2022年 2月 13日 礼拝 聖書:オバデヤ1:12-18
「偉そうにしているけれど本当は謙虚な人」という人物に会うことは滅多にありませんが、「謙虚そうにしているけれど本当は傲慢だ」という人には時々遭遇します。
高慢さや傲慢さというのはなかなか自覚できないもので、当人にとっては「これは当然」「自分は正しい」とさえ思うものです。しかし周りにいる人たちにとっては、嫌な思いをしますし、傷付いたり、萎縮してしまったりもします。
久しぶりに聖書全体を通して読んでいくシリーズに戻りますが、今日は旧約聖書の中でも最も短いオバデヤ書です。週報には便宜上、「1章」と記していますが、実際には章がありません。わずか21節からなるオバデヤ書は小粒ながらピリッとした山椒の粒のような預言書です。
バビロン帝国によってエルサレムが陥落した時代に、預言者オバデヤはイスラエルの隣にあったエドムという国とその民に向けてメッセージを語りました。岩山の高台に暮らすエドム人たちは、エルサレムが滅びるのを文字通り高みの見物をし、笑い、戦争に敗れたイスラエルの町々をハイエナのように襲い、略奪していました。
そんなエドムに対して神様は預言者を遣わし、彼らの高慢さを暴き出し、警告するのですが、これが実はエドムだけの問題ではないということが読み進んでいくなかで分かって来ます。
1.因縁の関係
まず、オバデヤ書を理解するために、イスラエルとエドムの因縁の関係について知っておくことが大事です。
イスラエルとエドムはどちらも、アブラハムを共通の祖先として持つ民族、兄弟関係と言える民族です。
アブラハムとサラの間にイサクが生まれ、イサクはリベカとの間に双子の息子が与えられます。兄エサウと弟ヤコブです。神様は兄エサウにはエドム、ヤコブにはイスラエルという新しい名を与え、その名がそれぞれの民族の名前になっていきます。
ヤコブとエサウは双子の兄弟ですが、お世辞にも仲が良いとは言えませんでした。お母さんのお腹の中にいた頃から張り合い、両親は子どもたちの将来を案じるほどでした。
出産の時に、先に出て来たエサウのかかとを弟がつかんで産まれてきたのはその後の二人の歩みを象徴するようでした。
成長してからは双子とは思えないような正反対の性質でした。父イサクは兄エサウを、母リベカは弟ヤコブを愛するようになり、その辺でも兄弟関係がギクシャクするようになります。ついには弟ヤコブが兄を騙して長子の権利や長男としての祝福を奪いとってしまいました。腹を立てたエサウはヤコブのいのちを狙い、オヤジが死んだらぜったい殺してやると鼻息を荒くします。ヤコブは恐れて遠く離れた親戚のおじさんの家にお世話になり、そこで家族をつくりイスラエル12部族の祖先となる兄弟たちが生まれます。
何年も経ってから兄エサウと再会し、一応の和解をするのですが、彼らが一緒に歩むことはありませんでした。
時とともにイスラエルとエドムはそれぞれ人数も増え、それぞれの民族として国を持つようになるのですが、ヤコブとエサウの確執は民族どうしの確執へと受け継がれてしまいます。王国時代のイスラエルに対して、しばしばエドム人は敵対し、攻撃したり、略奪しに来たりし続けました。
民族間の確執というのは今も昔も変わらず、簡単にはなくならないものです。アッシリヤ帝国が手始めに北イスラエル王国を滅ぼした後、代わって台頭してきたバビロン帝国が今度は南のユダ王国を滅ぼします。同じ先祖を持つ、兄弟ともいえるイスラエルが滅びたとき、エドムは嘆いたり、悲しんだり、同情したりするのではなく、文字通り高みの見物をしていました。
3節に「岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ」とあるようにエドム人はセイル山地と呼ばれる山々の断崖の上に暮らしていました。そして彼らの心においても、高いところからイスラエル人を見下ろしていたのです。続きには彼らの心の声が顕わにされています。「おまえは心の中で言っている。『だれが私を地にひきずり下ろせるのか』と」
イスラエルもエドムも強大なバビロン帝国に比べたら、どちらも大陸の端っこにあるちっぽけな国です。それなのに、ライバルが大国に蹂躙されている間、彼らに同情するでも、自分たちの身を案ずるでもなく、「俺たちは大丈夫だ」「この山に生きる限り誰も手を出せない」とたかをくくっていたのです。
しかし、神様はイスラエルが滅びるのを喜んで見ていた周囲の国々の高慢さに裁きを宣告したのと同じように、エドムに対しても警告を発しました。
2.高ぶる者を裁く方
オバデヤは1節で、エドムの周辺の国々に「エドム討伐」の檄が飛ばされたことから語り始めます。
そして、「だれが私を地に引きずり降ろせるものか」と高ぶるエドムを、4節にあるように「鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても」つまり、今よりもっと高い所に上り詰めたとしても「わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす」と宣言なさいました。5節から9節には、主が高ぶるエドムをどのように裁かれるかが記されます。それはエドム自身がイスラエルや他の国々にしていた仕打ちがそっくりそのまま返ってくるかのようでした。
