々な困難に私たちは直面します。そういうときに、神様が生きて働いておられるという信仰に立つ時、私たちは「だから安心して何もしない」ではなく、モルデカイや民が三日間断食して祈ったように、必死の祈りとなっていくべきです。あるいは、その中で、自分がいまここにいるのはこのときのためかもしれない、と感じる時、苦難を承知で決断することが迫られるでしょう。その時は、一人で背負うのではなく、エステルがそうしたように周りの人たちの理解と祈りのサポートの中でしていくべきでしょう。
この箇所を読みながら、まさにモルデカイがエステルに言った言葉が、自分が神学校に行くようになるきっかけになったみことばであることを思い出しました。
ある出来事の中で悩んでいる時に、今は富山におられる渡部先生夫妻からエステル4:14を教えてもらい、そのタイミングでその問題の渦中にいるのは、何かなすべきことがあるからかもしれないよと励まされ、祈って頂きました。そしてその悩ましい状況を乗り越える中で、もっとちゃんと聖書を学ばないとだめだと思い、神学校に行くことにしたのでした。
そのような経験がそう頻繁あるわけではないでしょう。でももし、自分が犠牲を払う必要があっても、今これをするようにと神様が導いておられるのではないかと、感じたり、誰かに指摘されたりして、確かにそしてそうすべきだと確信できなたら、様々な恐れやリスクはあっても、それを引き受けていきましょう。しかしその時は一人で背負わず、誰かに祈ってもらい支えてもらいましょう。
そこに、目には見えない神様の助け、導きをはっきりと感じ、また、自分で思う以上に多くの人の助けとなる、そんな神様のみわざを経験することができるはずです。
祈り
「天の父なる神様。
今日は、異邦人の地で生き延びていた民が滅びの瀬戸際に立たされ、その中で信仰と勇気を持って行動したエステルの姿を中心に学んで来ました。その物語の中で、決して語られてはいないけれどもはっきりと生きて働いておられる神様の見えざる御手を感じ取ることができます。
私たちの歩みの中でも、神様の存在が目に見える形で分かることはないかもしれまsねんが、私たちは神様が生きておられ、不思議な導きと助けを与えてくださる方であること信じます。
だからこそ、困難の時に熱心に祈るものとならせてください。そして私がなすべきこと示されたなら、信仰をもって勇気を持って、引き受ける決断、行動ができるように助けてください。そして神様のもっと素晴らしい働き、多くの人の助けや祝福となることを見させたください。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。」