2023-03-05 新しいいのちに歩むため

2023年 3月 5日 礼拝 聖書:ローマ6:1-11

 まもなく震災から12年です。その後も各地で様々な災害がありました。その度に聞くことばに「早く元にもどれるように」とか「元の暮らしに戻りたい」というものです。けれども、冷たいことを言うようですが、遅かれ早かれ「元の生活に戻ることはない」ということに気付きます。亡くなった大切な人は戻って来ませんし、破壊された町はすっかり様変わりします。それでも、多くの人は、何とかその状況に慣れて普通に暮らせるようになります。元には戻れないけれど、喪失を受け入れ、前とは変わってしまった生活に慣れて、新しい希望を見つけ、人生を取り戻すことができるのです。

毎月一度、2022年度の主題「主の回復の年」にちなんでいくつかの箇所を開いて来ましたが、今日は最終回になります。

主が私たちを回復してくださるとは、いったいどういうことだったのか、一応のまとめにしたいと思います。旧約聖書の預言者たちは幾度となく、来るべきメシヤによる回復を伝えて来ましたが、神様のご計画は、イスラエルの民を過去の幸せだったどこかの時点に戻してくれるということではありませんでした。イエス様の働きと教えを通して教会に教えられた神様の回復のご計画は、私たちを純真無垢だった時代とか、すべてが上手く行っていた頃に戻すというのではなく、新しい人として、新しいいのちに歩むようにしてくださることである、ということを学んでいきましょう。

1.過去に戻ることではない

第一に、繰り返しになりますが、イエス様によってもたらされる回復は過去の良かった頃に戻ることではありません。

皆さんは、「あの頃に戻ったら、違った選択をしたかもしれない」と想像したことはあるでしょうか。もし、違った道を選んでいたら違った生き方が出来ていたかも知れないと妄想したり、あの頃に戻れたらちゃんと勉強しておこうとか、あそこで踏みとどまれば良かったとか。一つ一つの選択が違った結果を生み出すのは確かですが、もう一つ確かなことは、私たちが過去をやり直してどんな選択をしたとしても、それでも私たちを縛っている罪と死から逃れることはできなかったはずだということです。

回復をテーマにした今年度のメッセージの最初は5月でした。聖書のはじめの箇所でエデンの園にあった「いのちの木」が、聖書の一番最後の黙示録に再び登場するという箇所を取り上げました。

神のかたちとして創造され、神のいのちの息吹を吹き込まれることで生きる者となった人間が、神に背を向け、罪を犯してしまい、本来の人としての姿、神のかたちとしての姿が損なわれてしまいました。いのちの木に至る道が閉ざされたのは、人がもはや自力ではそこに帰ることができないことを暗示しています。

アダムとエバの時以来、人は罪を持って生まれ、死に行くことが定められています。神に似た者としての性質がすっかり失われてしまったわけではありませんが自力でどうこうできるようなものではありません。そして、生まれながらに持っているこの罪と死の縄目がいつも私たちを支配し、何度でも私たちを悪へと誘い、いのちを与えた神の素晴らしさを表すのとは真逆の方へと私たちを引きずり込み、傷つけ苦しめます。ですから、私たちが抱えている傷や痛み、苦しみの中から回復されるのは、何も心配毎がなかった時代や今よりましだった過去の状態に戻るだけでは不十分なのです。

預言者エレミヤは祖国が破壊され、捕囚とされていくのを目の当たりにしながら預言しました。「おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。」(エレミヤ31:4)。確かに国が滅びてからおよそ70年後に捕囚とされたイスラエルの民はその地に帰っては来ました。神殿は再建され、城壁も修復されました。しかしイスラエルの民の心は再び頑なになり、気付けばいつか来た道を辿っていました。預言が外れたのではありません。神様には別な計画があったのです。約束の救い主によって、あらゆる国の人々が信仰によって新しい神の民とされ、集められ、喜びと賛美を捧げる神の家族、教会として建て直されるのです。

ローマ6:1でパウロは「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中に留まるべきでしょうか」と問いかけています。

罪赦されて自由とされたはずの私たちですが、新しい生き方を選ぶより「古い生き方の中に留まっても神様が赦してくれるからいいじゃん」と思いたくなったり、ありのままで受け入れられた恵みを、「罪の中に留まっても良いじゃないか」という言い訳に使ってしまいがちです。あるいは、何かに傷付く前の状態に戻りたいと思う気持ちは私も分かりますし、そういう願望があるのも事実です。しかし私たちの回復は過去にではなく、キリストにある未来に備えられているのです。

2.罪のための死と復活

第二に、イエス様の罪のための死と復活は、私たちが新しいいのちに歩むためです。

6:1の問いかけにパウロはこう応えてみせています。「決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」救いは罪が赦されるだけでなく、生きるためです。これはとても大切なポイントです。

