2023-12-17 待ち望んでいた光

2023年 12月 17日 礼拝 聖書:ルカ2:21-38

 子どもの頃に読んだり聞いたお話の中で、深い森や夜の山で道に迷った旅人は、決まって遠くに見える灯りに引き寄せられ、一夜を明かすために怪しげな家に入り酷い目に会います。今の私たちの暮らしではまず起こりそうもない話ですが、灯りの少なかった時代、旅のために歩いて移動しなければならない時代には、そうした状況があり得たのでしょう。

光はそれほど実際的に助けになり、希望になるものですが、今日登場する人たちも、比喩的な意味で希望の光を待ち望んでいました。幸い、彼らが見出した光は偽物の希望や惑わすものではなく、彼らが待ち望んでいた希望の光そのものでした。

アドベント第三週目に注目するのは、先週の東方の博士たちの訪問と同じく、イエス様が生まれた後の話です。タイミング的には博士たちの訪問の前です。生後8日目が過ぎて、赤ん坊のイエス様を連れたヨセフとマリア夫妻は、ベツレヘムから程近いエルサレムに向かい、神殿に入りました。いわゆる「宮参り」とか「献児式」呼ばれる箇所です。ここで両親は二人の人物と出会います。一人はシメオン、もう一人はアンナです。おそらく二人とも高齢の古き良きユダヤ人といった感じの人たちでした。

この二人の人物は何を待ち望み、何に出会い、何を語ったのか、ゆっくり味わっていきたいと思います。

1.シメオンの歌

まず21~32節の宮参りとシメオンの歌をみましょう。

ユダヤ教には出産にまつわる様々な規定がありました。まず、男の子の場合は8日目に割礼を施す儀式があります。それから出産した母親はきよめの儀式がありました。さらに、最初に生まれた子どもは男の子であろうと女の子であろうと、主に聖別され、献げられたものと見なされ、贖いの代価を支払う必要がありました。

24節に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」という律法の引用がありますが、これは最も貧しい者のために定められた規定で、二人が貧しい生活をしていたことを表しています。

先週みた東方の博士たちの来訪の後、夜のうちに赤ん坊を連れてエジプトへ逃げたことがマタイの福音書に記されていますから、黄金、乳香、没薬の贈り物を貰う前のことです。ひょっとしたらまだ家畜小屋にいたのかも知れません。

とにかく彼らは普通のユダヤ人として、しかも幸運なことにエルサレムのすぐ近くに逗留していたことから、エルサレム神殿で礼拝を捧げることができました。

ちょうど3人が神殿に向かったときに、シメオンという人が聖霊に導かれて先に神殿に行っていました。25節にシメオンがどんな人であったかが記されています。エルサレム在住で「正しい、敬虔な人」ということですから、人に対しても神様に対しても誠実に生きていて、注意深く律法を守って暮らしていました。おそらく、人の目を気にして表面的に規則に従っているパリサイ人とはまた違った、律法をきちんと守る古いタイプのユダヤ人だったのだと思います。そして「イスラエルが慰められるのを待ち望んで」いました。これは、キリストによる救いを言い表す様々な表現の一つです。

シメオンの年齢は記されていませんので、「恐らく」ということになりますが、ある程度の高齢であったとすれば、紀元前63年にエルサレムがポンペイウス率いるローマ軍に占領され、翌年にはローマ皇帝が送り込んだヘロデが王として統治するようになるという屈辱的な出来事を子ども時代か青年時代に知っていたことになります。それより少し後に生まれたとしても、その出来事は屈辱的であり、自由を失った時として強く心に刻まれていたはずです。そんな祖国、民族の状況を嘆き、救い主の約束を重ね合わせて期待するのはごく当たり前のことでした。

しかし、何より特徴的なのは「聖霊が彼の上におられた」という言葉です。旧約時代に、預言者などに一時的に聖霊が留まることはありましたが、そうしたことが絶えて久しいこの時代、シメオンには特別に聖霊が与えられていました。そしてキリストを見るまでは死なないと告げられていたのです。

待っていると幼子のイエス様を連れたヨセフとマリアが神殿に入ってくるのが見えました。他にも同じような家族はいたと思いますが、聖霊に導かれたシメオンは無事に幼子との対面を果たします。そして29~32節の「シメオンの歌」として知られる言葉を語ります。ここで重要なポイントは「ようやく安心して死ねる」ということではなく、実際に救い主をこの目で見られたことと、この方の救いがイスラエルだけでなく異邦人にとっても希望の光だということです。神様の救いは民族としてのイスラエルに限ったものではなく、すべての人に備えられたものなのです。

2.厳しい預言

こうして約束の幼子と出会ったシメオンですが、続く33~35節では驚く両親に幼子の運命について語られます。「シメオンの預言」と呼ばれる箇所です。

最初にマリアに男の子が生まれると天使に告げられてから、驚くようなことの連続で、すでにイエス様の誕生が神の奇跡そのものであることを知っているとしても、まだ驚かされることがありました。