盗む者、奪う者がめぼしいものを根こそぎ奪い去り、隠していたものまで取られ、同盟関係は裏切られ、優れた能力のある者が連れ去られ、勇敢な兵士たちは残らず排除されてしまいます。
こうした裁きがもたらされることになった原因である高慢さとはどんなものだったのでしょうか。
高慢というのは心の問題ではありますが、行動や態度に表れるものです。どんなに謙虚そうに振る舞おうとしても、相手より自分が優位であること、強いこと、賢いこと、上であることを認めさせたい思いが根本にありますから、必ず表に出てきます。
また高慢な者は、見下す相手に対して何かしら有利だと考えるもの、強さを持っていますが、それを使って相手をコントロールしたり、弱みにつけ込んで利用しようとします。最近では人間関係でのマウントなんて言い方もされますが、創世記でアダムとエバが罪を犯した時に、対等だった夫婦関係に呪いとしてマウントの取り合いが入り込むことが言われています。その罪の性質が高慢な者には顕著に表れます。
エドムの場合、エルサレムが苦境に陥ったときに11節で「素知らぬ顔で立っていた」とか、12節で「兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。…喜んではならない。」、これは野次馬のように見物することです。13節にも「彼らの破局の日に、そのわざわいを眺めて」と、見下す相手に対する冷淡さがみられます。
それどころか、災難の中にある人々の弱みにつけ込んで彼らの財宝に手を伸ばすとか、逃れる者の道に立ち塞がったり、追いかける者に引き渡したりと、徹底して相手をいじめます。
エドムの高慢さは目に余るものであり、オバデヤ以前にも預言者達を通して警告して来たのですがその傲慢さは変わらず、神様は裁きを与えることにしたのです。
ところが、15節でオバデヤ書は突然、話しの流れが変わります。これまではエドムのイスラエルに対する高慢さが問題とされて来ましたが、「主の日が すべての国々に近づいている」と言われます。高慢さ、傲慢さの問題は決してエドムだけの問題ではなく、すべての国々、民族に巣くう根深い問題です。エドムの高慢さへの裁きは、他者の不幸を喜び、ほくそ笑み、自分が優位であること、強いこと、豊かであることを自慢したがるすべての高慢な者たちに向けられた警告なのです。
「慇懃無礼」という言葉があるように、高慢さは何もエドムのように荒々しく暴力的な仕方で表されるとは限りません。神様は、あらゆるタイプの高慢な者たちに、へりくだらず、他者を尊重しないような者には厳しい裁きがあることを警告しておられるのです。
3.拡がる神の御国
そういう意味では神の民であったイスラエルもまた、高慢になり、神に背を向け、その報いをバビロン捕囚という形で経験しなければなりませんでした。
それはイスラエル民族にとっては苦しみであり、悲しみであり、恥でした。あれだけ「神の民」であること「神の国」であることを自慢していたイスラエルが戦争に敗れ、神が全然助けてくれないという現実に打ちひしがれ、他の民族は「それみたことか」とあざけっていたわけです。もっともイスラエルの民自身が、その神に頼るよりは当てにならない外交や軍事同盟に頼ろうとし、まことの神よりも偽りの神々に必死に祈ったりしていたのですから、それもまたばかにされる要因です。
そんな打ちひしがれた様子をエドム人は高みの見物をしながらほくそ笑み、弱った所で強奪していくのです。
しかし、イスラエルの民は屈辱の中で歴史の中から消えていくのではありませんでした。それがオバデヤ書の後半になります。
これまでも多くの預言者たちが告げて来たように希望が残されているのです。
17節に「しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。」とあります。シオンというのはエルサレムの町があった丘一帯を表す名で、エルサレムのことを指す場合もあります。けれども、聖書では特に、神を愛し、神に愛された民を象徴する名前として用いられます。
一度ならず何度も神に背を向け、ついには滅びることになった神の民を、それでも神は愛しておられ、滅ぼし尽くすことはなさらず、逃れた者、残された者が再び集められるのです。それどころか、この回復はイスラエルを越えて全ての民に及びます。
旧約の預言者たちの言葉は、当時の人たちにイメージが伝わるように選ばれていますので、どうしてもこのような戦争や力による征服をイメージさせる言葉になってしまいますが、意図としては打ち破っていくというより、アブラハムの子孫だけでなくすべての人々を御国へと入れてくださるということです。
