2021年 12月5 日 礼拝 聖書:イザヤ9:1-7
先日、教会でもクリスマスの飾り付けをしました。夜、外から見た教会の玄関にはクリスマスツリーとささやかなイルミネーションがなかなか綺麗に見えます。
最近のLEDは性能が良いので、日中でも光っているのがよく分かります。でも夜になればますますはっきり見えますし、きれいさもだいぶ違います。教会の存在とクリスマスをアピールするためにも夜の間もつけています。
しかし、残念ながらイエス・キリストというこの世界に与えられた光は、必ずしもすべての人にはっきり見えるようではないみたいです。
クリスマスがイエス様のお生まれを祝う日だと知っている人もたまにはいますが、それが自分に関係があると思っている人はめったにいません。
ところが聖書が語るもう一方の真理、この世は真っ暗だ、自分の心の中には闇がある、すくなくとも闇落ちすることがあると自覚している人は案外多いように思います。
クリスマスを間近に控えた今週、暗闇の地に大きな光が与えられるという、有名なイザヤの預言を通して、今の時代、そして私たち一人一人の人生や心模様を思い返し、私たちに希望の光が与えられていることの恵みの素晴らしさを味わって行きたいと思います。
1.死の陰の地に住む者
まず、私たちはだれもが死の陰の地に住む者であるということを覚えましょう。
1節から2節には苦しみ、辱め、異邦、闇、死の陰といった言葉が並んでいますが、これらはいずれも、イザヤが8章までに預言してきたこと、またこれからさらに詳しく預言しようとしていることと関連しています。
預言者イザヤの時代、イスラエルは北と南に分裂し、すでに長い年月が経っていました。北の方はイスラエル王国と呼ばれ、その歩みの最初から偶像礼拝と深い繋がりがあり、その影響で個人の生活の社会も道徳的な基盤を失い、不正と暴力、弱い者へのあわれみのなさが目に余るほどになっていました。北イスラエルにはすでに滅亡が宣告され、預言者たちは悔い改めを呼びかけていました。そして南のユダ王国も同じ道を辿ろうとしていたのです。
旧約時代のイスラエルの民は、自らの罪のために死の陰を呼び込み、暗闇の中を歩むことになってしまいました。
天地を創造され、エジプトで奴隷とされ苦しんでいた民を救い出して、神の民とし、全世界の祝福となるよう選び出してくださったまことの神様に背を向けたのです。偶像礼拝に走り、道徳的にも周りの国々と変わりないほどに堕落してしまっていました。それは、神様が彼らが神の民となり、全世界の祝福となるという契約を破り捨てることであり、不倫にも喩えられる酷い裏切りでした。
その罪の代償はアッシリヤやバビロンといった当時の超大国の圧倒的な軍事力に飲み込まれ、捕囚として連れ去られる、まさに苦しみであり、はずかしめでした。土地は敵に奪われ、希望もない明日をも知れぬ日々が待ち受けていたのです。
イザヤの預言は、私たちが生きている現代の世界に対しても、「あなたがたも死の陰の谷を歩んでいるのではないか」と問いかけているのではないでしょうか。今日世界が直面している様々な問題は、罪に対する神様の直接の裁きではありませんが、それでもまことの神様に背を向けたために呼び込んでしまった暗闇の中にいるということができると思います。
新型コロナの問題は、ウイルスそのものの怖れ以上に、国と国、人と人の間での疑い、責任転嫁、不安、怒り、恐怖が世界を暗くしてしまったように見えます。
地球規模の環境問題も結局のところ人間の際限のない強欲さと自分だけ、今だけ良ければという世界規模の自己中心が根っこにあるのではないでしょうか。ですから、貧困、難民、飢餓、差別、暴力は無くなるどころかより深くこの世界をむしばんでいます。
社会や世界の闇とは別に、私たち一人一人の人生にも罪が呼び込む暗闇があります。私たちは自分が犯した罪によって…それは犯罪とは限らず、むしろ些細に思える小さな偽りや高慢さ、悪い習慣、自制心のなさや怒りまかせの行動が、自分自身を苦しめ、恥をもたらし、希望のない闇に閉じ込めます。過去に受けた傷がいつまでも私たちを支配することもあります。
道徳的な罪だけではありません。いのちの主から離れた人間は老いと病と死から逃れることができせん。若い時には気にもしなかった、死の陰が歳とともに色濃くなっていくことを感じながら生きなければならないのです。
2.くびきは砕かれる
しかし、第二に、私たちをしばり、死の陰の谷を歩ませるすべてのくびきが打ち砕かれると聖書は希望を示します。
まず1~2節では、人々を覆っていた闇はなくなり、はずかしめを受けた者は栄誉を受け、大きな光を見、光が輝くとイザヤは告げてます。
