2024-06-02 聞くことは力

2024年 6月 2日 礼拝 聖書:エレミヤ23:16-29

 皆さんは、「主との交わり」や「神様との交わり」と聞くとどのようなことだと考えるでしょうか。また「主との交わりの時間を持っていますか」と聞かれたら何と答えるでしょうか。

若い頃、クリスチャンキャンプに参加したりすると、「神様との交わりの時間を大事にしなさい」「習慣にしなさい」とよく言われました。聖書を読んで祈る時間を持つように、ということだと思いました。良い雰囲気の中にあれば、何となく神様を近くに感じるのですが、家に帰って日常に戻ると、ただ聖書のことばを目で追って、簡単に祈って終わりで、神様との交わりを持っているという実感は沸いてきません。

もしかしたら、何か神秘的な体験を期待していたのかもしれません。今日の聖書箇所には「私は夢を見た」と言って偽りの預言をする偽預言者が出て来ます。偽預言者のつもりはありませんが、それでも本当の意味で神様との親しい交わりが出来ていないのに、何かを神様に示されたとか、あたかも主との交わりが出来ているかのように取り繕うようなことがあったかもしれないなと思わされます。

今日、エレミヤ書を通して、偽預言者に対する厳しい言葉の中で、繰り返されている主との「親しい交わり」についてご一緒に考えていきたいと思います。

1.心地よい言葉

まず主はエレミヤを通してこう言われました。「預言者たちのことばを聞くな」。いきなりビックリする言葉ですが、すぐに偽りを語る偽預言者たちのことばを聞くな、ということだと分かります。

エレミヤの時代というのは、イスラエルが滅亡に向かっている時代です。北王国はすでにアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、残された南王国もバビロン帝国の脅威にさらされていました。

エレミヤ以外にも預言者を名乗る人々はいましたが、彼らは王宮おかかえの預言者たちで、王様や民が聞きたがる心地よい言葉を語る者たちでした。

この偽預言者たちは決して主の御口から出たことばを語ってはおらず、自分の心の幻を語っています。勝手に「これが主のことばだ」と言っているだけです。しかし、その言葉は「あなたがたに平安がある」「あなたがたにはわざわいが来ない」と耳に聞こえの良いことばです。けれども、そのことばを受け取る人たちは主を侮り、頑な心のままに歩む人たち、つまり、本当なら悔い改めるよう促されるべき人たちです。厳しく指摘する預言者は損な役回りでした。主が語ったことをそのまま伝えているのですが、聞くべき人たちに限って木来たがらず、煙たがられるのです。エレミヤのような本物の預言者たちはいつも神様から遣わされて、悔い改めを求めたので嫌がられました。

しかし偽預言者たちは、自分たちこそ本物の預言者だと名乗り、そして「主はこう言われた」と言いながら自分の好き勝手なこと、というより、聞き手が喜びそうなこと、それによって褒美をもらえそうなことを語るわけです。

平安ではなく破滅が待っているのに「平安がある」と言い、さばきが待っているのに「わざわいが来ない」と告げるのです。

しかし、問題は偽預言者たちだけにあったわけではありません。当然、神様に対して心を頑なにし、主のことばに聞かなくたって大したことはないと侮っている王様や民たちが、真剣に主のことばを聞こうとしなかったこと、耳の痛い話しには耳を傾けず、「このままで大丈夫」「何も悪いことは起きないから」という言葉を聞きたがることにも大きな問題がありました。

エレミヤの時代と同じように、現代でも聖書を教える人たちの中には偽預言者のように主が語ってもいないことを平気で語り、人気を集めることがあり得ます。私たちは、そういう偽預言者の言葉に惑わされないよう気をつける必要はありますが、何より心配すべきは、私たち自身の中に、神様がほんとうに語っておられることを聞こうとしないで、気分を上げてくれたり、耳に心地よい言葉を聞きたがる傾向が人間にはあるということではないでしょうか。

今日、人気のあるメッセージの一つに「ありのままで良いのだ」というものがあります。もちろん神様は罪や傷のある私たちをまるごと受け入れ、ありのままの姿の私たちを愛して救ってくださいます。それ自体は間違っていません。しかし聞く人が、罪深い行いを改めたくない、聖書が明らかに間違っていると告げていることも平気で続けることの言い訳にして聞いてしまうと、聖書本来の教えとはまったく違った教えになってしまいます。

