2021-06-13 主の教えが私を生かす

2021年 6月 13日 礼拝 聖書:詩篇19:1-14

 私たちにとって聖書とはどのような書物なのでしょうか。

毎日、少しずつ聖書を読んでいる方もおられるでしょうし、こうして毎週の礼拝で割と長い時間、聖書からの話しを聞き続けるわけですが、それによって皆さんの心に何がもたらされているでしょうか。その質問の答えは、説教者としては聞くのが怖い面もありますが、大事なポイントです。

みことばは、果たして私たちを生かし、自由にするものなのか、それとも自分らしさを殺し、縛るものなのでしょうか。

単なるイメージや先入観ではなく、聖書のことばに実際に触れてみた人たちからは、様々な反応を聞く事が出来ます。ある人は、聖書を読んで喜びを感じ、救われた気持ちになれます。難しくてよく分からなかったという人もいます。また、怖いと感じる人もいます。この間まで学んできた旧約聖書に描かれたイスラエルの歴史では、律法、つまり当時与えられてた聖書の教えに従うかどうかで祝福されたり、裁きを受けたりする様子がくり返されます。そういうのを見ると、聖書が人々を自由にするというより縛っているように見えなくもありません。しかしまた一方で、聖書のことばから励まされたり、慰められたり、教えられたりするのも事実で、そういうときは縛られるというより、助けられていると感じるものです。

1.人から神に向かって

まず、詩篇とはどういう書物なのかざっと見てましょう。今まで長く取り上げて来た創世記からエステル記までのイスラエルの歴史を描いた書物とどう違うのか、簡単に説明したいと思います。

第一に、詩篇は、人から神に向かって語られた言葉や祈り、賛美です。

前回、先々週はヨブ記を取り上げましたが、創世記からエステル記までの、歴史的な物語とは明らかに異なる雰囲気です。ヨブ記から雅歌までの5つの詩と知恵文学と言われる固まりは、みことばによって生きるということを、歴史的な出来事を通してではなく、様々な場面で心の内に起こってくる感情や思いに焦点を当てて描いています。そして詩篇の最大の特徴は、預言者や出来事を通して神様が人々に語るのではなく、ダビデをはじめとする詩人たちが祈ったり賛美しているということ、つまり人から神に向けて語ったものが詩篇だということです。

ですからそこには生々しい人間の感情が映し出されています。詩篇にはいくつかの中心的な主題があります。一番多いのが意外なことに「嘆きの詩篇」とか「哀歌」と呼ばれるものです。個人的な嘆きを歌ったものもあれば、民全体の嘆きを歌ったものもありますが、これだけで150篇ある詩篇のうちの三分の一を超えます。

次に多いのが感謝の歌です。また神様をほめたたえる言葉がならぶ賛美の歌もあります。

数は少ないですが神様がエジプトからイスラエルを救い出したときのことをテーマにしたような、神様の救いのわざを歌った歌があります。

また驚くことに、呪いの詩篇と呼ばれるようなものもあれば、王について歌ったもの、苦難の中で信頼を告白するもの、また知恵について歌ったものなど様々な詩のタイプがあります。

詩の作者も様々で、およそ半分がダビデ。三分の一は作者不明です。そして残りがアサフ、コラ人、ヘマンとエタン、ソロモン、モーセなどが書いたものです。時代もばらばらです。各時代に様々な人によって書かれたものが、捕囚後の時代に、礼拝で捧げる賛美のために今のかたちにまとめられたと言われています。

様々な作者、タイプのある150の詩は、実は5巻に分けられて配置されています。詩篇1:1の前に「第一巻」と書いてあるのに気づいた人もおられると思います。

詩篇全体を詳しく読んで見ると、詩篇は適当にならべられているのではなく、ちゃんと考えられ、はっきりした意図をもって配置されているのが分かりますが、込み入った話になるので、今日は、そういうものだというくらいで大丈夫です。

そして詩篇全体のテーマは、詩篇1篇と2篇にはっきり表れています。1篇と2篇ではそれぞれ、主のおしえに従う者は幸いだということと、主に身を避ける人は幸いだ、という二つのことが歌われています。つまり、詩篇全体は、みことばによって歩みながら、主がやがて遣わしてくださるメシヤ、救い主を待ち望む神の民の祈りの書であるということができます。祈りの書ですから、詩の言葉は人から神に向けたことばとして記されているのです。

そんな詩篇の第一巻の中心にあるのが今日開いている19篇になりますす。前置きが長くなりましたがさっそく見て行きましょう。

2.喜びを与えるみことば

詩篇19篇の最大の特徴は1節から6節の、神様の造られた世界を通して表される神の栄光についての歌です。

「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる。

昼は昼へ話しを伝え 夜は夜へ知識を示す。」

とても壮大で、宇宙の星々の輝きや神秘が、神様の力と知恵の深さ、大きさを表しているなあという驚きがよく伝わってきます。

しかしこの詩篇の主題は自然の素晴らしさではありません。この詩のねらいは、宇宙の営みの中でも最も私たちに身近な存在である太陽を通して、ダビデが神様のみことばである聖書から感じ取っている二つの性質を描くことにあります。

