2023-3-12 私の助けはどこから

2023年 3月 12日 礼拝 聖書:詩篇121:1-8

震災から12年経って、今日の午後は釜石で「3.11集会」が開かれます。沿岸被災地に仕える教会が共に礼拝と祈りを捧げ、また遣わされていく、ということをコンセプトに開かれてきた集会ですが、今年はじめてその沿岸で開催されます。今の岩手宣教が震災前の状況から大きく変わっていることを印象づけられます。

しかし、ご存じの通り、震災後も様々な災害がふりかかり、新型コロナやウクライナ戦争など、世界のあり方をひっくり返すような出来事も起こりました。困難が尽きることのない私たちの人生は、私たちの信仰のあり方について何を問いかけているのでしょうか。

先日、盛岡に向かう途中で花巻の北上川にかかる橋を通った時に、橋の正面に大きくくっきりと岩手山が見えました。まだ雪を被っていますが、光の加減がちょうど良くて山肌がはっきり分かるような、とてもハッとさせられる景色でした。子どもの頃は、見上げる山といったら、むしろ西側の奥羽山脈の山並みのほうで、ほとんど山の名前も分からないまま、でも深く目に焼き付いた山の景色にはどこかホッとさせられるものがあります。

作者不明の詩篇121篇は人生の困難の時に読まれる詩として有名です。どんな状況でこの歌が作られたかは分かりませんが、どうして詩人は山を見上げたのか、それはどんな山だったのか、そしてそこに何を読み取ったのでしょうかか。

1.山を目を上げて山を見る

まず、どうして詩人は「山」を見上げたのでしょうか。

もちろん、「私の助けはどこから来るのか」と問いかけているように、助けが必要な状況、困難のただ中にあることは分かります。しかも詩全体を読めば、魂までが打ちのめされ、よろけてしまうような深い悩みの中にあることも読み取れると思います。

心に行き詰まりを感じたり、どうして良いか分からない時、ある人は海辺に出て大きな海を見つめるかもしれません。私は時々、和賀川沿いの公園に椅子を置いて川の流れを見つめ、音を聞きながら考えごとをします。ポイントは何を見つめるかではなく、一人になることと、自分の置かれた状況から少しだけ距離を置くこと、そして神様の大きさを感じられるような被造物に目を向けるということなのかも知れません。

しかし、イスラエルの詩人が海でも川でもなく、山を見上げたことに、ただ単に自然環境や地形が、山向きだったということ以上の意味があるのでしょうか。はい、大いに意味があったのだと思います。イスラエルの人々の感覚を育んできた環境とそこでつむがれてきた物語が、山を見上げることに大きな意味を与えていると言うことができるのです。

旧約聖書の、重要な出来事を見ていくとき、山は神と出会う場所として度々登場します。

創世記8章で大洪水を乗り越えたノアとその家族がアララテ山の上で、空にかかる虹のもとで神様から契約が与えられ、人類の新しい出発を祝福されました。

創世記12章で神様の召しに応えたアブラハムは旅をしてベテルの東にある山に天幕を張り、祭壇を築いて主を礼拝しました。

しかし何より重要なのは、アブラハムが息子イサクを捧げるという試練を経験した山での出来事と、エジプトを脱出したイスラエルの民のためにモーセが山の上で神の律法を受け取った出来事です。

創世記22章でアブラハムがひとり子イサクを全焼のささげ物として捧げるよう命じられた時、アブラハムはそれを受け入れ山に登りました。後のエルサレムの町が建てられた山と言われます。そして、愛する息子に手を掛けようとしたときに「もう十分」と神が押しとどめ、代わりに藪にひっかかっている雄羊を備えていてくださったのです。アブラハムはこのことを覚えて、この場所を「主が備えてくださる」という意味の「アドナイ・イルエ」と呼びました。そして「主の山には備えがある」という諺が生まれたのです。そしてこの意味深いモリヤの山で神様はダビデ王に現れ、その息子ソロモンはモリヤの山に神殿を建設しました。

出エジプト19章からは山の上でのモーセと神様のやりとりが記されます。エジプトから救い出されたアブラハムの子孫が、神の民として歩み出すための契約の場面です。山に登るようにと命じられたモーセはアラビア半島にあるシナイ山に登り、そこで律法を受け取りました。

このように旧約の民にとって、山は神と出会い、神の言葉を受け取る場所、そして主の山には備えがあるという希望のイメージがある場所なのです。詩人はたまたま山があったからということではなく、神様が人間に出会ってくださり、祝福し、慰め、語り、備えてくださる象徴として山を目を上げているのです。

2.旅の仲間とともに

第二に私たちは苦難の多い旅路を仲間と共に歩みます。

1~2節と3節以降で、語り口が少し変わっていることに気付くでしょうか。1節と2節では、「私」の問いかけに「私」が応えている形になっていますが、3節以下は「あなた」に呼びかけ、「主が、あなたにこうされる」という文章の形になっています。