それから3節では国民が増える、分捕り物を分ける、といった戦争への勝利や国力の回復のような表現が用いられています。現代の私たちの感覚からすると暴力的すぎるように感じるかもしれませんが、イザヤの時代の人たちにとっては勝利をイメージしやすいものです。ですから、新約聖書の時代のパウロなんかは、もうちょっと現代の感覚に近くなって、凱旋パレードやオリンピックの優勝者がもらう冠などを勝利のイメージとして用いています。
とにかく、これらは人々を死の陰の谷に閉じ込めていたものへの勝利を表現しています。
そしてイスラエルを捕らえていた「くびき」が打ち砕かれるのだとイザヤは告げます。
くびきというのは、畑の重労働に駆りだされた動物たちをつなぐ、重い木で出来た肩に乗せる枷のようなものです。それは、支配され、苦しみから逃れられないことの象徴でした。しかしそのくびきは打ち砕かれるのです。
さらにこの勝利を決定付けるかのように5節では戦場で血と土埃にまみれ、汚れきった履き物や衣服が焼かれ、二度と戦いに出なくて良い、という喩えが記されます。
当然、旧約時代の人たちにとっては、アッシリヤやバビロン、周辺の敵対する国々という目に見える敵がいて、祖国を奪われ、捕囚とされていく目に見えるかたちでの「くびき」がありましたか。ですからこのイザヤのメッセージは、敵に勝利し、捕囚から祖国再建へと回復されていく希望というふうに読めたはずです。
実際イザヤの後の時代にバビロンによってイスラエルが滅ぼされ、民が捕囚として連れて行かれます。やがて時が経ち支配者も変わると、主がペルシャの王の心を動かし、イスラエルの民がエルサレムに戻る道が開かれます。彼らは神殿を再建し、城壁を修復、再び主が与えた土地で国を再建していきます。
しかし、人々の心と生活に本当に闇をもたらしていた罪と死の支配は、それで消えて無くなったわけではありませんでした。捕囚からの帰還という大きな経験をしたイスラエルの民にも、相変わらず神様への反抗的で頑な心が残ったままでした。
皆さんも経験ないでしょうか。素晴らしいみことばに触れて心が新しくされたような気になったり、心が躍るような集会に参加し、新しい決意で今日から生きていくんだと意気込んだのに、そうした決意や、フレッシュな心は続かず、つやつやだったリンゴがしわしわになってしまうように、心が萎んでしまいます。
あるいは、人生を変えるような大きな経験をしたはずなのに、気づけば、それ以前から持っていた心の傷や、溜め込んだ怒りが癒えておらずに、いつの間にかまた心をかき乱すようになり、人間関係を難しくしてしまうなんてこともあります。
しかし主はイザヤを通して、「わたしがそのくびきを打ち砕くのだ」と力強く語ってくださるのです。
3.ひとりのみどり子
捕囚や奇跡的な帰還といった大きな経験をしても変わらない人間の心を新しくし、回復を与えるのは人間の力や決意ではありません。第三に、一人のみどりごが私たちに与えられました。救い主イエス・キリストです。
6節と7節はあまりに有名なアドベントの聖書箇所です。
「みどりご」とはあまり使わない言葉ですが、嬰児、生まれたての赤ちゃんという意味です。男の子ですから、当然赤ちゃんとして生まれてくるはずなのに、あえて「みどりご」が生まれると言われているのは、この約束の子が、人としてお生まれになる神だからです。旧約聖書の様々な預言者たちが告げて来た救い主はどのようにして人々の前に現れるのでしょうか。天から神々しい姿で下りてくるのか、突然人々の前に姿を表すスーパーヒーローのような方なのか。そうではなく、私たちと変わらない人間の赤ん坊として生まれます。しかし、この方は主権者、すなわち王であり、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる方です。不思議な方法で世界を治め、神ご自身であり、私たちにとっては永遠の父なる肩、そしてこの方が造り出す世界には平和が満ちています。
ですから救い主がイザヤの預言通り赤ん坊として誕生した夜、羊飼いたちの前に現れた天の軍勢は「天に栄光、地に平和」と歌ったのです。
イエス様が私たちをご支配なさる方法は不思議で、この世のどんな支配者とも違います。イエス様は私たちをみことばと聖霊の導きによって私たちを励まし、助言を与え、心を新しくし続けるようにして私たちを導きます。私たちを無理やり従わせたり、心を折ってしまったりすることはなく、このロウソクの火がくすぶって消えそうな時は吹き消したりしないで大切に守りどんなに小さくても火種をまもってくださいます。
またイエス様は、完全に人間として生まれ、私たちの経験するあらゆる喜び、悲しみ、苦しみ、痛みを経験なさいました。しかしその本質は力ある神です。弱い者を強め、閉じたものを開き、汚れたものをきよめ、荒ぶるものを静める方です。何よりも罪と死に対して勝利なさいました。
またイエス様は永遠に変わらない深い愛をもって私たちを取り扱い、守り、支えてくださいます。