クリスチャンになったら罪を犯さないとか、罪を犯すはずがないと言っているのではありません。そういう意味なら、私たちは皆自分が本物のクリスチャンか疑わなければならないことになります。そうではなくて、パウロが指摘しているのは、イエス様の十字架によって罪赦された私たちが、なおも罪のうちに歩むことに平気でいられるはずがない、ということです。失敗もするし、誘惑に負けてしまうこともあります。それでもこの罪のために死なれたイエス様のことが心に浮かんで来て、平気でいられないのがクリスチャンです。そういう意味で、ある種の負い目や罪悪感を覚えるのはクリスチャンとして正常な感覚です。

しかし、イエス様は私たちをいつも良心の痛みを覚えだけの辛い人生を送らせるために私たちをクリスチャンにしてくださったのではありません。

6:3で「あなたがたは知らないのですか」と問いかけていますが、罪を犯してしまう現実の中で、良心の痛みや罪悪感という正常な感情が動いたなら、その時こそ、イエス様の十字架と復活によって私たちがどういう者にされたのかを思い出し、認識を新たにしなければなりません。どんな認識か。6:4~5にあるとおりです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」

罪のために死なれたイエス様が死に打ち勝ってよみがえってくださったように、私たちを新しいいのちのうちに歩ませてくださるのです。11節でも「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」と、自分自身に関する認識を変えるように教えています。

何度も同じ失敗を繰り返すだめな自分。この誘惑には絶対勝てない自分。まるで成長できない弱い自分。そういう否定的な自己認識をあらためて、それでも「イエス様によって新しく生きることが出来る者とされたのだ」という新しい自己認識に立ち続けることです。ダメな自分だけれど、弱い自分だけどキリストにあってダメじゃない、弱いだけではありません。私たちは新しいいのちに歩むために救われたのです。ただ罪が赦されるためだけでなく、ダメな自分を「よしよし」と頭を撫でてもらって終わりでもない、しかたがないよと全部を受けてもらうだけではないです。赦し、慰め、受容、そのどれもが救いの大事な面です。しかし、イエス様はよみがえられました。私たちがここから人生を取り戻し、新しく生きるためです。では、新しいいのちに歩むとはどういうことでしょうか。

3.新しい人として

第三に、私たちは新しい人として歩みに招かれています。

6~7節にキリストとともに十字架につけられたので、私たちも死んで、もう罪の奴隷ではなくなった、罪から解放されたとあり、だから8節にあるように、キリストとともに生きることになるというわけです。しかし、これは私たちクリスチャンが一般的に感じている現実とずいぶんかけ離れているように思われるかもしれません。「こんなに弱さがあり、誘惑に弱く、失敗の多い私たちは、今も罪の奴隷ではないか」「パウロだって自分は罪人の頭だと言っていたよね」と言いたくなるのも分かります。

この教えを誤解なく理解するためには「奴隷」という状態の意味合いを知る必要があります。

ローマ時代の奴隷は、主にローマ帝国が征服して戦いに負けた国、民族の兵士たちが奴隷とされました。奴隷といっても様々な待遇があり、かなり過酷な農場での単純労働、肉体労働に従事する人もいれば、能力さえあれば主人の家の管理を任され、全財産を管理運用する責任も委ねられるケースもありました。時には主人の家の子どもたちの家庭教師をすることすらあったのです。

しかし、奴隷とされた人たちは、例外なくその身分を自分で自由に変えることができません。奴隷は生命も含め主人の所有物です。どんなに主人から信頼され、すべてを任されたとしても、奴隷としての身分を自分の力でどうこうすることは出来ませんでした。

ですから罪の奴隷であるとは、罪の深さや大きさの問題ではなく、罪の支配の中にある状態から自分では自由に抜け出せないということです。人は自分の人生を自分のものと思っていますが、実際は罪の力によって支配されているのです。

奴隷が自由になるのは、主人が解放すると言ってくれたときか、死んだ時だけです。罪の奴隷である私たちはキリストとともに死んだのでもう自由だ、というのはそういう背景の中で語られました。

イエス様を信じる前の私たちは、罪の奴隷でした。罪に支配されている者であり、その立場を自分で変えることはできませんでした。しかし今は、罪に対しては死に、神に対して生きる者にされた。つまり、罪の支配から解放され、神に仕える者になったということです。

神様はパウロを通して私たちに、自分がそういう者だと認めなさいと11節で語っています。これが意味することは、今まで自分を支配していると思っていた罪は、私を支配なんかしていないのだ。私は義に仕える者、神に仕える者として生きることを選ぶことができる者だと認識をあらためなさいということです。自分で罪に対して無力だと思い込んでいる私たちが急に強くなるわけではないので、私たちのうちにやどったイエス様のいのちと聖霊の助けは絶対に必要です。それによって私たちは神様の前を歩む者になっていくことが出来るのです。