その一つは、みことばは喜びを与える、ということです。

ダビデは朝日が昇る場面を花婿が花嫁のもとに行こうと部屋から出来る様子や勇士が喜びを感じながら走り抜ける様子になぞらえています。確かに、朝日が昇る場面は何も初日の出の時だけでなく、新しい朝が来た、希望の朝だ、という気持ちにさせてくれます。

何年か前、元旦の朝に北上市が一望できる山に上り太陽が昇るのをながめました。西側にある奥羽山脈の山並みが初めに太陽の光に照らされます。日が昇るにつれて、山側からこちらへと少しずつ光が行き渡り、街中がほんのりピンク色がかった朝日を反射してとても美しかったのを思い出します。確かに、喜びと希望を感じさせてくれました。みことばにはそういう面があるよと言いたいのです。

太陽に感じ取る喜びという比喩が7節から10節でみことばがもたらす喜びとして歌い直されています。

主の教えの完全さ、確かさ、真っ直ぐさ、清らかさ、威厳、真実さが、私たちの魂を生き返らせ、知恵を与え、心を喜ばせ、人の眼をポジティブにし、信頼させてくれると歌います。

その価値は10節にあるように、金よりも優れており、ハチミツよりも甘い。金の価値は昔も今も変わらない輝きと価値を持っているので、実際には家に金がないとしても、言わんとすることは分かります。ハチミツについては、好みもありますが、昔は現代のような砂糖がありませんでしたので、ハチミツの甘さというの格別なものでした。もちろんハチミツが持っている栄養価の高さは疲れた者に元気や活力を与えるものとして重宝されました。甘い物に溢れている現代人には分からない甘みの持つ力があります。味としての甘さだけでなく、活気や喜びをもたらすものという意味があります。

だから私たちは、慰めや助けを求め、導きを求めて聖書を読みます。時には答えを求め、気持ちを切り替えるために、信頼できるお方を思い出すために聖書を読み、みことばからいのちと力を頂き、喜びを取り戻すことができます。

自分に自信を失いぐらついているときに「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」というみことばが刺さります。勇気を失い、足を踏み出すのをためらっている時に「強くあれ、雄々しくあれ、わたしがあなたとともにいる」と背中を押され、孤立し頼る者がないように思え心細い時には「あなたがたはわたしの友です」「見捨てて孤児にはしない」とイエス様が語ってくださいます。そのようにして、みことばは私たちに甘く、金のように尊く、私たちに喜びといのちの輝きを取り戻させてくれるのです。

3.心の中を照らすみことば

しかしながら、みことばには別の面もあります。太陽が昇り照らすと、初めは気持ち良く喜びと期待を感じますが、日が高くなり始めるとその日差しは強くなり、ジリジリと肌を焼きます。ダビデの生きた世界は、乾燥し、荒れ地の多い自然でしたから、その光の強さはわりと温暖な日本とは比べものになりません。

そんな太陽の光のように、みことばには心の中をすべて照らす力があり、その熱から隠し通せるものは何もありません。11~13節までが、みことばのそのようなもう一つの面を歌っています。

みことばには、励まし慰めるだけでなく、戒めを与えるという面があります。戒めには、歩むべき道筋を指し示す役割と、警告を与える役割があります。そうした戒めのことばははっきりしていて、すぐに分かる「こうしなさい」「こうしてはいけない」という言い方がされます。それは時には厳しく聞こえますし、厳しい教訓、そして強く印象に残るような実例としても聖書には描かれています。

そうした戒めがあるので、私たちは過ちに気づくことができます。太陽の光を遮っても熱から逃れられないように、みことばは私たちの隠れた罪をも照らし出します。また心に潜む傲慢さに気づかせます。

そうしたみことばの力によって、私たちは悔い改めることが出来たり、心に潜む悪に支配されずに済んだりします。詩篇の作者であるダビデ自身がそのことを身に染みて知っていました。

ダビデは若い頃に、預言者サムエルから、サウル王に代わる王に選ばれたという神のことばを聞かされました。そんな彼の生涯の前半はなかなか厳しい試練の連続でした。素晴らしい活躍をするものの、自分の地位を脅かす存在だと感じ取ったサウル王に執拗に命を狙われます。しかし、7~10節にあるように、主のみことばによって彼は心を真っ直ぐに保ち、かなり憔悴するような場面でも、神に助けを求め、正義をゆだね自分で怒りにまかせたり恨みを晴らすようなことはしませんでした。