この変化は何でしょうか。「私は…目を上げる」に応えて「主は、私の足をよろけさせず」ではなく「主は、あなたの足をよろけさせず」と語ることにどんな意味があるのでしょうか。この後もずっと「あなたを守る方」「あなたの右手をおおう陰」「日があなたを打つことがなく」「月があなたを打つことはない」「主は…あなたを守り」「あなたを…とこしえまで守られる」と、徹底して「私」ではなく「あなた」が繰り返されます。

この詩は表題に「都上りの歌」とあるように、エルサレムへの巡礼の旅の途中で歌われました。現代と違って厳しい自然環境の中、強盗や野生動物の危険にさらされながらの旅は最も遠い地域からだと歩いて5日間くらいかかったそうです。ですので旅は一人でするものではなく、地域の人たちや親戚と一緒に集団で旅をしました。そのような時に、このような都上りの歌が歌われたのです。

ですから、自分で「私の助けはどこから来るだろう」と歌い始めて「主はあなたを守られる」と自分自身に言いきかせている、というふうにも言えますが、むしろ、一緒に旅する人々の間で一人の人が1~2節を歌い、他の人が3節以下を歌って応える、というような使われ方がされたと考えるのが自然かもしれません。

つまり、旅を共にしている仲間たちが、苦しみの中で山を見上げながら「私の助けはあの山、この天地を造られた主から来る!」と告白し、周りの仲間が「そうだそうだ!主はあなたを助け、あなたを守ってくださる!」と励ましている、そんな歌として聞く時に、何か、主を礼拝するための巡礼の旅の光景が見えてくるようです。

3節~6節の「あなたの足をよろけさせず」は徒歩で旅する人々の険しい道のりの中での守り、「あなたを守る方は、まどろむこともない」「眠ることもない」は野生の動物が動き回る夜の守り、「あなたの右手をおおう陰」は力づけること、「日」や「月」は照りつける太陽や妖しく光る月のしたを歩く時の守りなど、旅の途中のあらゆる困難、恐れ、不安から主が守り、助け、力づけてくださることを表現しています。

その旅は孤独に苦しみに耐えながら自分で自分を励まして歩むのではなく、一緒に歩む人たちが励まし合いながら主の前に行く旅を苦難もあるけれど、楽しんでいるようにも見えるのです。

それは、旧約時代のエルサレムへの巡礼の旅だけでなく、天の故郷、新しいエルサレムを目指す私たちの信仰の歩みにも通じます。私たちは一人でがんばって、苦しみに耐えて生きるのではありません。励まし合って、私の助けは主から来る!と告白し、誰かがそれに応えて、そうだよ、主はあなたを助ける方だよと相づちを打ってくれる。そんな交わりの中で私たちは信仰の旅路を歩むのではないでしょうか。そういえば、イエス様も使徒パウロも旅する人でしたが、どちらも弟子たちや同労者と一緒に旅をしました。旅の途中で一人になる場面もありますが、一人ぼっちで旅することはなかったのです。私たちは天の故郷を目指して一緒に旅する仲間です。

3.すべてのわざわいから

第三に、主は私たちをすべてのわざわいから守ると約束します。

6節までの様々な状況の中での主の守りと助けをまとめるように「主は すべてのわざわいからあなたろ守り」と語り、重ねて注目すべきことば「あなたのたましいを守られる」と語ります。

しかし私たちはここで少し立ち止まりたいと思います。

聖書はどういう意味で、主が私たちを”全ての”災いから守ると言っているのでしょうか。現実の私たちの生活を考えると、12年前の大震災を持ち出すまでもなく、様々な災いにしばしば晒されます。コロナ禍という言葉は文字通りコロナの禍でした。多くの人が守られたことは感謝でしたが、全てではありませんでした。感染した人もいましたし、私たちの教会の中でも亡くなった方がおられました。災害があるたびに、そこにクリスチャンがいればクリスチャンでない方々と同じように被災します。「すべてのわざわい」とは「大部分のわざわい」ということなのでしょうか。「守られる」とは「時々守る」ということなのでしょうか。

聖書全体のいくつかの例を思い出せば、神の民だからといってどんな禍にも遭わないということではないことはすぐ分かります。最も有名な例はヨブでしょう。彼は自然災害や犯罪によって息子家族も自分の財産も、健康も、尊厳も失いました。多くの詩篇を残したダビデは仕えていた王の逆恨みを買っていのちを狙われ、大親友のヨナタンを戦争で失いました。しかしそうした苦難の中で苦闘しながらもヨブは神への畏れと信頼を取り戻し、ダビデは神をほめたたえる多くの詩を残しました。

新約聖書で顕著な例はパウロです。コリント第二の11章には彼がイエス様を信じ使徒とされてから旅の中で経験した様々な苦難をならべています。死に直面したり、人の悪意に晒され、いのちを狙われる中で、彼は悲しみ、激しく心を痛めたと告白しています。しかしパウロは、そうした弱さこそを誇ると断言します。弱さの中にこそ神の恵みが表れるからだというのです。