誰が偽預言者かを探すより、自分の魂に、偽りの教えを求める思いがないかを調べたほうがいいのです。

2.偽預言者に欠けたもの

さて、エレミヤの時代の偽預言者達には欠けたものがありました。それが「主との親しい交わり」です。

18節で「だれが、主との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。」と問いかけています。

明らかに、偽預言者達には、この主との親しい交わりが欠けていました。そのため主のことばを本当には聞いておらず、民を惑わしていました。彼らに対する神様の怒りは本物で容赦のないものになります。

19節と20節にはつむじ風、荒れ狂う暴風といった強烈なイメージで、偽預言者たちの上に吹きつけ荒れ狂う神様の怒りが描かれています。しかもその怒りは神様の「心の御思いを行って成し遂げるまで 去ることはない」と、決して途中で止めたり手加減したりはしてくれません。「終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る」とあるように、愚かな偽預言者たちは、自分たちがさばきを受けることになって始めて、神様を侮ることへの報い、怒りがどれほどかをようやく悟ることになるのです。もちろん、気付くにはすでに時は遅いのです。

偽預言者に限らず、神様を知っていながら、神様を恐れ敬うことをせず侮る人は、神様が怒っていることなんて考えもしないし、大したことだとも思っていません。自分のことで心が一杯です。だから21節にあるように、彼らは神様から遣わされてもいないのに勝手に走り続け、神様が彼らにことばを与えてもいないのに預言し続け、人々に偽りの安心を与え、迫り来る破滅から目を塞いでしまっていたのです。22節にあるように、もし彼らが主との親しい交わりを持っていたら、そんなことにはならず、主のことばを民に聞かせ、さらには民を悪い生き方から立ち返らせるような働きをしていたに違いないのです。

では、彼ら偽預言者達に欠けていた「主との親しい交わり」とはどのようなものだったのでしょうか。それは主のことばに聞くことです。18節にあったように、耳を傾けて主のことばを聞くことが主との交わりの中心です。

偽預言者たちもたぶん、礼拝をささげていたのでしょう。彼らも聖書を読んでいたかもしれないし、高価なささげものをしていたかも知れません。でも、耳を傾けて主のことばを聞こうとせず、自分が見た夢や幻について、あたかも神が与えた啓示であるかのように語り、まことの神様から人々の心を遠ざけてしまっていたのです。

誰かと親しい、深い交わりを願うなら、自分の言いたいことばかり言ってないで、相手のことばにじっくり耳を傾ける必要があります。主との交わりも、自分のことを言ったり願ったりするばかりでなく、主が何を語っておられるか聞こうとしなければ一方通行で、身勝手で、独りよがりなものになってしまいます。

そしてこれは偽預言者だけの問題ではないことがわかります。もちろん、現代の牧師や聖書を教える立場の教師たちも同じですが、クリスチャンであれば誰でも当てはまる問題でもあります。

もし私たちが、主との親しい交わり、主のことばにじっくり耳を傾けることをしなかったら、私たちは自分勝手にものを言い、自分の願いだけを主張し、神様が約束も宣言もしていないことを主のみこころだと独りよがりに陥ってしまう恐れがあるのです。

3.聞くことは力

しかし、主のことばに耳を傾け、熱心に聴こうとすることは私たちの力となります。

偽預言者とは違って、エレミヤのような真の預言者は主との交わりがありました。目に見ることのできない神様との交わりというと、何か神秘的な、精神世界の体験を想像するかもしれません。そういうのがなかったわけではありません。モーセの時代、12人の長老たちが突然聖霊に満たされて恍惚状態になって預言を始めたとか、ダニエルやエゼキエルが壮大な幻を見る体験をしたり、新約時代の使徒たちが急に習ったことのない外国語で福音を語り始めたのは、文字通り超自然的な体験です。預言者たちがどうやって主のことばを聞いたか、詳細は分かりません。声を聞いたという場面もあるし、先ほど言ったように本人の意識があいまいな恍惚状態の中で神の霊が語らせるという場面もありますし、幻や夢の中で声を聞くということもあったようです。

しかし、いずれの場合も18節にあったように、主のことばに耳を傾ける、ということが交わりの中心でした。主が何を語ってくださるか聞こうとし、聞いたことばを信じて応答することが真の預言者でした。もちろん、その姿勢は、すべての信者に通じるものです。

神様が目に見えないお方であることは関係ありません。23~24節にこうあります。「わたしは近くにいれば、神なのか。―主のことば―遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れ場に実を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。―主のことば―天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主のことば。」

