2022年 3月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:32-40
この2年間、私たちは新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大という今まで経験したことのない状況を歩んで来ました。
思い返せば、日本で最初に感染者が見つかってから少しずつ全国へと拡がっていく中で、岩手だけが感染者ゼロの期間が続き、岩手には特別な何かがあるんじゃないかと盛んに言われたこともありましたが、いざ拡がり始めれば特別なことは何もありませんでした。
大きな波が収まり始めると「ああ、もうすぐ終わりだ」と期待し始めますが、また次の波が来て「やっぱりまだか」と失望する。まるで今の時期の春を待つ感じに似て、解けてはまた降る雪に心がアップダウンするみたいです。
そして岩手出身の選手たちがめざましく活躍したオリンピックの興奮が冷めやらぬうちにロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。ウクライナやロシアの一般の人たちのことも気がかりですが、南北に領土問題を抱えている日本にとっても人ごとではありません。
そしてもちろん、一人一人の人生にも様々な変化がありました。それでも多くの兄弟姉妹たちが希望の見えにくいこの世界の中で、本当によく忍耐し、望みを捨てることなく歩んで来られたことに感動を覚えています。今日は「主に信頼して」という年間主題にちなんだヘブル書からのシリーズの最終回となります。
1.信仰の勇者たち
今日の箇所にはたくさんの信仰の勇者たちが出て来ます。
私は映画やテレビドラマのオープニングやエンディングに流れるキャストやスタッフの名前を見るのが好きで、主役級の人たちだけでなく「○○町の皆さん」みたいな、その他大勢の人たちにも結構注目します。
これまで11章ではアベル、エノク、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュアの時代のイスラエルの人々を取り上げてきましたが、32節には士師記の時代以降の信仰によって生きた人々の名前が挙げられています。
ギデオン、バラク、サムソン、エフタは士師記に登場する「さばきつかさ」たち。指導者を失った時代のイスラエルに、危機が訪れる度に神が立て、遣わしたリーダーたちです。
ダビデは言うまでもなく、イスラエルの歴史の中で最高の王ですし、サムエルは最初の預言者として混乱したイスラエルを導きました。こうやってみると、みんな主役クラスの人たち。それぞれに大きな物語があります。
さらに他の預言者たちもいます。パッと思いつくだけでも、エリヤとエリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルといった大預言書を記した人々もいますし、最近取り上げている小預言書で知られるホセア、ヨエル、オバデヤ、ミカといった人々もいます。
あるいは、バビロン捕囚から帰還しエルサレム神殿と街を再建するときに活躍したエズラ、ネヘミヤ、ゼルバベル、ヨシュアというような人々もいます。
モアブ人にも拘わらず姑のナオミと歩みを共にしたルツや捕囚時代に民族滅亡の危機を救ったエステルも忘れてはいけません。
32節後半には、彼らについても「語れば、時間が足りないでしょう。」とあるとおり、それぞれの人物と信仰の物語には学ぶべきこと、語られるべきことがたくさんあります。
33~35節前半には、そうした人々が信仰によって何を成し得たかを記しています。
「彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました。」
今の世界情勢では、このような聖書箇所を読む時に戦争の悲惨な映像が目に浮かび、そこに信仰を結びつけて考えることがとても難しく感じるかも知れません。しかし、現代の日本にいる私たちにとって、ビジネスの世界や工場での勤務、介護や医療の現場での働きといった中で信仰が問われ、その難しさの中で神の助けを信頼し、謙遜に、誠実に行動することが問われるのと全く同じです。戦争の時代に生きた人たち、その中でどう行動するかが問われた時に、彼らは神を信頼し、務めを果たそうとし、結果として敵を打ち破ったり、正しいことを行ったり、困難を乗り越えたりもしたのです。もちろん、ここに描かれているのは戦争にまつわることばかりでなく、国作りや苦難の中から救い出された経験や、死んだ息子を預言者によって生き返らされた女性の話も出て来ます。彼ら、彼女らに共通するのは、信仰によって事を成し得たということです。
2.この世で得られるもの
しかし、信仰の勇者たちがこの世で得たものは必ずしも良いものではありませんでした。
35節後半から38節には、信仰によって勝ち得たものとはまた別な、信仰ゆえに味わった苦しみが挙げられています。