もちろん、イエス様ご自身の経験を忘れるわけにはいきません。イエス様が味わった苦難は地上の誰もが経験したことのない、そしてこれからも経験することがない苦難でした。ところがイエス様はその苦難を思いがけない禍とは考えず、栄光を受けることだと言っています。その苦しみを通して多くの人々の救いという喜びが待ち受けているからです。そして弟子たちにも「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と励ましました。

こうしてみると神の民と言えども、この世にある限り、様々な苦難には遭うし、むしろ信仰故の迫害さえ経験することがあるのが私たちの歩みです。その中で命を落としたり、悲しんだり痛んだりすることもあるのです。しかし主はそうした苦難の中でも私たちのたましいを守ってくださいます。私たちを慰め、希望を与え、人間性を失わせず、神の愛と隣人への愛を保たせ、むしろ他の人を励まし、希望を指し示す者にしてくださるのです。本当に禍なのは、苦難の中で希望を見いだせず、他人を踏みにじっても生き残ろうとすうるような浅ましさ、愛を失った者になることです。しかし私たちには揺るぎない神の愛があり、それゆえに私たちは踏みとどまれるのです。ローマ8:34以下を開いてみましょう。

適用:行くにも帰るにも

詩の最後は、力強い約束で閉じられます。

「主はあなたを 行くにも帰るにも 今よりとこしえまでも守られる。」

この「行くにも帰るにも」という言葉は、文字通り旅をイメージさせるものです。旅は出て行って同じ場所に帰ってくるものです。しかし詩人は、主の守りが、この目の前の旅路の守りに留まることなく、永遠に続くものとして告白しています。アブラハムがそうだったように、地上の故郷を出発し、天の故郷に憧れ旅し続けるように、詩人は、神殿のあるエルサレムへの巡礼の旅が家に帰って終わりというものではないことを知っていました。信仰の旅路は生涯にわたり、やがて主のもとに帰って行くまで続くのです。

私たちもまた、生まれた土地、環境、罪と死に囚われたこの世から歩み出し、天の故郷である主のみもとに帰るその日まで続く信仰の旅路の間中、主の守りが続くのです。

よく、大船渡や仙台に行くとき、皆さんに「行き帰りの道のりが守られるようにお祈りください」とお願いします。もちろん、その道中が事故なく安全に行って帰って来られることは、とても大事なことです。主はそのこともご存じで助けを与えて守ってくださるでしょう。

しかしこの世界の不完全さの中で、奉仕に向かう途中で事故に遭い亡くなった先生のことを思い出します。災害や疫病の中でいのちを落としたクリスチャンもいます。先週、昨年の暮れに新型コロナで亡くなった小原幸子さんの息子さんが入院先の病院から外出して、納骨式の相談に来られました。その時「なんで母親はコロナにかかったのか」と聞きました。もちろん、疫病が拡大するメカニズムを知りたいわけではありません。なぜ、という問いに私たちは答えることができません。しかしそのような人たちは信仰が足りなかったわけではないし、神様の守りの手が及ばなかったり、こぼれてしまったのでもありません。地上の生涯はいつか終わるものです。それが老衰なのか、病気なのか、事故なのか、事件なのか、それは誰にも予測できません。しかし、どんな災いが降りかかったとしても、この地上での生涯を終えるまで私たちを守り、最期の時もそのたましいを守ってご自身の御許へと迎え入れ、永遠の安息を与えてくださいます。

その日がいつかは分かりませんが、それまでは、この痛みの多い世界の中で信仰の旅路を続けている間、たとえ災いがあってもやはり私たちを守り、助けてくださいます。

12年前、あの震災は多くの人の人生を変えました。被災した人、家族や家を失った人だけでなく、関わる人すべての心に悲しみや痛み、意識の変化をもたらしました。もちろん、あの出来事をきっかけに良いものも生まれました。しかし、この12年の間に、日本のあちこちで毎年災害が起こり、世界各地でも災害のニュースが駆け巡りました。新型コロナは文字通り世界中を一変させ、ウクライナ戦争はこの世界の容赦ない残忍さを顕わにしました。

そんな災いのまっただ中に置かれたらどんなことを感じ、どんな行動をとってしまうか、その時にならなければ分かりませんが、イエス様は勇敢であれと良い、聖霊がその時になれば語るべきことば、なすべき事を教えてくれると約束されました。そんな時には私たちも山を見上げて、ただの山ではなく、天地を造られた神様が私たちに出会ってくださり、語ってくださった神様が私たちを守ってくださることを思い出すよすがとしての山を見上げて、この災いの中で、この困難の中で、どうぞ私たちを守ってくださり。私のたましいを御手のうちに守ってくださいと祈りましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あの震災から12年が経ちました。世界には私たちが経験したよりももっと過酷な中を旅して来た多くの信仰の仲間たちがいましたが、私たちの信仰の旅路には私たちの道のりに待ち受ける困難があります。

どんな道のりの時も主がともにいてくださることを感謝します。そして、私たちが主のみもとに召されるまで、いつまでも私たちを守ってくださることを感謝します。苦難の中で伏し目がちになるとき、どうぞ目を上げさせてくださり、私たちのところに来られ、語ってくださり、守り導く主を思い出させてくだださい。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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