実際に、神様の救いのご計画が明らかになっていくと、救い主であるイエス様は力尽くで世界を支配するのではないことが分かります。王として来られたイエス様ですが、イエス様は仕える者になり、ご自身のいのちの代価によって世界中の人々に罪の赦しを与え、御国の民とする特権を与えることで、そのご支配が拡がっていくことが分かります。力ではなく愛が、新しい御国の土台です。
18~20節にかけて、シオンの丘、エルサレムから始まった神の御国がエサウの家、つまりエドムへ、またペリシテ人の地やサマリヤ、ネゲブへと拡がっていく様子が描かれますが、私たちはこれがイエス様によって違った言い方で語られていることを知っています。使徒の働き1:8です。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。
聖霊の力を頂いて強められた教会が、戦争によってではなく福音を証ししキリストを宣べ伝えることで、御国を拡大していくのです。そうやって捨てられたかに見えた主の民が、再び集められ、さらに大きな民となり、御国が確立していくのです。
適用 神と他者へのリスペクト
さて、オバデヤ書の預言のほとんどはすでに実現したと言えるでしょう。エドムは滅ぼされ、イスラエルはバビロン捕囚からエルサレムへと帰還しました。その後、再びギリシャやローマに支配されることにはなりましたが、救い主イエス・キリストが人として来られ、十字架の死と復活によって、救いがエルサレムから始まり、地の果てにまで及びました。今、私たちはその世界にまで拡がる神の御国の前進のまっただ中にいるわけです。
では、私たちがオバデヤ書を読む意義は何でしょう。
現代の私たちがオバデヤ書から学ぶべきことは、オバデヤ書の中心的なメッセージです。神様は高ぶる者を引きずり降ろす方であり、同時に、誰であっても御前にへりくだる者をご自分の御国に受け入れてくださるということです。
私たちは、自分自身の心の中を覗いても、あるいは世間の荒波の中でも、国際社会の中でも、高慢という問題が人間の根っこから全然なくなっていないことに気づかされます。
オリンピックで選手たち同士の互いへの尊敬や、ファンの人たちから向けられる尊敬、また選手たちからの感謝の姿に、人間もまだ捨てたもんじゃないなと思うことはあります。が、その一方で国同士の醜いプライドのぶつかり合いが政治的駆け引きとなったり、偏見に基づいた非難の応酬になったり姿にうんざりさせられることもあります。
私たちの周りにも傲慢な人たちがいて苦しむこと、嘆くことがあるかもしれません。エドム人に指摘されている傲慢さの特徴が見事に「あの人」に当てはまる!と思うこともあるでしょう。
しかし、自分が高慢になってしまったときには、なかなか気づかないことも忘れてはいけません。テレビやネット、雑誌などで他人の不幸を高みの見物をするように、興味本位でおいかけていないか。苦しんでいる隣人に対してそしらぬ顔で立ってはいないか。誰かの不幸を密かに喜んではいないか。誰かの弱みにつけ込むようなことをしてしまってはいないか。
何より、そうしたことを高慢であるとし、嫌っておられる神様に背を向けたり、聖書の警告を自分には関係ないことと軽んじたりすることこそ最大の人間の傲慢さです。たとえ人に対しては親切だったり、謙虚に振る舞っても、天地を造られ命を与えてくださる主に対して謙遜さを忘れているなら、傲慢のそしりを免れることはできません。逆に神様に対しては謙遜そうにしても、他の人をリスペクトしないのもまた巧妙に隠された神に対する傲慢さです。
私たちはオバデヤ書を通して、そうした高慢さが自分の心や態度の中にないかチェックすべきです。
そしてオバデヤを通して神様が明らかにしている救いのご計画においては、そのような私たちをも御国へと招こうとしておられること、その恵みに気づいてへりくだることです。
神様へのへりくだりは、他の人を敬う態度によって真実なものになります。すでにイエス様による救いを頂いて御国の子とされている者ならばなおのこと、神を敬うように、他の人を敬い、神を主として従うように、他の人に仕える者となりましょう。誰かがつまずいたり、弱ったりしたとき、素知らぬ顔で立つ者ではなく、喜んで手を差し伸べ、嘆く声に耳を傾ける者となりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
オバデヤ書を通して高ぶり、傲慢さがいかに罪深いもので、主がお嫌いになるものかを見させていただきました。しかもこの高ぶりはエドム人だけでなく、私たちを含めた全人類の問題です。
しかし神様は、高ぶる者を引きずり下ろすだけでなく、救いの道を備え、あなたの御国へと招いていてくださる方でもあります。
すでにイエス様によって救いをいただき、御国の民とされた私たちを高慢の罪から守ってください。あなたを恐れるように、他の人を尊敬し、心から仕える者になることができるように助けてください。他の人が弱った時に、冷たい心で見たり、無関心になったりせず、深い同情心を持って手を差し伸べ、耳を傾ける者であることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」