しかし15節にあるように、恵みの下にあるからといって罪を犯したとしても良いじゃないかとか、しかたがないと従い続けていたら自分から進んで罪の奴隷に成り下がってしまいます。それで救いが取り消しになったりはしないけれど、古い生き方のままであり続け、しかもクリスチャンであるが故の良心の痛みを感じ続けながら生きるという、まことに苦しい信仰の歩みになってしまいます。

適用:過去と罪からの解放

ローマ社会には経済的な理由から自分を売って奴隷になる人たちがいたそうですが、神に従うための戦いから逃げることで自由を売り渡し再び罪の奴隷になるなんて、受け取った恵みをどれほど無駄にし、私たちを愛して十字架にまでかけられたイエス様を悲しませることになるでしょうか。

しかし、長い間独裁政治の元にいた人々、支配的な人にコントロールされて生きて来た人が、自由を与えられても、自由が何であるか、どう生きれば良いか分からず、自分から再び束縛の中に戻りたがるということがあります。罪の支配から自由にされても、適切な助けと励ましがなければ、罪から自由に生きるということが恐ろしいまでに不安を与え、自信を失わせてしまいます。

ですから、神の義に仕える者として生きる、聖さを求める、といったことがとても困難な事に思えますし、そのための努力や戦いにひるんでしまうのも分かります。そんなわけで初代教会の多くのユダヤ人クリスチャンが再び律法を持ちだし、それに影響された異邦人クリスチャンが決まったルールを守ることで自分はちゃんとしたクリスチャンだと安心感を得ようとしたのも分からなくありません。でもそれはキリストの恵みを無駄にし、自由を売り渡すことです。罪の奴隷から規則の奴隷になっただけで、本当には罪から自由とされた生き方は身につかないのです。

しかし、イエス様の十字架の死と復活によって与えられたこの救い、この福音によれば、私たちは罪の支配から解放され得るのです。私を無力に感じさせ、どうせダメだと思わせ心を支配している過去の経験や記憶からも自由になることが出来るのです。私たちはイエス様が私の罪のために死んでくださったということを信じるだけでなく、イエス様がよみがえったのは、私が新しく生きられるようにするためだと、ということも信じ続けて歩むべきです。その信仰なしに、罪から自由にされたことを実感することも、体験することもないし、新しい人として歩むための力も喜びもわき上がっては来ません。

私にとっての、ダメな自分の一つは、新しい人間関係を作るのが本当に苦手だということと、人間関係が壊れることを非常に恐れて言うべきことを言えないという面があります。牧師としてはかなりのハンデだと思います。人見知りは罪ではありませんが、恐れに捕らわれていたのです。だから、最初から積極的には人間関係を作らない、難しい話題は先延ばしにしてしまうということが身についてしまっていました。それでいて、ちゃんと出来ているふうには見てもらいたくて、表面的には立派なクリスチャンを演じるわけです。これじゃダメだ、なんとかやり直さなきゃと必死でしたが、自分の力で克服できるものではありませんでした。

イエス様がそのような自分を受け入れてくださり、新しき生きられることを教えてくださり、励ましてくださったのは、聖書の教えと共に、なんだかんだ言って教会の交わりであり、クリスチャンの友人たちの励ましや忍耐でした。初めて自由を経験した解放奴隷が自由の意味を知り、それを味わい、喜べるようになるには時間と経験が必要だったように、クリスチャンが罪の支配から解放されキリストによって自由にされ、新しい人として歩むことに喜びを味わえるようになるには、新しい自覚と、兄弟姉妹からの励ましと温かな交わりの中でのサポートが必要でした。それによって、少しずつ私も解放され、今はありのままの自分を受け入れつつ、同時にこのままでいいやと現状維持を決め込むのではなく、やがてイエス様に似た者に変えられることを本気で信じて、少しでもそこに近づけるように願い、小さな歩みを続けています。

皆さんにとって、自分を縛っている罪や過去は何でしょうか。キリストによって自由とされた私たちは、実はそれらのものに縛られてはいないのだと信じましょう。私たちを縛り付けていたロープや鎖の感覚は残っているかも知れませんが、私たちはそこから立ちあがることも、離れることもできます。私たちのうちにあるキリストのいのちの力と聖霊の助けによって、私たちは新しい人として、新しいいのちのうちに歩むことができるのです。

祈り

「天の父なる神様。

主が聖書全体を通して約束し、実現し、完成させてくださる回復が、私たちを縛っていた罪と死の力からの解放であり、キリストいあって新しいいのちに歩むことであることを学びました。

どうぞこのことが、単なる知識や、ぼんやりとした理想ではなく、喜びと感謝を伴う私たちの本物の経験となりますように。私たちを縛っていた鎖はもうないことに気付かせてください。主にあって新しいいのちのうちに歩み出せることを確信できますように。

イエス様の皆によって祈ります。」

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