2024-12-24 慰めの神

2024年 12月 24日 クリスマスイブ礼拝 聖書:イザヤ40:1-2,26-31

 もうすぐ一年の終わりを迎えます。この一年を振り返って何を思いだし、どんな感情がよみがえって来るでしょうか。昨年は12月24日が日曜日で、私の体調も考慮していただいて、クリスマスイブ礼拝のないクリスマスになりました。そのほぼ1週間後の1月1日は能登半島での大きな地震と災害があり、信じがたい思いと悲しみで2024年がはじまりました。この一年、喜ばしいことも、楽しいこともありましたし、悲しいこと、つらいこともありました。いつも誰かが病気であったり、怪我をしたり、手術をしたりして、多くの方々の癒やしのために祈りました。地上での生涯を終えた方々もおられました。

世の中でも様々な動きがあり、令和の米騒動の話題も記憶に新しいところですが、否が応でも、私たちは大きな地球村の一員であることを意識させられます。しかもこの地球村は様々な問題を抱えています。そんな私たちに、神様が聖書を通して「慰めよ、慰めよ」と語りかけていることばに、今日は耳を傾けてみましょう。

1.慰めよ、慰めよ

「慰めよ、慰めよ」で始まる、イザヤの預言はやがておいでになる救い主、キリストがもたらすはずの慰めと回復を約束する一連の預言の一つです。つまり、今お祝いしているイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスが、私たちに何をもたらすためのものであるかを語っています。

今続く2節にはこんなふうに続いていました。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に変えて、二倍のものを主の手から受けている、と」

私たちは「慰め」と聞くと、自分の抱えている悲しみや嘆き、寂しさなどが癒されることや分かってもらえることを期待しますが、聖書の語る慰めには、それだけでなく、私たちが自分の罪のために味わっている苦しみから解き放つことまで含まれます。感情的な回復はとても大切なのですが、それだけでなく、私たちの人間としての存在の回復をイエス様はもたらしてくださるというのです。

考えてみれば、私たちの人生を難しくし、辛くするのは、親しい人が亡くなったとか、失意や挫折の経験だけではありません。自分を守るためについた嘘のために苦しくなったり、何気なく放ったひと言で人間関係を壊すようなことがあります。世の中の圧倒的な力に翻弄されて弱い私たちが傷付くことや不利益を被ることもあります。私たちは自分自身の罪によって苦しんだり、他人を傷つけるだけでなく、そういう罪ある人間が集まってできた世の中のかかえる罪の大きなうずに巻き込まれて傷つけられたり、悲しませられることがある者です。

神様は、そんな私たちに慰めを与えるために、悲しみを癒やすだけでなく、私たちを苦しめる大元の問題である罪を取り除くために救い主イエス様をお送りくださいました。

2.赦しと回復によって

感情的な癒やしは、十分な時間をかけて誰かに共感してもらったり、自分の気持ちを言葉にすることをしながら、その悲しみや傷を自ら受け入れ、新たな人生を歩む力を得てもたらされます。私たちの友だちや家族が聞き手となってくれることもありますし、見ず知らずの誰かが聞いてくれるかもしれません。物語や歌が助けになるかもしれません。しかし時として私たちの最も深い悲しみは簡単には人に話せないことだったりします。そんなときはイエス様が聞いてくださいます。同じイザヤの預言にこんな言葉があります。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。 人が顔を背けるほど蔑まれ、 私たちも彼を尊ばなかった。」

誰にも分かってもらえないような悲しみ、辛さもイエス様は分かってくださいます。

しかし罪からの回復のためには、赦しが必要です。ですから主は「その苦役は終わり、その咎は償われている」とおっしゃってくださいました。それはやがて来られる救い主が人間の罪と償ってくださることを指しています。イエス・キリストがお生まれになったのは、この罪の償いのためです。私たちを赦し、回復を与えるためです。悲しみや寂しさが癒されたとしても、罪の赦しなしに、私たちの心が晴れることはありません。悲しみは私を苦しめるだけですが、罪は私をも他人をも、何より私たちを愛してくださる神様を苦しめます。

だから、神様は何としてでも私たちをいやし、回復してあげたいと願い、断固とした決意で救い主イエス様を送り出し、イエス様の十字架の苦しみと死によって罪の償いを果たし、私たちに赦しを与えようとされました。

