2025-01-01 あなたのあわれみと恵みを

2025年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇25篇1-7節

 新しい一年が始まりましたが、皆さんはどのような一年になることを期待しているでしょうか。何か、具体的な目標を立てた方はおられるでしょうか。

私は一年の初めだからといってあまり計画を立てたりはしないのですが、今年についてはいくつか目標があります。神様から与えられた一年ですから、自分が今の生活や働きを委ねられた意味を考えて、それに相応しくありたいと思います。しかし、皆さんも経験があると思いますが、目標を立てても、計画を立ててもなかなかうまくいかないことがあります。自分自身の怠け根性が出てしまうこともありますし、思いがけない困難に直面することがあります。自分や家族が大きな病気をしてそれどころじゃないということもあります。成功すること自体が人生の目的でないとしても、私たちは与えられた年月をできるだけ誠実にありたいと思います。いのちを与えてくださった神様に対する誠実さであるからです。

1.主の助け

詩篇25篇は「ダビデによる」という表題がついています。

ダビデの詩の多くに「敵」が登場します。具体的な状況が分からないことが多いのですが、サムエル記などを見ますと、確かに敵が多かったことがわかります。

私たちが詩篇を読むときは、必ずしも具体的に敵対している人物が思い当たらないかもしれませんが、それはそれで構いません。そういうときは何か直面している困難や悩みに置き換えて読んで良いと思います。

私たちは、敵がいたり、自分の力では太刀打ちできない困難に直面するような人生を生きています。その中でダビデは主を仰ぎ求め、信頼しますと告白します。それは1~3節に描かれているように、「恥を見ないように」という願いのゆえです。

ダビデの敵たちは、神を畏れず自己中心な振る舞いをしていますが、その横暴で傲慢な行動に自分が敗れてしまったら「神を信頼する者が馬鹿を見る」ことになってしまいます。だから、神を畏れず、自己中心で、横暴で、傲慢で、裏切る者のほうこそ、その愚かさを思い知るべきだと訴えています。

敵であれ、困難な出来事であれ、私たちは主の助けなしにそれらの脅威に囲まれた中で誠実に生きることはできません。そうした外から来る問題は、私たちが神に頼ることなんか無意味だと思わせ、お前も好きなように生きれば良いじゃないかと誘惑し、私たちが無力であることを思い知らせます。自分の力だけで何とかしようとするのではなく、主の助けを求めて主を信頼し仰ぎ求めましょう。2.主の導き

第2に、ダビデは4~5節で、主の導きを求めています。

ダビデの祈りは、「恥を見ないように」してくださいという、消極的な内容から、「あなたの道を教えてください」という積極的な内容へと進みます。

ダビデの願いは、一国の王として我が道を行くことではなく、主が歩まれる道を自分も歩いていきたいということでした。主こそが、私たちの救いの神だからです。

恥をかかないだけでなく、善し悪しを見分け、自分の歩むべき道、人生、日々の選択について確信をもって自ら律していくことが出来たら、どれほど充実した歩みになるでしょうか。

どういうふうに生きるのが良いのか分からなくなることがあります。ダビデのように敵の攻撃にさらされているとき、困難の中にあるとき、目の前のことに対処することで精一杯で、まるで道がどこか分からないまま藪を漕いでいるようになります。

この判断で良かったのか、独りよがりだったんじゃないか、間違っていたんじゃないかと不安になることもあります。誠実に生きようとしていればこそ、そうした不安や恐れも生まれますが、神様に頼ることをしないなら、自分が知らず知らずのうちに傲慢になったり、愚かな歩みをしてしまっていることすら気付かないかもしれません。

主からいただいた一年を誠実に生きようと願うなら、主の教えによって歩むべき道のりへと導いていただくことが必要です。主の教えなしに、正しい道、良い道を見つけることはできません。3.主のめぐみ

第3に、ダビデは主の恵みを求めています。

6~7節でダビデは、主に「思い起こしてください あわれみと恵みを」と願っています。

主の教えと導きによって歩むべき道を知っても、なお、私たちはその道を正しく歩めるとは限りません。むしろ、これが主の道だと分かっていながら、道を踏み外したり、躓いてしまうのが私たちです。

そんな私たちにどうしても必要なのは、正しく生きようとする私たちの意志の強さではなく、主のあわれみと恵みです。

今までの自分の人生を振り返ってみても、主のあわれみと恵みなしには、とてもじゃないけど恥ずかしくて顔も上げられません。こんな風に人の前にたって、分かったように聖書を解き明かしていますが、それがどんなに似合わないことか、相応しくないことかは自分でよく分かっています。神様が憐れんでくださり、恵みをもって私を見てくれるから、取り扱ってくれるから立っていられます。

大事なポイントは、主の憐れみ、恵みは、このふがいない私たち人間に対する、単なる同情ではありません。聖書の中で恵みと憐れみという言葉は神様の契約、つまり約束と深く結びついた言葉です。6節でダビデはあわれみと恵みについて「それらは とこしえからのものです」と言っていますが、それは神様の永遠のご性質とともに、神様の約束がとこしえに変わることのないものであるという、契約によるものです。

神様の約束が決して変わることのないものだから、たとえ私たちが主の前に相応しくない生き方をしてしまうことがあっても、時に罪を犯したり、一時的に背を向けることがあっても、神様ご自身の約束を果たそうとしてくださいます。もし、私たちの行いに応じて神様が与えるものを変えるなら、私たちに相応しいの祝福ではなく罰や呪いかも知れません。しかし、神様は私たちを祝福し、キリストに似た者に造り変えてくださるという約束を果たし続けてくださるのです。まさに受けるに値しない者に、豊かに与えてくださるのです。

適用:私たちの祈り

一年を始めるにあたって、25篇の前半を味わってきました。

この一年がどんな一年になるか、想像もつきませんが、私たちがどんな年月であり、どんな困難、あるいは敵に直面するとしても、誠実でありたいと思います。そのためには、主の助け、主の導き、そして何より主の恵みが必要です。このダビデの祈りを私たちの祈りとしましょう。

祈り

それでは、ここで少しの間祈りの時間を取りたいと思います。まずは、めいめい、神様の前にこの一年を誠実に歩むこと、そしてそのために神様の助け、導き、恵みがあるよう祈りましょう。

次に、隣り合った人たちのために二、三人一組で祈りましょう。

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