エルサレムの神殿に巡礼のために訪れている大勢の人たちと何ら変わらない普通の人たちであったマリアとヨセフですが、シメオンが迷いない足どりで自分たちの所にやって来て赤ん坊を抱っこして神様をほめ讃え始めた様子にとにかく驚きました。

シメオンは両親を祝福しましたが、続けてマリアに対して語られた言葉には不吉な気配があります。

救い主が誕生した喜びと、その母となったマリアは祝福されるべきですが、幼子の運命には厳しいものがある、というのがシメオンの預言です。この幼子が約束の救い主、キリストであることは確かですし、お会いできたことはシメオンにとっては感謝であり、マリアに対しては心からのお祝いを言いたいのですが、この幼子の未来に待ち受けているものは生やさしいものではありません。

キリストによって万民にもたらされる救い、希望の光は大きな犠牲を伴うものであり、そのことが母マリアの心を刺し貫くことになるだろうと言うのです。

シメオンの預言のことばには3つの重要な内容が含まれています。まず、「イスラエルの多くの人が倒れたり立ちあがったりするために定められて」いるという言葉です。この言葉はインマヌエルと呼ばれる救い主についての預言の一つ、イザヤ8:14を念頭において語られたものと思われます。多くの人たちがイエス様に出会い、そのことばを聞き、みわざを見て一度は倒され、遜らされます。ある人たちにとっては躓きの石となり、ある人たちはそこから立ち上がり、救いをいただくことになるだろうと言っています。

次に「人々の反対にあうしるしとして定められています」という言葉が続きます。イエス様は救いをもたらす方として来られますが、多くの人たちが倒れまた起き上がる、つまり一度は遜らされるような経験に直面させられることから、それを受け入れがたいと感じる人たちからの反対に会うことになります。社会的に立場のある人たちが自分の過ちをなかなか認めず、言葉は丁寧でも歯切れの悪い言い訳けを続けがっかりさせられることがありますが、私たち人間、誰でもイエス様の前でへりくだり、悔い改めを求められた時に多かれ少なかれそのような反応をしてしまいます。イエス様はその果てに捕らえられ、十字架につけられてしまうのです。

35節はその結果、マリアが受けることになる痛みに触れています。イエス様に出会うことで人々の心の内にある思いがあらわになります。イエス様が十字架に磔にされ、わき腹を槍で刺された時ももちろんマリアにとっては我が身に痛みを感じるようだったと思いますが、そこに至るまでの人々の妬みや憎しみ、昨日までの歓迎ムードから一変して「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の熱狂、弟子たちの裏切り、そんなあらわになった人々の心の思いの一つ一つにいちいちマリアは刺し貫かれるような思いをすることになるのです。

3.女預言者

ルカの福音書はシメオンの預言にマリアたちがどう反応したかは記さずに、次の場面へと移ります。

36~38節にはアンナという女性が登場します。彼女を紹介する簡単な説明には重要なポイントがいくつかあります。

まず「アシェル族のペヌエルの娘」ということです。アシェル族は旧約時代、紀元前720年頃にアッシリア帝国によって滅ぼされた北イスラエル王国を構成する10部族のうちの一つです。この十部族は「失われた部族」と呼ばれ、その子孫たちがどうなったか知られていません。しかしある人たちは生き延び、部族としてのアイデンティティを保っていたのだと思われます。

そして彼女は「女預言者」と言われています。すごくあっさり書いていますが、実はこれはとても重要なことです。というのは預言者と呼ばれる人たち、聖書がはっきりと預言者と認めている人たちは、旧約聖書のマラキを最後に約400年間現れませんでした。バプテスマのヨハネがキリストの来臨を告げ知らせ、その備えをする預言者として登場することになるのですが、その前に神様が「女預言者」を起こしていたということです。

さらに彼女の生い立ちが簡単に記されます。84歳になるアンナは7年間の短い結婚生活のあと、再婚せずやもめのまま長く暮らして来ました。はっきりと書かれていませんが子どもがいなかった可能性もあります。高齢になっても神に礼拝を捧げることを日課として続け、伝統的なユダヤ人らしく断食と祈りを実践し、敬虔に過ごして来ました。彼女もまた救い主の慰めを待ち望んでいました。

彼女の預言者としての役割は、38節にあるように「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った」ということです。「エルサレムの贖い」は救いについての言い方の一つです。しかしシメオンの預言の時と同じように、預言者が待ち望んだ救い主の誕生を告げましたが、ここでも人々がどのように反応したかは記されていません。

ルカはあえて、シメオンの預言を聞いたマリアの反応も、アンナの預言を聞いたエルサレムの民の反応も記していません。彼が重視したのは、救い主誕生の知らせはイスラエルの民に告げ知らされていたこと、そしてこの方が異邦人を含めた全ての人に救いが備えてくださるというメッセージと、そのために受ける苦しみがあらかじめ示されていた事実です。

