2024年 6月 30日 礼拝 聖書:コリント第二 12:1-10
すごい経験というのは、それ自体は素晴らしいことであっても、本来の自分の器の大きさを見失わせてしまうことがあります。自分まで凄くなったような錯覚をしたり、力が増したような気がしたりすることがあるのです。
昨年、私が倒れてある意味復活したとき、ある人は「先生、めっちゃ強い武器を手に入れましたね」というようなことを言いました。どうやら、すごい経験をしたから、伝道や証しの時に有利なんじゃないかという意味合いだったようです。「そんなふうに思うんだ」と驚きつつ、違和感も感じました。
確かに奇跡的だったし、多くの人たちは主が生きておられ、祈りを聞いてくださったと感じたのも事実です。ですが、私はわりと頑なに「自分がすごい経験したというふうには思ってない。実際、まったく意識がなかったから。がんばってくれたのは家内や教会の皆さんです」と言い続けています。そして、自分の経験を神様が生きておられることや祈りを聞いてくださる方だというしるしとして語ることには今も抵抗があります。
今日開いている箇所では、パウロが今まで語ったことのなかったすごい経験について触れていますが、それを持ち出して語っているのは、すごい経験ではなく、むしろ祈りが聞かれなかったところにこそ神の恵みがあふれていたということです。
1.幻と啓示
1~6節でパウロは14年前に経験したことを記しています。使徒の働きや他の手紙にもこのことは書かれていませんので、パウロがずっと心に秘めていたということです。時期的には、ダマスコ途上でイエス様と出会って回心し、使徒たちの承認され、その後しばらく生まれ故郷のタルソに戻っていました。もしかしたら、タルソにいる間の出来事かも知れません。
パウロが経験したことというのは、幻の中でのことなのか、現実のことであるのか自分でもはっきり分からなかったけれど、第三の天とかパラダイスと呼ばれる所へ連れて行かれ、人間には語ることの許されていない言葉を聞いたというのです。パウロはこれを「幻と啓示」と言っています。具体的な内容は書いていませんが、それがとてつもなくすごい経験であって、人が踏み入ることのできない世界を垣間見るようなことだったということは分かります。
なぜパウロがこんなことを書いているかというと、これはコリント人への第二の手紙が書かれた事情につながります。
コリント教会はいろいろと問題のあった教会で、これまでもパウロは手紙を何通か書き、実際に訪問もして、問題の解決にあたってきました。痛みの伴う悔い改めが起こったのですが、それでもパウロの使徒としての権威を認めたがらず、頑なに拒む人たちがいました。
11節にも出て来ますが、コリント教会の一部のクリスチャンは「大使徒」と呼ばれていた人たちとパウロを比べて、パウロを軽んじ、認めようとしなかったのです。
この大使徒たちは、ペテロやヨハネのような教会の柱と呼ばれるような人たちとも解釈できますが、どうもそうではなかったようです。10:10では、パウロを批判する言葉がありますが、大使徒たちはどうも見た感じ威厳があり、雄弁であったようです。また11:4~5では、彼らがパウロの伝えていた福音と異なる福音、異なるイエス、異なる霊を宣べ伝えており、自らを「大使徒」と自称していたようです。しかしパウロは彼らを13節で「偽使徒」「人を欺く働き人」「キリストの使徒に変装している」と断言します。
彼らは、自分たちの知識や雄弁さを誇り、どこからもらって来たかわからないような「推薦状」をチラつかせて自分たちの立場も強く見せています。
しかし、パウロに自慢できることといったら、一生懸命主に仕え、福音を宣べ伝え、教会に仕え、苦労し、時には自らの手で働いてきた、そんな姿だけです。
しかし、あまりに彼らが自分たちのすごさを自慢するものだから、パウロは仕方なく、この幻と啓示の経験を語り出すのです。
玩具の金貨をジャラつかせて自慢げにしている友だちに、あんまり馬鹿にして、うるさいからお父さんからもらって内緒にしていた本物の金貨を「これこそほんとの金貨だ」と見せるような感じです。本物の金貨を持っていた子は、金貨自体よりも、そのような素晴らしいものを預けてくれたお父さんの信頼や親子のつながりのほうが嬉しかったので、金貨自体を誰かに自慢して見せびらかす必要がなかったのです。
ですからパウロは「私は誇らずにいられません。誇っても無益ですが」と話し始めたのです。
2.肉体のとげ
パウロがこのような幻か啓示かなにかを受けたのは、明らかに、神様が特別な目的で、パウロだけにそのような体験をさせたのです。それは自慢しようと思ったら、大使徒と自称している偽使徒たちが振りかざしている知識や雄弁さ、怪しげな推薦状がたちまち玩具の金貨だとバレるような本物の金貨として示せたことでしょう。
しかし6節後半にあるように、その啓示があまりにすばらしいので、だれかが自分を過大評価してはいけないと考え、誇ることを控え、権威の問題があったとしても、それには触れてこなかったのです。それどころか、自分が高慢にならないようにと「肉体のとげ」が与えられたと言っています。
