2022-09-25 『物語』の続き

2022年 9月 25日 礼拝 聖書:使徒1:1-8

 お気に入りだった映画の続編が作られると聞いて期待し、実際観に行ってみたら実につまらなかった、なんて話しはよくあります。特に最初の作品の熱狂的なファンになった人たちからは、世界観が台無しだとか、二番煎じだとか、散々言われることがあります。そういうケースは二匹目のドジョウを狙ったもので『物語』としての良さが失われていることが多いのです。

逆に最初から上下二巻とか、続き物として書かれた作品は、続けて読んでみて、はじめて作品の良さや、『物語』の全体像や良さが見えてくるものです。

今日は「使徒の働き」に入りたいと思います。読んでいただいた箇所は、導入部分ですが、前回ルカの福音書を読み始めた時の導入部分と良く似ていることが分かると思います。

ルカは当時のギリシャ文化の中でよく書かれていた歴史書の書き方を用いて上下二巻からなる書物を書きました。もちろん、それは架空の小説ではありません。また、現代の歴史書とは少し違います。イエス様の時代と、その後の教会の時代の、それぞれの物語を記し、その中に繰り返されるパターンを巧みに描くことで、イエス様と教会の物語が本質的に一つであること、つまり教会の歩みを通してイエス様のみわざが続いていることを明らかにするために書かれたものなのです。1.約束の聖霊

第一に、約束の聖霊が与えられ教会が誕生しました。

使徒の働き1~7章では、ルカの福音書の続きとして、イエス様が約束し、弟子たちがエルサレムで祈りつつ待っていた聖霊が、いよいよ与えられ、教会が誕生していく様子が描かれます。

ルカの福音書の終わりでイエス様が約束の聖霊について語り、弟子たちがこれからなすべき宣教の務めについて簡単に触れていましたが、使徒の働きで今一度描き直されます。

実はこの時点でも弟子たちの頭の中にはキリストが王として立たれるということの意味を、イスラエル王国の復興というふうな誤解がまだあったことが6節から分かります。しかしイエス様がなさろうとしていること、イエス様がもたらそうとしている神の御国は、もっと大きなものでした。それは、これから弟子たちがイエス様と聖霊の導きによって経験しながら理解していくことになります。

ですから国の再興という弟子たちの期待を否定することはありませんでした。しかし、聖霊が与えられる時に弟子たちを通してなされる主の御業がどのようなものかを8節で明らかにします。

マタイの福音書の終わりにあった「大宣教命令」と並ぶ、大事なイエス様のことばで、イエス様の御国がどのように拡がっていくかが告げられています。

大事なポイントとしては、この宣教の拡大、御国の拡がりは聖霊の力によってなされること、宣教の中心的なメッセージはイエス様についての証言だということです。

私たちはしばしば、「伝道しよう」「証しをしよう」と言われても「自分は話し下手だから」とか「自身がないから」とか「聖書の知識が十分にないから」といった言い訳をしがちです。しかし、それらはどれも聖霊の力ではなく人間的な力の部分です。

では、聖霊の力を受けるとはどういうことでしょうか。つい数週間前にも取り上げた2章の、ペンテコステの出来事にそのヒントがあります。

有名な出来事なので詳細は繰り返しませんが、何といっても強烈な印象を与えるのが、天からの大きな風の音が家全体に響き、炎が表れて一人一人の上にとどまると、そこにいた弟子たち全員が聖霊に満たされ語り出しました。

大きな風のような音、炎といったイメージは旧約聖書の中で神がおいでになる場面で良く出てくるものです。イスラエルの人々にとって、神はどこにおられるか神の栄光はどこで現されるか、という質問への答えは簡単でした。それはエルサレム神殿です。

しかしペンテコステで起こった出来事は、これからは神のご臨在と栄光はイエス様を信じた人々、つまり教会を通して現されるということです。イエス様を信じた個人それぞれと、その交わりである教会が新しい時代の神の宮となりました。別な聖書の箇所では「あなたがたは聖霊の宮だ」と言われているとおりです。

この体、そして教会の交わりが聖霊の宮、神の神殿であるなら、その愛と聖さに相応しく、私たちの心と振る舞いと交わりを聖霊の思いで満たしていただく必要があります。そのようにして聖霊に満たされていくときに、必要な力は十分に与えられます。それなしに何かをしようとするなら、掃除もしないでお店を開くようなもので、あまり良い結果は期待出来ません。2.神の家族

第二に、聖霊をいただいたクリスチャンたちは神の家族として築き上げられていきます。

7章までは、聖霊がくだり誕生した教会、使徒たちの働きはエルサレムというとても小さなエリアでなされていました。描かれる出来事の場面も、弟子たちが集まっていた家であったり、エルサレム神殿、エルサレムにある議会といった場所です。

