2023-03-26 人は変われる

2023年 3月 26日 礼拝 聖書:テトス3:3-8

 子どもの頃、通学に使っていたバスは岩手県南バスでした。それがある年、県内の各バス会社が合併して「岩手県交通」となりました。合併して間もない頃、路線を走っていたバスの車体には、「岩手県交通」という新しい名前が書かれていましたが、バス自体は排気ガス臭い古い車体のままでした。

クリスチャンになった喜びの時期には新しい人として歩めるという喜びと期待がありますが、その時期が過ぎると、多くの人は名前が変わったバスのように神の子とされたという新しい名前にはなったけれど、自分自身は古い人のままであることに気付きます。そして人は本当に変われるのかという問題に直面するようになります。

発達心理学の分野では、個人の性格は持って生まれた気質と幼少期の環境で大部分が形づくられ、生涯殆ど変わらないということが知られているそうです。ですからイエス様のもとを訪ねたニコデモはイエス様に対して「人が生まれ変われるなんて!もういっかい母親のお腹にもどって生まれ直したって無理だ」とがっかりしながら言ったのです。

それでも聖書は私たちに人は変われる、新しくされると語り続けます。それはどういうことでしょうか。今日は使徒パウロが弟子であり、クレタ島の教会を導いていたテトスに宛てた手紙を通して学んでいきましょう。

1.テトスの仕事

テトスの手紙1章では、テトスの務めについてあらためて目的を明確にしています。

1~4節の挨拶の中でパウロは自分自身に与えられた務めを記した上で、4節で「同じ信仰による、真のわが子テトスへ」と、テトスが同じ務めに召されていることを思い出させています。

それからすぐに5節で、パウロがテトスをクレタに残した目的を記しています。

クレタ島はギリシャのエーゲ海に浮かぶ島で、今では大変な観光地になっていますが、当時は海上交通の要衝で、重要な港がいくつもあり、様々な人々が行き交う町でした。

クレタは非常に古い歴史を持っており、ヨーロッパ最古の文明のひとつ「ミノア文明」が栄えた地域でもあります。新約聖書の時代はギリシャの神々が祀られていましたが、ギリシャの神々というのは人間以上に人間くさいというか、次々の女神や人間の女性に手を出して子どもを産ませたり、結婚と離婚を繰り返したり、力や贅沢を好み、ご馳走とお酒に溺れる神々でした。そして、クレタ人はそんな神々を自慢し、信じている神々とそっくりな生き方をしていました。貿易の町ですから、真っ当な商人だけでなく、怪しげな商売をする者や海賊のような者までが集まる町です。12節はクレタ出身のエピメデスという伝説的な詩人、予言者と呼ばれる人がクレタ人について述べた詩と言われています。それほどに繁栄はしていましたが、文化的には非常に混乱し、道徳的にひどい状態でした。

しかし、そんなクレタにもクリスチャンの群が形づくられていました。テトスはクレタの教会を導き、次世代のリーダーを育て、彼らに教会を導く訓練をする務めが与えられていたのです。

教会の様子というのは、その土地の文化や雰囲気を反映する面があります。パウロがテトスに指示した教会の長老や監督といった指導者たちの条件に良き夫であり、良き父であり、お金の使い方やお酒の問題、人との関わり方について注意を与えています。これらはテモテへの手紙に出て来た指導者の条件と重なりますが、原則は同じでも、クレタの町の雰囲気を色濃く映し出しています。

一方で、こういう町の人々に対して律法の掟をぶち上げる偽教師たちがいました。彼らは信仰と恵みによるのではなく、道徳的なルールを強要することで成熟したクリスチャンを演じていましたが、実のところ彼らの動機には、不当な利益、特に金儲けをしたいということがありました。そのために使徒たちが伝えていたキリストの教えに反抗的で、どうでも良いことで議論をしては人々を惑わし、いくつもの家庭を破壊してしまっていました。

クレタのクリスチャンたちは、酔っ払いや不品行、嘘や下品さが当たり前の生活から新しいキリストにある生活へと変えられていく途中にありました。その変化は神の恵みによるべきでした。聖霊による教えと指導者たちの生き方による模範と忍耐を通して導かれるべきでした。そこに偽善的な正義を振りかざしてルールを押しつける教えが入り込むとどうなるでしょう。家族の中に愛と恵みではなく、互いに対する反目や非難が生まれ、家庭は破壊されてしまうのです。ですから、同じ町に生まれ、この文化の中で生きていながらもキリストにあって真に新しくされた人々を群を導く者にする必要があったのです。

2.新しい家族の姿

テトスへの手紙2章ではクリスチャンたちに新しい家族のあり方を教え、この世にある生き方を示しています。

「ああ、また家族についての教えね」と思うかも知れませんし、そんな理想を言われても現実はなかなか難しいからとはじめから安全な距離を取ろうと無意識にしてしまうかも知れません。