この後、ルカは少年時代までのイエス様のエピソードを伝えています。神である方が人として来られたということは、人間としての成長のプロセスを辿ったということです。そして大人になってから公に人々の前に姿を表すのはおそよ30年後のことです。その時、人々は救い主の言葉とわざに感銘を受け、ぞろぞろと付き従う人たちや初めから妬みと疑いを持ち憎しみに囚われていく人たちがいましたが、彼らはそれぞれが思い描く勝手なキリスト像に囚われていました。しかし、キリストとはどのような方かは、今日の箇所にあるように聖霊に満たされたシメオンと女預言者アンナを通してすでに語られていたのです。私たちは救い主について、イエス様が与える救いについて、自分で想像し、勝手に期待する前に、まず先に語られていることに耳を傾けるべきなのです。大事なことは初めからすでに聞かされているのです。

適用:全ての待ち望む人に

今日はイエス様誕生から8日目の宮参り、献児式の場面を共に見て来ました。この箇所では救い主の誕生を待ち望んでいた二人の人物とその言葉に焦点が当てられています。

ともに人生に誠実に向き合いながら神に対しては敬虔に生きてきた二人が、それぞれに託された預言の言葉には、希望を待ち望む全ての人に光が照らされたことが宣言されていました。

イエス様がお生まれになったのは2000年以上前のことですかが、その希望の光は今も輝いており、待ち望む人、探し求めている人には差し出されています。

待ち望む「希望」には様々なかたちがあります。シメオンやアンナは「イスラエルの贖い」「エルサレムの慰め」と呼んだように、神に選ばれた民と町がローマの侵略と支配によって貶められているという、歴史的な背景、民族的な意識が反映されていました。

戦渦の中にある人たちにとっては、自由や平和は単に精神の問題ではなく、降り注ぐ爆弾や飛び交う銃弾、地面に潜む地雷の恐怖から解放されるという生々しい現実と結びついているはずです。

当然、飢えや深刻な環境破壊によって生活が脅かされている人たちにとっての救いは毎日の衣食住が保障されることと直結します。

わりと自由で不足のあまりない生活が出来ているように思える私たちの社会はどうなのでしょうか。皆さん一人ひとりの、救いを求めたり、イエス様を信じようとしたときの「求め」が何であったかを思い出してみてください。人間関係の悩み、病気の苦しみ、自分自身についての悩み、生きる意味が分からない、自分を受け入れてくれる場所が欲しい、子どもの頃から聞いて来た福音が本物なのか知りたいなど、様々な、具体的で切実な求めと結びついていたのではないでしょうか。そして私たちは福音を聞いて、聖書を学び始めて、私たちの願っていること、求めていることの奥底に潜んでいた本当の問題に気付かされ、イエス様の前にへりくだり、悔い改めてふたたび立ちあがって生きる恵みにあずかりました。

たとえ戦争が終わり、食べるものに満たされ、生きがいや居場所が見つかったとしても、それだけでは私たちの魂に常に影を射し、恐れをもたらす罪と死の鎖から自由になることはできないのです。

今日、私たちの周りで希望の光を求めている人たちも同じように、様々な必要、願い、求めがあり、希望の光を求めて探しているのだと思います。あるいはあまり具体的な願いとしてはないけれど、漠然とした不安や飢え渇きがあるのかも知れません。そんな人々がイエス・キリストという本物の希望の光へとだれかが導かなかったらどうなるでしょう。暗い山道をさまよいながら遠くに見つけた光、楽しそうに輝いている光に誘われて行っては見たけれど、偽りの笑顔で迎える恐ろしさを隠した山姥に取り込まれてしまうのではないでしょうか。

今日もシメオンやアンナのように、イエス様が私たちの待ち望んでいた希望の光だと伝える人たちが必要なのです。その務めは教会に委ねられています。教会に連なる全てのクリスチャンがイエス様の光を映し出す者としてこの世界に遣わされています。

いま、テーブルの上にあるキャンドルには灯りが灯っていません。これは飾りですから、来週のクリスマス礼拝のために用意したものです。しかし、このキャンドルのように、私たちが教会に来たときには光を灯し、家に帰ったり世の中に出ていくときにはそっとスイッチを消すようにして過ごしていたら、本物の希望の光がどこにあるか誰も知る機会がありません。

先にこの光をいただいた者として、待ち望む全ての人のために、いつでも希望の光を灯していましょう

祈り

「天の父なる神様。

イエス様が今も私たちの、この世界の希望の光であることを感謝します。今も、あなたの救いを、希望の光を探し求めている人たちが私たちの周りにいることを思い出させられました。

小さな光を私たちはこの胸に灯していただきました。どうか、この光を隠すことなく、輝かせる者にしてください。イエス・キリストこそ本物希望の光であることを告げ知らせる者としてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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