しかし、王になってからの後半では、彼のうちにあった隠れた罪、おそらく彼自身も気づいていなかった悪が顔を出します。イスラエルに王国統一をもたらしたダビデは、周囲の国々との小競り合いくらいでは自分が戦場に向かうこともなくなりました。兵士たちが戦っている間、エルサレムの王宮で夕方になってからベッドから起き出すようなだらけたぶりでした。そんな時にたまたまみかけた女性を気に入り、王宮に召し抱えます。ヒッタイト人でありながら忠実な兵士としてダビデに仕えるウリヤの妻でした。それを分かっていて王の権力で彼女を自分のものにし、妊娠までさせてしまいます。明らかにそれは不当な事でしたが、彼は自分の不正を隠すために様々なことを企み、最終的には夫ウリヤを戦場でわざと戦死させるよう仕向けます。その時、預言者ナタンを通して神様はダビデにはっきりと厳しい態度で「あなたは罪を犯した」と告げます。ダビデはそこで自分の悪事を認め、悔い改めるのです。彼は許されましたが、罪の報いは受けなければなりませんでした。その時の心境を別の詩篇で歌っていますが、罪を覆い隠すためにいろいろ画策している間も彼の心はむしばまれ、大きな重荷を背負わされているようでした。そのような時に与えられたみことばは、厳しいものでしたが、悔い改めに導き、彼を自由にしたのでした。

適用 言葉と心の思いとが

さて最後に、主の教えが私を生かすのだということを確信しましょう。

19篇の終わりは、みことばによって励まされ、元気づけられた者が、みことばによって導かれ、整えられることで、「全き者となるでしょう」「私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように」という願いで終わり、揺るぎない贖い主なる主に望みを託して閉じられます。

この、全き者、そして受け入れられる者、という言葉は、神様へのささげものとするものについて使われる言葉です。神に捧げるものは傷のない完全なものでなければならなかったのです。つまり、ここでダビデは、みことばによって励まされ、整えられることで、自分自身を神に捧げますと言っているのです。

しかし同時に、ダビデは自分自身を神への全きささげもののようになることを、あくまで「願い」「期待」として述べることしかできません。自分がそのように完全なものではないことを良く知っています。

みことばには、私たちを励まし、慰め、生かし、喜びを与える力があり、私たちに戒めを与え、何が正しく何が間違っているかを教え、警告を与え、私たちを正しい道に導くともしびとなってくれるものです。そこに私たちが留まるなら、私たちはもっと神に喜ばれる者になれるはずなのに、どうもうまくいかない。

そのうまくいかない感じのままでいると、責められる心だけが残り、やがてみことばは私を自由にするもの、生かすものというよりは、何か自分を縛るもののように思えて来ます。

だから、この望みをダビデは自分の力ではなく、罪を贖ってくださる主に託します。もちろん、私たちはこの希望がキリストによる罪の贖い、赦し、救いへと続くことを知っています。

そして、聖書はダビデが願いとして歌った「神に受け入れられる全き者となる」ことを、願いではなく、実現可能なこと、目指せることとして教えています。

ローマ12:1~2を開きましょう。

ダビデと私たちの大きな違いは、贖い主なる主が人として来られ、十字架ですべての罪の贖いをなしとげ、死を打ち破って、私たちに新しいいのちを与え、新しい心をやどしてくださったということです。私たちは、聖書の教えをすべて守って完全なものと認められるのではなく、イエス様がすべてを背負ってくださったので、すでに完全なもの、聖い者と見なされています。私たちはダビデと同じで不完全で罪ある者ですが、すでに神に喜ばれる者とされているのです。ですから、自分自身を神に捧げるような生き方をすべきだと教えられているのです。

私たちは、自分が神様のみこころにはまったく叶わないところがあるということを良く知っています。私たちの中にはまだ罪があり、それを自分でもうまくコントロールできません。そうするとみことばの教えは、金のような尊さはあっても甘さよりは厳しく苦いものに感じてしまうかもしれません。みことばは私を生かすよりも、できもしない教えで私を縛るもののように思えるのです。

しかし忘れていけないことは、私たちが戒めを完全に守る事で全き者とされ、神に喜ばれる者になるのではないということです。私たちはすでにイエス様によってすべての罪が赦され、神様に喜ばれる者とされているのです。私たちがそんな新しい人生をいただいたのですから、その恵みに応えて、与えられたものに相応しく生きること、相応しい者にされていこうと願いつつ、そのようにしてくださるのだと信じて歩んで行くことです。そのように考えを大きく変えることで、みことばは、主の教えは、私を生かすものだと実感できるようになります。

祈り

「天の父なる神様。

ダビデの詩篇を通して、主の教え、主のみことばである聖書が私たちに喜びを与え、生かすものであることをもう一度覚えることができ、感謝します。

しばしば私たちは自分の弱さや足りなさゆえに、みことばが私を責め、縛るもののように錯覚してしまいます。しかし、そうではなくすでにイエス様にあって神に愛され、喜ばれ、受け入れられているのですから、その恵み相応しく生きることができるように、みことばが私たちを助け、励まします。

どうぞ、私たちの考え方を変え、新しい心でみことばに触れさせ、イエス様に似た者となるまで私たちを変え続けてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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