「また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを拒んで拷問を受けました。また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。」
これら一つ一つにも、実際の旧約聖書の物語や、聖書には記されていないけれども言い伝えられている事柄があります。
全員がこういう酷い経験をまるまるしたということではありません。しかしながら、信仰によって得るものは様々ありますし、信仰によって成し遂げることができたものもあるけれど、確かに信仰ゆえに苦しんだり、悩んだりすることも多いような気がするというのが私たちも実感するところではないでしょうか。
ヘブル書の著者は「この世は彼らにふさわしくありませんでした」とまで言っています。この世界は、私たちの信仰や忍耐、努力、誠実さにふさわしい報いをもたらすだけのものを持っていないというのです。
ヘブル書の表現はかなり悲観的に感じられるかもしれません。私たちの人生にも苦労は多いけれど良いことだってけっこうあります。そうした小さな喜びや楽しみが私たちを励まし、元気を取り戻させ、幸せを感じさせてくれてもいます。しかしヘブル書のこうした表現の背景には、当時のクリスチャンたちが味わっていた迫害や厳しい試練があります。
ある程度、自分の生活や人生に満足できていたり、ささやかでも幸せを実感できているときはあまり感じないかもしれませんが、試練や苦難が続けばどうでしょうか。悲しいことが続いたり、健康を損ねて思い描いていたような生活が出来なくなったり、人生設計が大幅に狂ってしまう。そうしたことは誰にもで起こり得ることです。それ以上に、人の悪意に晒され続けたり、私たちの信じていることや大切にしていることへの攻撃が続いたら、心もくじけそうになりますし、本当に主が約束してくださっている平安や喜びはどこにあるのかと思ってしまいます。
私たちの努力は正当に報われるべきだし、私たちの忍耐にも、私たちの嘆きや悲しみにも慰めやいやしが与えられるべき。不正に対して正義が行われることを求めるのも当然のことです。
しかしこの世において必ずそうなるものでもない。いま、ウクライナで起こっている戦争によって多くの人たちが怒っています。ロシアはひどい、きっと彼らには正当な報いがあるに違いない、正義は勝つ!と私も思いたいです。しかし、憎まれっ子世にはばかるとは良く言ったもので、神様はどうして正義を取り戻してくれないのかと思うような結果になることもあります。もちろん、そういう人々や国が報いを受ける時は来るのですが、ですが苦しんだ人々がこの世にいる間に報われるとは限らないのです。
3.共に受け継ぐもの
信仰による勇者たちが必ずしもふさわしい報いを受け取れなかったことを39節でこう言っています。「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。」
しかしそれは、信仰の戦いに報いがないとか、無駄になった努力がそのまま無駄になりっぱなしとか、骨折り損のくたびれもうけが信仰生活の本質だなどというのではありません。
40節で聖書はこう説明しています。「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」
神様は地上で得られるものよりはるかにすぐれたものを用意しておられました。それは、今の私たちのためにも用意されているものなので、私たち抜きに、旧約時代の信仰者が先に受け取るようなことなかったのだということです。つまり旧約時代から見た時に、後の時代に現れる信仰の勇者たちといっしょに神の完全な祝福と報いを受け取るために、彼らが生きた時代には全てを受け取ることはできなかったのです。
しかし、この「私たちのために」の「私たち」にはヘブル書の時代のクリスチャンたちだけでなく、今日の私たちも含まれているし、未来のクリスチャンたちも含まれています。従って、私たちは過去の、旧約時代の信仰の勇者たちと、また未来のまだ見ぬクリスチャンたちと一緒に約束のものを受け取るのを待ち望む者であるということです。
確かに、旧約時代に約束された救いはイエス・キリストによって成就しました。私たちには罪の赦しが与えられ、神の子どもとされる特権が与えられました。二度と再び神様との絆が断ち切られることなく、そのご愛と恵みの豊かさの中にいることができます。
神様との間を隔てるものがなくなった今、私たちはイエス様が約束した平安と喜びを受け取ることができ、聖霊の慰めと賜物をいただき、神の愛にならって他者を愛する人生へと招かれました。この世で生きる意味と目的があります。