そこで使徒たちを初めとする教会がたどった道のりは、イエス様がなさったことと重なっています。教会が神の家族として築き上げられるとは、イエス様の歩まれた道のり、イエス様の御わざを自分たちのなすべきこととをして受け止め、果たしていくことです。

例えば3章では、イエス様がなさったように、使徒たちは病人を癒しました。もちろん使徒たち自身の人間的な力によってではなく、イエスの御名によって、聖霊の力によってです。

4章では、イエス様がナザレ出身であることから疑いの目で見られたように、使徒たちもガリラヤ出身で正規の教育を受けたことがないということで律法学者たちから疑いの目で見られました。

4章の終わりでは、イエス様がいつも貧しい者たちとともにおられたように、教会が貧しい者たちの世話をしていたことが再び記されています。

こうした出来事の合間、合間に、イエス様もそうだったように、祭司長や律法学者、長老たちといったイスラエルに指導者たちに反対され、捕らえられたり、牢に入れられたりしましたが、使徒たちも教会もひるむことなく、聖霊に励まされ、イエス様が毅然とした態度で指導者たちの頑なさと間違いを示し、神が悔い改めを求めていることをはっきりと語りました。

しかし、教会が神の家族として築き上げられていくためには、自分たちのうちにある様々な課題も聖霊の導きの中で取り扱わなければなりませんでした。

最初の問題は5章です。兄弟姉妹が互いに支え合う麗しい、しかし現実的な支え合いの中で起こりました。多くの人が自分の財産を処分して教会内の貧しい人たちと分け合うことで、支え合っていました。これは誰もが自由に行うことができ、しないことも可能でした。全財産でなくても良かったのです。しかしアナニアとサッピラは一部を自分のもとに残しておいたにも拘わらず、あたかも全財産を献げたかのように偽りました。神様が問題にしたのはその虚栄心から来る嘘でした。5:3にあるように、この嘘は「聖霊を欺」こうとする事です。アナニアとサッピラはいのちを失うという代償を支払うことになり、教会には恐れが生じました。それは神の前では正直さと誠実さが求められるという教訓になりました。

もう一つの問題は6章です。貧しい人たちの分配を巡る混乱でした。混乱に背景には、エルサレム在住のヘブル語を話すユダヤ人と、外国暮らしが長くギリシャ語を話すヘレニストと呼ばれるユダヤ人たちの間にある文化的、宗教的溝です。それがやもめたちへの配給に、不公平をもたらしてしまいました。ありがちな話しです。この問題を解決するために、6:5にあるように「信仰と聖霊に満ちた」7人が選ばれました。

こうして教会が聖霊の導きによって神の家族として築き上げられたことによって6:7にあるように、教会が成長しました。3.全ての民へ

第三に、聖霊は全ての民に福音を宣べ伝えるように教会を導きました。

きっかけはあるユダヤ人グループがステパノと議論したことでした。ステパノはやもめたちへの配給問題を解決するために選ばれた7人のうちの一人です。6:8から7章にかけて記されています。

ステパノに議論を挑んだのは、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人たちでした。リベルテンというのは「解放奴隷」という意味です。紀元前63年にローマのポンペイウス将軍がユダヤを征服したときに奴隷としてローマに連行されたユダヤ人たちが後に解放されて自由にされました。その人たちやその子孫をリベルテンと呼びました。ですので、出身地はクレネ、アレクサンドリア、キリキヤやアジアなどユダヤ以外のローマ帝国各地に及んでいたわけです。彼らもギリシャ語を話すユダヤ人、ヘレニストでした。

ところがエルサレムではヘレニストたちが次々とクリスチャンになっていきます。リベルテンの会堂に属する人々が新しく生まれた教会へと流れていったことに対する危機感があったわけです。イエスを信じた人々は教会に連なり、支援を受けて裕福とは言わずとも不自由のない生活を送れるようになっていましたから、妬みもあったのではないかと考えられます。

彼らはステパノに議論を挑みましたが、とてもじゃないですがステパノに議論では勝てません。そこで、祭司長たちがイエス様にやったのと同じ手を使ってステパノを訴えました。律法と神を冒涜するの聞いたと偽証させたのです。

そこでエルサレムの最高法院で裁判が行われました。7章に雄弁なステパノの説教が記されていますが、自分たちの頑なさと偽善を鋭く指摘された人たちは腹を立て、ステパノを石打にして殺してしまいます。その場に後に異邦人のための使徒となるサウロがいたことがさりげなく記されています。それからステパノの殉教をきっかけに、8章始めのエルサレム教会への激しい迫害が起こりました。このときの迫害は主にステパノの仲間と思われたヘレニストの弟子たちに対して行われたようですが、その中心にはサウロ、後のパウロがいました。

一方迫害によって散らされた人たちは8:4にあるように、福音を伝えながら巡り歩きました。結果として教会はイエス様が1:8で言われたように、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリヤへと拡がっていったのです。