そして、イエス様は私たちに平和をもたらします。イエス様が私たちの罪の身代わりとなってくださったので、神様の罪に対する裁きや怒りを怖れる必要がなくまるで子どものような心で神様との交わりを持つことができます。責められることのない心、そしてすべてを任せられる心には平和、平安が訪れ、心の平和は人との関係にもにじみ出て行きます。
そしてイザヤはこの救い主による救いと平和について、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と断言します。とても人間的な言い方になりますが、神様はこのことに情熱を傾け、何としてもやり遂げようと、出来ることは何でもなさり、私たちが弱ったり、躓いたりすることがあっても挫けたり、投げ出したりなさらずに、やり通してくださるのだということです。
この約束と神様の固い決意こそが、死の陰の谷に住み、闇の中にある私たちへの希望の光です。
適用 どんな闇があっても
クリスマスが今なお愛と平和と希望を思い起こす時であり、そんなメッセージを発信する季節であるのは、この約束された救い主、ひとりのみどりごとしてお生まれになった主イエス様が、現代の私たちにとっても救い主であり、慰め主であり、不思議な王として暗闇から光の中へと連れ出してくださる方だからです。
イザヤ書では、くびきを打ち砕くと言われていましたが、イエス様は少し違った角度からこういうふうに言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
私たちが背負っていたくびきは砕かれ、これからの人生の重荷は一人で背負うものではなく、イエス様がともに担ってくださるものになりました。
クリスマスをただの風物詩や年末の恒例行事や雰囲気を楽しむものとしてしまってはもったいないです。イエス様は私たちにとって最もやっかいな心の闇の問題に救いとなる希望の光なのです。
アドベントの習慣は5世紀後半からおよそ1500年の歴史があります。このアドベントの期間は、ただクリスマスのお祝いの準備をする期間ということだけでなく、自分自身の罪や心の闇を見つめる期間ともされてきました。忙しい現代社会では失われてしまった習慣ですし、そんなふうにゆっくり自分を省みる時間を持つのはかなり贅沢とも言えます。
日本の社会では12月は師走となり、お正月前の非常に慌ただしく忙しい季節になってしまっています。雪も降るので、除雪に追われることになるとクリスマス気分もふっとんでしまったりします。
しかし、そうした忙しさや慌ただしさとは全く別な理由で、私たちは自分自身の心の内と向き合うことが難しいと感じるかもしれません。自らの心と向き合い、赦しを求めて悔い改めるべき罪がないか、癒され回復されなければならない心の傷や、それらがもたらす闇がないか顧みる時を持つことには恐れが伴います。何かしら心にひっかかっている事があっても、その小さな闇を覗き込み、向き合う勇気が持てないことがあります。ちょうど深くて暗い穴の淵に立って、ちょっとのぞき込んで足がすくみ、それ以上近づかないようにしてしまうみたいです。そうやって心の奥にある深い闇を長い間抱えたままになってしまうことがあるのです。それは、たえず私たちに不安や怒りや恐れをもたらし、ことあるごとに顔を出します。それらはお手軽に回復するようなものでも、誰かに気軽に話せるようなことでないかも知れませんが、主イエス様はどんな闇が私たちのうちにあろうとも、拒絶することなく、受け入れ私たちに寄り添ってくださいます。
イエス様はともに担ってくださり、いやしてくださいます。そのことが実感されるとき、クリスマスの喜びはただ楽しいだけではない、深いものとなり、悲しみや痛みがあっても感謝と慰めの伴うものとなります。
今年のクリスマスが、どんな死の陰の谷にいようとも、希望の光があることを確信し、深い喜びを味わう時となりますように。
祈り
「天の父なる神様。
まもなく向かえるクリスマスを、新たな心と喜びをもって感謝します。
ことに、私たちの生きている今のこの世界の暗闇と、私たちのうちに潜む闇を見つめながら、それでもなおイエス様が希望の光として私たちとともにあってくださり、輝いていることを覚えます。
どうぞ私たちを縛り、重荷となっているあらゆるくびきを打ち砕いてください。そしてイエス様が共に重荷を担ってくださる、慰めと平和に満ちた歩みへと私たちを救い出し、導いてください。
そして、救い主の希望の光が目に入っていない多くの方々の心の目が開かれ、闇に輝く大きな光を受け取ることができますように。
私たちのために人としてお生まれになった救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。」