確かにこれらの教えを戒律やルールとして受け取ると、確かに守り切れるものではない、ということになると思います。しかし2:10に「私たちの救い主である神の教えを飾る」という言葉が出てきます。これらの行動の変化は救いを受け取るための条件や、これが守れていないとクリスチャン失格になってしまう、というようなものではありません。神の教えという種を受け取った者が、実を結ばせるようなものです。水の管理をちゃんとしたり、雑草を抜いたりしてよく手入れすれば良い実を結びますが、手入れを怠りほったらかししていれば、みすぼらしい貧弱な実を結ぶことになります。

神の教えという種は、どんな実を結ぶのか。2:2~10に具体的に示されていますが、それは典型的なクレテ人の生き方や偽教師による惑わしのために破壊されたり混乱した家族を、福音にふさわしい家族として回復することでした。教会の歩みはクレタに点在する家の教会が中心でしたので、家庭の回復こそが教会の回復だったのです。

自制心がなく、自己主張や自慢話ばかりしていたような年輩の男性や人の噂話や大酒のとりこになっていた年輩の女性たち、悪い意味でクレテ人らしく無謀で無計画な生き方をしがちな若者たち、反抗的で隙あらば主人の目を盗んで盗みを働いたり嘘をつく奴隷たちは、生き方が変えられるべきでした。

年長者はその生き方や態度を通して若い人の模範になるべきでしたし、若い人は落ち着いた責任のある生活をし、奴隷の身分にある人は誠実な仕え方をすべきです。それは彼ら自身が神の救いの恵みの素晴らしさを味わえずにいることがイエス様の恵みを無駄にするからというだけでなく、神の教えの本当に素晴らしさ、魅力がほかの人にまったく伝わらなかったからです。

11節に「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです」とあります。クレタのクリスチャンたちは、これからも変わらずクレタの住民として生活し、クレタの町の中で親として、若者として、年寄りとして、あるいは奴隷として引き続き生活していきます。話す言葉も食べるものもの変わらないでしょう。しかし、愛と真実の神、正義と聖さの神を信じる者、罪赦された者として生きているなら、近くにいる人たち、彼らとつきあいのある人たちには、ギリシャの神々を信仰している多くの人たちと全然違う価値観で生きていることが分かります。その生き方の違いを生み出しているのがイエス・キリストへの信仰であるということが証しされるのです。クレタという世界に神の祝福と恵みを届けるのはクレタのクリスチャンたちなのです。

そしてこういう生き方をさせる価値観の土台は2:11~15にあるように、イエス様ご自身にあります。この酷い世界と私たち自身の罪から救い出すためにご自分のいのちを犠牲にされ、またおいでになるときに完全に表される恵みという希望があるから、私たちに新しい生き方をしなさいと呼びかけているのです。

3.良いわざに励む人

テトスへの手紙3章では、私たちが神の恵みと聖霊の助けによって新しい人として歩むことができることを教えています。つまり、人は変われる、但し神の恵みによってということです。

3:1~3には、クリスチャンが家族の中での新しい生き方だけでなく、この世界で生きていく上での新しい生き方を示しています。良い市民として生活し、平和的な良い人間関係を築き、社会に良いものをもたらす者になるべきだと教えられています。それは、愚かで、不従順で、いろいろな欲望と快楽に溺れ、悪意と妬みにあふれ、互いに憎み合うような生き方をしていたクレタ人の生活とはまったく違った生活です。イエス様のもとを訪ねたニコデモではないですけど、新しく生まれるなんて、どうやったら可能になるのでしょうか。

イエス様はニコデモに対して、人にはできないが、神には出来るのですと言われました。パウロは3:4~7で同じことを言っています。私たちが新しく生きることができるのは私たちのがんばりによってではなく、神の慈しみと愛によってです。

イエス様がおいでくださったのは、罪深い私たち人間に対する慈しみと愛の表れです。私たちの罪深さについて、クレタ人と比較する必要はありません。私たちの中にも、反抗的で、争い、愚かで、自己主張ばかりし、自慢話か人の噂話に夢中になり、様々な欲望と快楽に誘惑されやすく、悪意や妬みに胸を焦がし、誰かを憎んだり誰かに憎まれたりすることがあることを知っているはずです。そういう私たちですが、それでも神様は私たちを愛し、憐れんでくださり、私たちのためにイエス様がおいでくださいました。

このイエス様は2:14にあったように、私たちの救いのために、また私たちが良いわざに熱心な民とするためにご自分をお捧げになりました。そして聖霊なる神によって生まれ変わらされ、新しい人として生きる力を与えるために聖霊が私たちに注がれました。

この恵みによって私たちは義と認められ、永遠のいのちの望みを持つ者にしてくださいました。

この信仰にいつも立ち返り、確信することで、私たちには新たな力を与えられます。

この信仰が私たちの力となるためには、私たちが本当に罪ある者であるだけでなく、罪深い者であることの自覚と、神様はありのままの私を愛してくださっているけれども、私たちはこのままではダメなんだということをはっきりと分かっていなければならないし、その事実の前に心からへりくだる必要があります。神様の愛、イエス様の恵みがあるから今があるし、これからも生きていけるのだという信仰と感謝を通して聖霊は私たちに新しい人として生きる力を与えてくださいます。