しかしながら、救いの完成はまだ未来のことです。そして神様は私たちが受け取るべき相続財産を天に蓄えておられます。だからヘブル11章の様々な信仰の勇者たちの例をとりあげた後、12章で「こういうわけで」と続け、忍耐をもって走り続けようと呼びかけ、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」と励ましているのです。
私たちは救いの祝福の一部を天国の前味として味わい、楽しみ、力を得て歩めますが、それは全てではありません。旧約時代の信仰の人たちにとって「この世は彼らにふさわしくありませんでした」と言われたように、迫害と苦難の中にあったヘブル書の時代のクリスチャンにとっても、そして現代の私たちにとっても、この世は信仰や労苦、忍耐にふさわしい報いを与えることができないことに変わりはないのです。
ですから、私たちはイエス様から目を離さず、過去の聖徒たちと未来のクリスチャンと一緒に完成の日を待ち望み、すべてが報われ、慰められる時を待ち望みながら、目の前にある歩み、競争、戦いを忍耐して走り通すようにと勧められているのです。
適用 過去と未来の人々と共に
一年にわたって、月一度ではありましたが「主に信頼する」という主題のもと、ヘブル11章から信仰に生きた人々を通して学んで来ました。
有名な人もいれば、無名の人もいました。救いの歴史の中心的な役割を担った人もいれば、その他大勢のような人たちもいます。しかし、それぞれが生きた時代で、めいめい自分に与えられた人生を信仰によって精一杯生きた人々です。
彼らが待ち望んだ約束の救い主によって与えられる救いは、イエス・キリストを通して実現し、今日の私たちは恵みによって与えられました。しかしその完成は、過去と未来の人々と共に受け取るもので、今もなお私たちはその日を待ち望む歩みの中にいます。
そのことを聖霊によって理解していたヘブル書の著者は彼の時代の人々のため、未来の私たちのため、そしてさらにこの先に生まれるすべての人々のために、信仰によって生きた人々の物語を描き、励まそうとしました。
私たちの歩みや、今の世界を考えるとなかなか希望を見出しにくい世界であり、時代だなあと思わされます。それは戦後の日本の繁栄を推し進めた高度成長期やはじけてしまったけれどイケイケだったバブル時代を知っているから余計に感じることで、ここ2~30年くらいの世界しか知らない世代には、こういう感じが普通なのかも知れません。
追い打ちを掛けるように新型コロナによる二年以上の閉塞感やダメ押しのウクライナでの戦争。そういう世界情勢は、決してどこか遠い空の下の話ではなく、すぐに私たちの生活に様々なかたちで影響を及ぼしています。
ヘブル書の時代のクリスチャンたちが、心挫けそうになるほどの試練や苦難の中にあったように、現代の教会、またクリスチャン一人一人も、今のような未来を描きにくい時代の中で疲れを覚えたり、何も良いことがなさそうに思えたりするのは当たり前のことです。そのうえ、私たちの個人的な人間関係や家族の様々な問題は昔ながら、変わりなく私たちのストレスになりがちです。愛することとか赦すこと、心を込めて仕えるといった、クリスチャンに求められる生き方のもっとも身近な実践の場でありながら、最も困難を覚える関係としてあり続けます。
信仰さえあれば、そういうのは楽々乗り越えていけるなんて気休めは言いません。聖書自体がそうは言っていないからです。しかし、信仰があれば楽々ではないけれど乗り越えて行けます。旧約時代の聖徒たちが味わった苦悩、信仰の試練、そしてヘブル書の時代のクリスチャンたちが味わっていた悩みと本質的には変わらないものを私たちは経験しています。だから、希望もあるのです。
「いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて」とあるように、この世の悲観的な面や人間関係の難しさにばかり捕らわれ、不平不満や苛立ちがまとわり付きますから、そういうのにはコントロールされないぞと、何度でも思いなおして、私たちが見つめるべきイエス様と約束された救いの完成、天の御国での報いを思い描きながら、今日一日の労苦を忍耐しつつ、しかし希望をもって歩んでいきましょう。私たちは弱ったり傷付いたりしますが、敗れ去ったりはしません。
祈り
「天の父なる神様。
一年を通して信仰によって生きた人々の歩みから学んで来ました。希望が見えないときに、いかに彼らが主に信頼し、希望をいだいて従い、勝利を得てきたか。たとえこの世で得られるものは、その信仰にふさわしい報いでなかったとしても、主が備えてくださるよきものが私たちのためにも備えられています。
どうか、私たちの日々の歩みやこの世界の中で、闇をのぞき込みすぎて心が弱ることのないように、私たちが見つめるべき方にいつも目を向けて歩めますように助けてください。
忍耐を持って、しかし希望をもって歩ませてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」