2023年 1月 8日 礼拝 聖書:ガラテヤ6:11-18
新しい年になってはや一週間。お正月休もあけてそれぞれ通常モードに戻ったことでしょうか。
さて、礼拝メッセージも通常モードに戻り、久しぶりに聖書全体を通して学ぶシリーズに戻りたいと思います。
新年といえば、子どもの頃は学校の宿題で「今年の抱負を書いてきなさい」なんてものがありました。多分、私は「整理整頓」みたいなことを書いたと思います。それがすごく苦手だという自覚があったので、一応書いたのですが、残念ながらこの歳になってもまだ身についたとは言えません。
皆さんがクリスチャンになるとき、どんな願いをもって信じたか思い出していただきたいと思うのですが、そこには何かしら変化を期待したのではないかと思います。心に安らぎがあるようにとか、慰めを願うとか、確信を持って生きたいとか、赦されている実感が欲しいとか、様々な願いがあったのではないかと思います。しかしそれはどうやって得られるのでしょうか。何が人を新しくするのでしょうか。パウロの手紙の中でも初期の頃に書かれたガラテヤ書はそのことを取り扱っています。宗教改革で有名なマルチン・ルターもガラテヤ書の聖書研究を通して、当時のカトリック教会が抱えている問題を見抜き、改革を求めたと伝えられています。
ご一緒にガラテヤ書を大まかに見ていくことにしましょう。
1.義と認められるのは誰か
ガラテヤ書は大きく3つの部分に分けられます。まずは1~2章ですが、ここで取り上げられるのは「誰が義と認められるのか」ということです。義と認められるというのは、罪ある私たちが神との正しい関係を回復するという意味があります。夫婦や親子の間で、約束を破ったり不誠実なことをしたりすれば関係が悪くなります。素直にご免なさいと誤り、態度を変えれば赦され、関係が回復します。義と認められるというのは、そういう関係回復が神との間になされるということです。これがキリスト教やそのゆりかごとなったユダヤ教における救いの最も大事な部分でした。神に赦していただき、仲直りするために何が必要か、私たちの救いに関する非常に重要な問題についてとんでもない誤解と頑なさを示す人たちに、パウロはかなりの憤りと共に書いています。まずこのポイントが1~2章で取り上げられています。
何があったのでしょうか。パウロは第一回の宣教旅行でガラテヤ地方を初めとする今のトルコ西側のあたりでいくつかの教会を建て上げました。それらの教会にはユダヤ人だけでなく多くの異邦人が教会に加えられていました。一通りの働きを終えてパウロのチームは自分たちを送り出してくれたアンティオキア教会に戻り、神様のすばらしい御わざを報告し感謝し、しばらく休養と交わりの時を持っていました。
ところがその直後、一部のユダヤ人クリスチャンがやって来て、異邦人もユダヤ人と同じように律法の定めを守らなければ救われない、義とされないと強く主張したのです。その圧力に屈する形でペテロまでが、異邦人クリスチャンとの交わりから距離を置くようになる始末で、パウロはペテロに面と向かって非難しなければなりませんでした。このユダヤ人グループはアンティオキアだけでなくガラテヤを初めとするアジヤの諸教会にも行って、同じように主張し、混乱させていたのです。この問題を解決するための話し合いが使徒の働き15章に書かれていますが、ガラテヤ書では、その裏付けとなる聖書に基づいた福音理解が示されています。
義と認められるためには律法を守る必要がある、というのはキリストの福音とはまったく別モノでした。1:6~8でパウロは「私は驚いています。…急に離れて、他の福音に移って行くことに。」「あなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです」と強い言葉で、その教えは本当の福音ではないと責めています。
2:15を開いてみましょう。律法を守るユダヤ人からすれば、律法を守らない異邦人は罪人です。しかし人間はそもそも律法によっては義とされません。人間の行動や思いが完全に正しくなるということはないので、行いを正すことで神との関係を回復するということは無理な話なのです。福音の中心はイエス・キリストを信じることによって私たちの罪は赦され、神との関係が正しく回復される、つまり義と認められるのです。そのためにイエス様は十字架につけられました。このイエス様を信じるとき、20節にあるように、私たちはイエス様と結びつきます。イエス様のよみがえりのいのちにも結びつきます。だから、人が義とされるために律法が必要だと言うことは、キリストの十字架では足りない、無意味だと言うようなものなのです。それをパウロは怒っていました。
2.新しい神の家族
ガラテヤ書の2つめのまとまりは3章と4章です。ここでは新しい神の家族が取り扱われています。
パウロは信仰によって義とされた人々が、信仰による新しい神の民、神の家族に入れられるということを、アブラハムへの神の約束に基づいて説明しています。