8節には「神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。」とあります。良い生き方をするのはキリスト教的な戒律ではないし、救いの条件でもありません。しかし、私たちの生きる目的として備えられたものです。それは私たちにとって良いものであり、有益です。私たちの信仰と生活がしっかりと建て上げられるからであり、私たちを通して神様の恵みと祝福が周りの人たちに届けられるようになるからです。

適用:祝福を与える者に

テトスへの手紙の最後は、「分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。」という厳しい戒めが付け加えられています。

除名の話しは少しぎょっとするような厳しさですが、罪を犯してしまったり、誘惑に負けてしまうようなことをしてしまった人を除名しなさいという意味ではありません。そうではなくて、あえて教会の交わりを破壊するようなことを赦してはならないという意味です。特にこれは人々を導く立場の人たちや教師を名乗る人たち、先輩風を吹かしたりリーダーであるかのように振る舞う人たちが、そうなると分かっていながら教会を破壊するようなことをした場合を想定した戒めです。

その後は、テトスのために協力者を送ること、できるだけ早く獄中にいる自分を訪ねて来て欲しいことなど、手紙らしい追伸が書かれています。そして手紙の締めくくりは再度、テトスを励まし、祝福を祈って閉じられます。

「私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。私と一緒にいる者たちがみな、あなたによろしくと言っています。信仰を同じくし、私たちを愛してくださっている人たちに、よろしく伝えてください。恵みがあなたがたすべてとともにありますように。」

イエス様の教会に対するご計画は、教会に属するクリスチャン一人一人が互いに愛し合い、仕え合い、周りの人たちに祝福を与える者になることです。

イエス様を信じたときに、新しい人になれた、新しく生き直せるかもしれないと感じたその感覚は、錯覚でも誤解でもなく、聖霊によってイエス様のいのちを与えられ、イエス様が再びおいでになる日に完成させられる新しい人としての生き方が実際に始まったことの感動であり、実感です。

しかし、信仰によって始まったこの新しい人としての道のりを、神様の恵みによらずにやり始めた時に、途端に喜びはしぼんでいき、無力さを感じ始めます。それは当たり前のことです。電動自転車で坂道を登っている時に、急にバッテリーが切れて自力で急坂を自力だけでペダルを漕いで登らなければならなくなるようなものです。急に抵抗が強くなり、すぐに疲れてしまうでしょう。

ある種の慣れによって、神様に拠り頼むよりも、なんとなくクリスチャンっぽく振る舞う術を身につけてしまったり、日々神様の恵みに感謝して歩むより、他の人の目にちゃんとやっているように見えることを意識するようになったり、あるいは単にクリスチャンになる以前の生活パターンと変わらない生活を続けていることで、神様の恵みとのつながりが弱くなってしまいます。だから、日々聖書を読むことや、祈ること、きちんと信仰と生活についての聖書の教えを学ぶ事や、礼拝と交わりを共にすることで、神様の恵みを味わい、確信し、感謝することを継続していく必要があるのです。多くのクリスチャンが礼拝に行かなきゃいけない、聖書を読まなきゃいけない、祈らなきゃいけないと、守るべきルールとしてしまうので、喜びも感動も薄れてしまっています。さらに、出来ないことが続くと罪悪感だけが残る、ということになってしまいます。

私たちのためにいのちを捧げてくださったイエス様のご計画、願いによれば、私たちは罪赦され、さらに恵みによって励まされ、強められ、世界に祝福をもたらす者となることです。神様のご性質に根ざした家族との関わり方、隣人との関わり方、自分自身の価値観や行動、そしてこの世界で自分に与えられた方法で仕えることで祝福をもたらし、イエス様の恵みの素晴らしさを証しする生き方へと召されているのです。神様の恵みによって、私たちはそのような生き方へと変わることができます。それは「自分も変わりたい」と密かに願っている人たちにとっての希望となり、神様の恵みに触れる機会になるのです。人は変われる、神の恵みによって。このことを信じて、恵みに感謝し、恵みに応えて歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

テトスへの手紙を通して、神様の恵みによって私たちの生き方は変えられる、変われるということを教えてくださり、ありがとうございます。私たち自身があなたの恵みと祝福を味わうためだけでなく、私たちを通してあなたの恵みの素晴らしさと祝福を周りの世界に届けることができるためだということも学びました。

しかし、私たちは愚かにも恵みによってではなく、自分の力で成し遂げようとして無力さを味わい喜びと感動を失いやすい者です。どうぞ、絶えずあなたの恵みを思い起こし、味わい、感謝と喜びを持っていられるように助けてください。聖霊様の助けをいただき、新しい人として歩ませてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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