主が近くにおられない、感じられないということを偽預言者たちは言い訳にしたのかも知れません。あるいは主に背を向けているので、自分たちが好き勝手にやっていることは神様が見ているとは考えなかったのかも知れません。自分の神様との距離感がどうであっても、神様がここにおられるということに変わりはありません。神様の存在の仕方は私たち人間とは全然違うので、あっちにいるからここにはいないということはありません。主は天地に満ちておられる方です。あの人の祈りを聞いている間は私の祈りは届かないということもありません。

ですから、主との交わりは、いつでもどんな時であっても、私たちが耳を傾け、聞こうとするなら与えられるのです。

そして、主との交わりの中で与えられる主のことばには命があり、力があります。だから私たちにとって主に聞くことは私たちの力なのです。

29節「わたしのことばは火のようではないか。―主のことば―。岩を砕く金槌のようではないか。」

22節にあったように、主のことばには頑なな心で生きていた民をも悪い生き方、悪しき行いから立ち返らせる力、頑なさを打ち砕くほどの力があります。新約聖書の中でも「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16)と言われている通りです。

では、どうやったら、私たちの力となるような主のことばを聞けるのでしょうか。何か特殊な訓練や神秘的な体験が必要なのでしょうか。

適用:自ら聞こうとする

もう一度18節を見ましょう。「しかし、だれが、主との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。」

私たちは主のことばを聞こうと耳を傾けるなら、主との親しい交わりに加わわれます。では、どのようにして主は私たちに語ってくださるのでしょう。私たちも預言者のようにならなければならないのでしょうか。

そうではありません。私たちにはすでに神のことばとしての聖書が与えられています。イエス様も、人々に主のみこころを教える時には、聖書を用いてお話になりました。当時の聖書の学者や教師たちが自分たちの伝統や思い込み、あるいは勝手な都合でねじ曲げていた教えを「彼らはこういうが、わたしはこう言う」と言って、主が本当に言おうとしたことを解き明かしたのです。その教えは良く読めば誰でも理解出来、納得できるようなものでした。

同じようにイエス様の後を託された使徒たちも旧約聖書を使いながら神様のみこころを解き明かし、イエス様の教えを解説しました。神様が天地の基が置かれる前から私たちを選び、イエス様によって贖いをなしとげて救いをもたらし、イエス様にあって天地のすべてを一つに集めるという大きなご計画を実現し、その最初の実として教会を誕生させ、教会を通してこの福音を世界にもたらすことを明らかにしていったのです。

私たちが、今日、主のことばを聞こうと願うなら、主は聖書を通してすでに語っていてくださり、聖霊がその意味を私たちに悟らせてくださるので、聖書を読むということがとても大事になるのです。牧師や教師が調べて語る説教や教えを聞くことも大事ですが、自分から「神様は私に何を語ってくださるのですか」という心で聖書を読み、理解しようと頭と心を使い、調べたり考えたりすることが大事です。

新約聖書の使徒の働き17章には使徒たちの話しを素直に聞いてみことばを受け入れたベレアの信徒たちの模範が記されています。彼らは素直に信じ受け入れましたが、それを確かめるために自分たちで毎日熱心に聖書を調べたそうです。

婦人会や祈祷会の時に、前の日曜日に説教で開いた箇所をもう一度読んで一緒に考えたり証ししたことを分かち合います。いつもうまく行くわけではないかも知れませんが、時々、聖書箇所の教えがはっきりと分かって感動したり、心に深く刺さることがあります。

今日から基本原則の学びを再開しましたが、そこでも自分から聖書を調べ、主に聞こうとし、互いに教えられたことを聞きながら、神様が何を語っておられるかを確かな確信として持とうとします。

そういうとき、私たちはただ知識を勉強しているのではなく、神様のことばが自分の心や生き方にどういう意味があるか深く思い巡らしています。それが主との親しい交わりに「加わる」ということです。しかも互いに聞き合うことで、同じように主との親しい交わりがなされている、兄弟姉妹の交わりとの中に私も加えられていくという経験をするのです。

主に聞こうと耳を傾ける姿勢で聖書に自ら耳を傾けましょう。そこに主との親しい交わりがあり、そこに私たちのいのちと力があるのです。

祈り

「天の父なる神様。

今日はエレミヤ書を通して、主との交わりということについて考え、主のことばに耳を傾けることが私たちの力であることを学びました。

どうか偽預言者たちのように、神様に聞くことをせず、主との親しい交わりを求めず、日々の暮らしから神様の気配を消してしまうように、愚かで自分勝手な歩みに陥ってしまわないように私たちを守っていてください。

何より、私たちが主のことばを聞きたいという願いをもって聖書に向き合い、学び、語り合う者としてください。聖書を通して語られる主のことばを聞き、共に感動し、喜び合う交わりへと私たちを導いてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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