26節で「あなたがたは目を高く上げて、 だれがこれらを創造したかを見よ。この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない。」と言われています。神様は、この宇宙とそこにある全てのものをお造りになりましたが、その力を知恵の全てを傾けて私たちを救い、赦しと回復を与え、慰めをもたらそうとしてくださっています。神様がこの世界をお造りになった時、「その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる」と言われます。神様は全体を見ているだけでなく、個別の小さな一つ一つの物事、存在にまで目を配り、ご覧になりながら造られたということです。この大きな世界で誰にも気付かれずに泣いたり悩んでいるような私たちのことをもちゃんと見ていてくださり、そんな私にも慰めを、赦しと回復を与えようとしてくださっているのです。

ところが、私たち人間は神様に向かって「私のことなんか分かってくれない」と文句をいいがちです。あるいは「私を気に掛ける神様なんかいるわけがない」とさえ言ってしまいます。

3.新しい力を与えることで

しかし聖書は私たちに繰り返し問いかけます。「あなたがたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は計り知れない」

すごい神様だということを言いたいのではありません。「疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。」神様は、悲しみや罪ゆえの苦しみに沈む私たちを慰めるため、ただ気持ちに寄り添うだけでなく、新しく歩み出すための力を与えてくださいます。神様が造られた自然界のどこでもいいから目を向けて観てください。夜宙を見上げれば遠い星々の世界が拡がっています。数えきれない星の数だけでなく、その不思議に心を奪われます。野の花や雪の結晶や小さな世界に目を向けてもそこには驚くべき知恵が隠されています。私たちの心が疲れ、気力を失っているときもこの宇宙は活動をやめることなく、太陽は必ずのぼり、雨は地を潤し、地は命を生み出し続けます。それは自然がそのように造られたからというだけではなく、神様がそのような方だからであり、そういう神様が、私たちのために絶え間なく働き続けてくださっているのです。

人間の力も気力も限界があります。元気いっぱいな若者のエネルギーも無限ではありません。年とともにそれは衰えるでしょう。

しかし31節にあるように、私たちの新しい力、私たちの肉体的、精神的な力に基づくのではありません。主の救いを待ち望む者に与えられる新しい力として与えられます。

たとえどんな悲しみの中にあったとして、どんな理由で気力が衰え、また罪のために思い悩み、傷つけられていたとしても、神様は私たちを慰め、赦し、力を与えて新しいいのちと新しい人生へと導いてくださいます。

適用:内なる自分を見つめて

皆さんはいかがでしょうか。「慰めよ、慰めよ、私の民を。…エルサレムに優しく語りかけよ」という言葉を聞いて、これは自分のための言葉かもしれないと思われたでしょうか。

どうぞ内なる自分を見つめてみてください。今年一年の悲しかったことに限らず、これまでの歩みの中で消えることのなかった悲しみや寂しさ、またどんなに消そうと頑張っても消えない罪の記憶、実際に自分の罪のために味わった苦しみ、この世の中の悪や冷たさによって味わった辛さ。そうしたものが私たちの心を弱らせたり、足どりを重くしてはいないでしょうか。

それらをイエス様は癒やし、慰め、また赦し、回復させ、新しく生きる力を与えてくださいます。

今日、キャンドルサービスの時に、隣りの人から光を受け取ったように、私たちはイエス様から希望の光、慰めの光を受け取ることができます。そうすれば、私たちもまた、誰かにこの慰めと希望を手渡すことができり者になれます。

このクリマスが皆さんおひとりおひとりの慰めと希望の時となりますように、祝福をお祈りいたします。

祈り

「天の父なる神様。

クリスマスイブの静かな時に、こうして愛する皆さんとともにイエス様の御降誕を覚えることができて、ありがとうございます。私たちのためにお生まれくださったイエス様が、約束された慰めと希望、癒やしと回復のためにおいでになったことを心から感謝します。

悲しむ者とともにいてくださる神様。どうぞ私たちに赦しと慰めをお与えください。また人間の愚かな罪のために絶えず傷つけ合い、人間性を失いかけているこの世界を憐れんでくださり、私たちを神様の慰めと希望の灯火として用いてくださいますように。私たちのうちに与えられた小さな光が誰かの希望となりますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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