まずパウロは3:1~2でガラテヤのクリスチャンたちに、「ああ、愚かなガラテヤ人」と嘆きながら、あなたがたが新しいいのちをいただき、聖霊を受けたのは、十字架につけられたキリストを信じたからなのか、それとも律法を行ったからなのかと問いなおします。もちろん、律法とは無関係に信仰を持って聞いたからです。それは私たちも同じです。正直、旧約聖書の律法の内容は知りませんでした。教会の門を叩き、聖書を学び始めた時も、クリスチャンになるために守るべき戒律があるとは聞かされなかったはずです。
そもそも6節にあるようにユダヤ人の先祖であるアブラハムも神を信じたから義と認められたのでした。律法はずっと後の時代に与えられたものです。
ですから義とされるというのは、律法とは関係なく信仰によるものなのです。そしてアブラハムには、彼の子孫を通して全世界を祝福すると約束されました。その子孫とはまさしくイエス・キリストのことであり、信仰によってキリストに結び合わされたすべての人々が一つの大きな民、家族となるのが神のご計画だったのだということが説明されます。
そうなると一つの問題が出てきます。ユダヤ人クリスチャンたちがすべての異邦人クリスチャンにも守るようにと主張する律法は何のために与えられたのでしょうか。律法は神のご計画を実現する救い主が現れるまでの間、イスラエル民族に対して与えられた一時的なものです。その役割は二つあり、一つは3:19にあるように、すべての人が罪の下にあることを示すため、そしてもう一つが3:24にあるように、罪ある人々が、救い主が現れるまでの歩みを導く養育係のような役割を果たすためです。
しかし、救い主はすでにおいでになり、イスラエルの民が果たしきれなかった律法を成就し、十字架のうえですべての罪を引き受けてくださったので、律法の役割は完全に終わったのです。25節にあるとおりです。
すべての人が信仰によって義と認められるなら、必然的に、信仰によってキリストに結び合わされた人たちは、3:28~29にあるように「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もなりません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストにものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」つまり、新しい神の民、神の家族の一員とされたのです。
4章は少し分かりにくい議論になっていますが、言わんとするところは、神はキリストによって全ての人を律法や罪の奴隷から解放し、神の子ども、相続人とし、自由としたのに、なおも律法を後生大事にし、これを守らなければ神の民ではないと言い張るなら、せっかく福音を伝えたことが無駄になってしまうと嘆いています。自由の子とされたのに、また自分から奴隷のようになるのはまったく愚かなことです。
3.聖霊による再創造
ガラテヤ書の3つ目のまとまりは5章から6章になります。ここで取り上げられるテーマは、イエス様を信じて義と認められ、神の家族に加えられたすべてのクリスチャンは、聖霊によって新しく造り変えられるということです。
5章の始めで、パウロは自由を得させるために神はキリストによって救ってくださったのに、今さらまた律法によらなければクリスチャンではないというなら、キリストの恵みを否定することになると改めて厳しく指摘します。
しかしまた私たちがこの自由を好き勝手に生きるために用いるのも神のみこころに反することです。5:13にあるように、自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさいと言われます。
では、何が神のみこころで何が間違っているのか、肉の働く機会となるのか、また、どうすることが愛をもって仕え合うことなのかを律法なしに知ることができるのでしょうか。それは道路交通法や犯罪を取り締まる法律なしに安全な社会を維持しようとするようなもので、無理じゃないかという声が聞こえてきそうです。
これに対してパウロは、主イエスの聖霊が私たちクリスチャンを造り変えることによって、と応えます。
律法そのものは良いもので、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という教えに要約することができます。しかし律法は何が原則かは教えることができても、私たちに力を与えることができません。
厳しい罰則がともなう法律があっても、のろのろ運転する人にいらついて煽り運転をする人はいなくなりません。規則にはある程度悪い行いを抑止する力あっても、人間そのものを良くするわけではありません。
聖書は律法だけではなく、様々な教えがあり、詩があり、物語があります。それらの知識をたくさん得たからといって、それで人が変わるわけではありません。ですから気をつけないと15節にあるように、律法は守っていても、知っていても、互いにかみつき合ったり、いがみあうようなことが起こり得ます。