8章にはステパノと同じくギリシャ語を話すユダヤ人で例の7人の一人、ピリポがエチオピア人の宦官に福音を伝える話が出て来ます。9章では迫害の中心にいたサウロが回心する場面があり神様のご計画が人知れず進んでいました。そして10章では使徒ペテロがはじめて異邦人であるローマの百人隊長に福音を語るよう導かれ、11章ではアンティアオキアで異邦人教会が誕生し、はじめてキリスト者、クリスチャンという呼び方をされるようになりました。

12章では迫害の手が使徒たちにも及んだことが記されていますが、それでも24節にあるように教会はさらに前進しました。

聖霊によって教会を導き励まして来た神様は、迫害という危機をもチャンスに変え、地の果てまでとイエス様が1:8で言われたように、全世界へと福音を宣べ伝えるようにと導いたのです。適用 良い知らせの担い手

今日は使徒の働きの前半まででしたので、後半13章以降は次回に回したいと思います。

使徒の働きの前半でルカを通して神様が私たちに示していることは何でしょうか。

それはイエス様のもたらした良い知らせ、福音の担い手は教会だということです。しかも、教会の誰か、使徒たち牧師や伝道者など専門家ではなく、ついこの間まで福音なんか知らなかった普通の人たちが福音の担い手になっていたということです。

福音の担い手になるということは、伝道する、証しをするという面だけではありません。それ以前のこととして、イエス様によって罪赦され、新しい人として生まれ、神の家族に迎えられるという良い知らせを受け取った人たちが、その福音に生きることを学び、実践していました。聖霊の宮、神の宮とされたクリスチャン一人一人、教会の交わりが、神の神殿に相応しいあり方、歩みとは何かを使徒たちから聖書を通して学びました。それは単に知識として終わらず、神を畏れ、互いに愛し合い、隣人を愛し、様々な問題があっても聖霊の導きと助けによって乗り越えていきました。

イエス様を信じたら、自分自身が自由にされただけでなく、他の人を愛したり、仕えたりできる者に変えられたという経験と実感がありました。交わりの中で共に学び、祈り、賛美し、分かち合うことの喜びを知りました。それはまわりのユダヤ人が驚くもの、リベルテンの人々が妬むほどの素晴らしさでした。

使徒たちやあの7人だけでなく、迫害によって散らされたクリスチャンたちが、行った先々で福音を伝えたのは、伝道を奉仕として考えていたからではありません。

福音が新しい生き方をさせる力があることを知っているし、自分たちがそうやって互いに愛し合い、隣人を愛することをさせる原動力がイエス・キリストであることをはっきりと理解していたので、聞かれたらごく自然に証しできたのです。

美味しい味噌汁を作れる人が、なんでそんなに美味しい味噌汁を作れるのと聞かれたら、母親から教わったとか、料理教室で習ったからとすぐに言えると思います。仕事上の特別な技能がある人も、それをどこで身につけたか、迷わず言えると思います。

子ども時代や青年時代、私はイエス様を証しするどころか、自分がクリスチャンであることをあまり人に言いたくありませんでした。確かに生活パターンはクリスチャンっぽかったのですが、それは親の受け売りや周りの期待に応えているだけのものでした。けれども、神様のご愛やイエス様のみこことを深く知り、自分のこととして受け取れるようになり、そういう生き方をしようとし始めたら、人間としての私に心には恐れも緊張もありますが、それでも割と自然に証しができるように変えられていきました。

福音によって生きることが身についていれば、それをどなたから学んだか、イエス様から学んだのだと言うことができます。

使徒の働きの時代も、それからおよそ2000年後の現代も、皇帝が治める古代のローマ世界も、民主主義によって成り立っている現代も、イエス様が教え始め、行い始めたことの続きは教会に託されています。

イエス様が天に上げられるとき、天使が弟子たちに言いました。「どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

途方に暮れることはありません。教会の歩みは永遠にがんばるものではなく、イエス様が帰って来られるまでのものです。その間、聖霊が私たちを励まし、力を与え、導きます。自分の力を、自分の能力を見るのではなく、私たちを救ってくださったイエス様を信頼し、イエス様が遣わされ私たちのうちに住んでくださった聖霊を信じ、まずは私たちが福音に生きることから始めましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は使徒の働きの前半を通して、イエス様の教えとみわざが教会に託され、そのために聖霊が与えられたこと、聖霊に励まされた教会の一人一人が福音に生き、福音を証しした姿を見ました。

イエス様を信頼し、聖霊に励まされて歩む時に、どれほど大きなことが起こるのか、私たちも経験したいです。どうか、まずは私たちが福音に生きることを学び、イエス様の素晴らしさを生活の中で、交わりの中で味わうことができますように、どうぞ導いてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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