「肉体のとげ」が何であったかについて、いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、それは想像に過ぎないし、ある意味、何であっても不思議はありません。大事なのは、それをパウロが自分を戒めるためのものであると理解できたことであり、自分を打つためにサタンが働いた結果だと考えていたことです。
「サタンが働く」と聞くと現代のホラー映画やゲームの世界観に影響された人は、すぐに悪霊に取り憑かれたり、異常な行動をするようになることを思いうかべるかも知れません。
イエス様がサタンに勝利された今、サタンは自由に人を直接攻撃できません。サタンはその手下である悪霊どもを使ってありとあらゆる方法で人間を惑わせ、恐怖や疑いの種を蒔き、心を神様から離れさせようと頑張っていますが、いつも神様のコントロールの下にあります。神様の許しなくして、サタンがパウロを打つなんてことはないのです。しかも、神様がそれをお許しになるのは、神様の目的にかなう時に限られるのです。
例えば、テサロニケに書き送った手紙で、パウロがテサロニケに行きたかったのに「サタンが私たちを妨げた」と書いています。その時の状況が使徒の働き17章から18章に書かれているのですが、それを見ると、テサロニケからユダヤ人の強烈な反対によって命の危険を感じるような騒動に見舞われやむなく町を出ます。次に行ったベレヤの町の人たちはとても良い反応でしたが、テサロニケから追いかけて来たユダヤ人のためにまたしても町を離れなければならなくなり、一人アテネに向かうことになり、なかなか思うような働きができず、次の町コリントに行くことになったのです。サタンの妨げによって絶えず旅が不安定になりましたが、結果的には移動したあちこちで福音を広げることになり、今手紙を書き送っているコリントに行き、一年半に渡って福音を伝え教えることができました。そのように、神様ご自身のご計画があって、意味があるときだけサタンの活動が許されたのです。
パウロが経験した肉体のとげもそのようなものでした。第三の天まで挙げられるというあまりにも素晴らしい経験をしたパウロですが、そこにはパウロがエキサイトしすぎたり、高慢になってしまうリスクもありました。「とげ」という表現から想像されるように、致命的ではないにしても絶えず肉体的な痛みや不快感を伴う何かがあったおかげで、霊的にエキサイトしすぎたり、傲慢になったりしないでバランスを取り戻せたのです。神様はそのためにサタンがパウロを打つことを許したのです。けれどもこの肉体のとげは容易に我慢できるものではありませんでした。
3.十分な恵み
肉体のトゲはパウロを高慢にさせない、霊的なバランスを取り戻すという効果だけでなく、神の恵みについてのより深い洞察を得させました。
8節でパウロは、「この使い」つまり、自分に与えられた「肉体のとげ」を去らせてくださるようにと、三度も主にお願いしたことを告白しています。ちょうどイエス様がゲッセマネの園で、十字架の死という苦い杯を取り去ってくださいと三度(マタイ26:44)祈ったことと重なります。それを意識しての三度だったかは分かりませんが、決してちょっと軽く3回祈ったというだけのことではなかったはずです。真剣で、重い祈りです。
しかし主はこう答えたと9節に記されています。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」
肉体のとげの正体がなんであったかは分かりませんが、現状ではそれは取り去られていません。もし病気だとしたら、症状は何も変わっておらず、何か障害があったなら不自由さにかわりはありません。つまり、パウロのいやしてほしい、直して欲しいという祈りはまったく聞かれていなかったのです。そうでありながら、イエス様は「わたしの恵みはあなたに十分である」というのです。「十分である」とは、十分であり続ける、というニュアンスのギリシャ語が使われています。つまり、肉体のとげがある状態だけれども、すでに恵みは十分に注がれているという気付きを与えるものであり、これからも恵みは注がれ続けるという約束でもあるのです。
では、パウロはどういうところにイエス様の恵みを十分に感じたのでしょうか。9節後半には「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と、自称大祭司たちが悔しがりうらやましがるようなスゴイ経験ではなく、彼らがパウロを馬鹿にし、蔑んだ原因でもある「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます」とはっきり告げています。強がっているのでしょうか。「私が弱い時にこそ、私は強いからです」というパウロの言葉には、へんな強がりではなく、強さやキリストの恵みについて、まったく違う見方をしているのだということが表れています。