しかし、主の御霊が私たちを新しい人に造り変えてくださいます。5:16~26は有名な「御霊の実」について教えている箇所です。注目しなければならないのは、私たちのうちには二つの力が常に働いているということです。肉と御霊というふうに描かれています。この場合、肉とは人間が生まれながらに持っている罪の性質や弱さです。私たちの心と生活がそれらに引っ張られていると、「肉のわざ」と言われているような様々な問題、罪を引き起こします。しかし私たちの心の中にはもう一つの力、聖霊の導きが働きます。「御霊の実」と言われているとおり、実は結ばれるものです。つまり自然になるものではなく、育てる必要があるものです。具体的には新約聖書を通して示される神のみこころを知ることと、心のうちに働く聖霊の気づき、促し、励まし等が相まって、私たちの心と頭に働きかけます。私たちがそのような気づきや励ましを受け、実際にやってみて、少しずつ身につけていくことで御霊の実は結ばれていきます。規則を守ることで表面的に正しくなるのではなく、私たち内側から造り変えられて、神と人を愛する者にするのです。
適用:今日の律法主義
最後の6章は、聖霊による再創造が教会の交わりにどのように反映されていくかがいくつかの勧めとともに記されます。
律法によって義とされるという立場に立ち続ければ誰かが過ちに陥ったときに起こるのは非難と裁き合いです。しかし御霊の再創造があるところでは柔和と寛容、自己吟味を土台として教え合い、あくまで共に建て上げられることを目指した対話が中心となります。
そして最後に、司会者に読んでいただいた挨拶が記されます。
11節に「こんなに大きな字で、…自分の手で書いています」とあります。手紙は口でしゃべったことを筆記者に書いてもらうのが普通でしたが、特別な場合は自分の手で挨拶を書きます。しかも大きな字で書いたということは、非常に重要なことだよ、ということを強調しているのです。まだ生まれて間もない教会が、自由を与え、御霊による再創造をもたらす福音から離れ、分かりやすく手っ取り早い律法主義に陥ったらどんな悲劇が待ち受けているでしょうか。信心深そうな生活はされるでしょうが、クリスチャンが本来持っていられるはずの自由も喜びもなく、教会の交わりは愛や寛容さが失われ、裁き合い、非難し合うようなものに変わり、それでいて罪の誘惑に対しては全く無力で、それを表面的な従順さで覆い隠す偽善の仮面を被るクリスチャンの出来上がりです。
恵みによらず、行いによるかのような信仰はキリストの十字架を全否定するものです。私たちに必要なのは6:15にあるように新しい創造です。
しかし、現代のクリスチャン生活と教会の交わりにも律法主義は簡単に忍び込んできます。もちろん、現代の律法主義ともいうべき、様々な伝統や規則でがっちり縛るような教えをする教会や指導者がいるにはいます。しかし、そんなものに耳を貸さなくても簡単に恵みではなく行いによって、という歪んだ信仰は生まれます。御霊の導きによって生きようとしないだけでそれは忍び込んでくるのです。それは主義なんて立派な名前はつきませんが、確実に私たちの信仰生活から自由と喜びを奪って、恵みではなく恐れや無感動や義務感に縛り付けます。しかも簡単に。
聖書を通して神様の御思いを知ることを怠ったり、心のうちに語りかける聖霊の声に耳を貸そうとしなかったり、聖霊が気づかせたり、励ましたり、警告したりしているのにそれを無視していると、あからさまに罪深い生活に陥る人もいますが、多くのクリスチャンは外側だけクリスチャンっぽく振る舞うことで誤魔化すことを覚えるようになります。そうやって恵みによらない、聖霊による再創造とは遠くかけ離れたいのちのないクリスチャンの出来上がりです。
私たちはすぐに失敗するし、誘惑にも負けます。教会の交わりも誰かが自分勝手なことをすればすぐに空気が悪くなるでしょう。そういうのをルールで縛ったり、あれはしちゃいけない、これは食べちゃいけない、だって聖書にこう書いてあるから、という形で収めようとしたくなります。簡単だからです。しかし、そこに聖霊の働きはありません。
聖書はもちろん大事です。しかし大切なことは、聖書に記されていることを通して、聖霊が私に何を語りかけているか、何に気づくべきか、私のどの問題に触れているのかをよく考えて、聖霊の導きに従って生きることの繰り返しです。それは多くの失敗を繰り返しながらの歩みかもしれませんが、そこで生まれる変化は本物の聖霊による新しい創造です。私が新しく造り変えられていく経験です。そこに他人を見下したり、さばいたりしている暇はありません。ぜひ外側をよくみせる信仰生活ではなく、信仰によって聖霊の導きに従い、小さくとも本当の新しい創造がされ続ける歩みをしていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日はガラテヤ書を通して、聖霊による新しい創造が私たちの内側から起こることを学びました。ガラテヤ教会を始めとする初代教会が陥った、恵みによらず自由を失い、律法と罪に縛られた生活は今でも陥り易い罠です。
どうぞ私たちを守っていてください。何より私たち自身が、外側だけをよく見せようという誘惑から守られ、地道であっても聖霊の導きに従い、ゆっくり新しくされる生活、新しい創造を経験する人生でありますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」