祈りが聞かれ癒されたから感じる恵みではなく、祈りが聞かれず苦難の中にあり続けたから感じる恵みがある。弱さは弱さのままとして残っているから痛みもあれば悩みもあるのです。それでもその弱さをキリストの力がおおうから恵みは十分なのだ、それこそが本当の意味で私たちを強くする十分な恵みなのだということです。
弱かったけれど、その弱さが用いられたり、苦悩があったけれども神様が思いがけない道を備えていてくださった、迫害はあったけれど生き延びさせてくださった。それが単なる偶然や幸運ということではなく、キリストの力の表れと見るなら、確かに自分が無力であればあるほど、キリストの力が際立って見えてきます。
そして、自分を苦しめる肉体のとげについていうなら、これは願いは聞き届けられなかったけれど、神の恵みについて深く理解することになったし、何より、あのスゴイ経験をした自分が自称大使徒たちのような傲慢で嫌な感じの人間にならずに済んで、キリストに似た者に変えられていることに気付かされることになったのではないでしょうか。
適用:弱い時にこそ
皆さんは、どういうときに自分の弱さを感じるでしょうか。パウロのように肉体のトゲだと思うようなものがあるかも知れません。取り去って欲しいの願っているのに祈りが聞かれていないことにがっかりしたり、恵みを感じられない事があるかも知れません。
第三の天にあげられるようなすごい経験をした上に、祈れば大きな病も癒され、奇跡を呼び寄せるなんてことになったら恵みを感じるでしょうか。おそらくほとんどの人間は間違った万能感を得て傲慢になり、神様は素晴らしいと口では言っても自分がスゴイと心の中では錯覚してしまいます。
私は、去年の復活劇で祈りが聞かれたという感覚が本当にないんですね。教会の皆さんは本当に一生懸命に祈ってくださったので、主が祈りを聞いてくださったと感じておられると思います。それは正しい感覚だと思います。
私自身は完全に無力でした。心臓が止まっている1時間ちょっとの間、残念ながら第三の天に挙げられることもなかったし、御使いの言葉を聞くこともありませんでした。意識が戻ってから幻はたくさん見ましたが、それはイエス様からの啓示ではありません。ある意味スゴイ経験でしたが、そこに私が何か自慢できるようなものはなく、ただただ無力で、家内の心臓マッサージや医療チームの全力の治療とサポートでゴンドラに乗せられて次の目的地に運んでもらっているだけのような感覚です。
実際、幻の中で舟やゴンドラ、ストレッチャーなど様々なものに無力に寝たままあちこちに連れられていたのは象徴的だったように思います。
ただ、この経験は弱いときこそ神の力、キリストの恵みが現れるということの意味を実感できる時でもありました。そして同時に、幻の中で思い知らされ、思い出させられた様々な弱さ、答えられなかった願い、様々な後悔、心の痛みとして残っている記憶が良くも悪くも今の自分を造っているし、それらを用いて神様が私を導いてくださっていたとも感じられたのは幸いでした。
自分の足で歩き始めたときも、自分の回復力を感じるというより、病院スタッフのサポートや励ましにどれだけ支えられているかをいつも感じていましたし、退院してからも、本当に多くの人たちの祈り、支えがあったことを思い知らされたのです。それらすべてがイエス様の備えてくださった、私の弱さのうちにあらわれたキリストの力です。
そして私の心を占めているのは、祈りが聞かれていない、願いが叶えられていない、そんな状況にも、そんな状況だからこそ表されるキリストの恵み、力があるという驚きです。
長い間、病を抱えながら忍耐強く治療を続けていたり、自分の気持ちより遙かに早く老化が進んで若い時のようには出来なくなっても、その中で出来る事を見つけて精一杯生きている方々を見ると、驚かされ、感動します。本人はそれどころじゃないと思うかも知れませんが、どれほどイエス様が力を与えてくださり、恵みでおおってくださっているか気付いて欲しいと願うばかりです。何にキリストの恵みと力を感じるかは人それぞれですし、それは他人に指摘されて分かることではなく、心の目が開かれて、ああそうなんだと気付くことです。
しかし、私が弱い時にこそ、イエス様の恵みと力がこの弱さを通して現れる。すごい経験ではなく、むしろ祈りが聞かれなかったところにこそ神の恵みが十分にあふれていると分かるなら、それこそ私たちは無敵です。
祈り
「天の父なる神様。
私たちは弱さを覚えるとき、祈りが聞かれないとき、無力だと思ってしまいますし、キリストの恵みも力も与えられていないと思いがちです。
けれども、弱さのうちにこそイエス様の恵みは十分に注がれ、力が現れるのだというイエス様ご自身の約束を、どうぞ悟らせて下さい。約束として信じるだけでなく、弱さのただ中で、ああ、本当にそうだと味わえるように、私たちの心の目を開いてください。そして弱さを恥じるのではなく、喜べるようになるまで私たちを引き上げてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」