2025-01-19 新しいいのち、新しい生き方

2025年 1月 19日 礼拝 聖書:エペソ2:1-10

 「救い」とは何でしょうか。ある人は、今まさに苦しんでいる事柄、悩みから解放されることを救いと捉えます。ある人は死んだ後に地獄に行って苦しむのではなく天国にいってハッピーになれることを救いと捉えます。またある人は、この世の限られた人生で終わりではなく、永遠のいのちが与えられていることを救いと捉えます。実際の問題が解決しなくても、気持ちが晴れるなら、それで救われたという人もいます。それら一つ一つはイエス様によって与えられる救いのある面を表していると言えますが、それが全てではありません。一部だけで満足するなら、これからフルコースの料理が待っているのに、前菜だけ食べて「こんなに美味しいの食べたことない」といって満足して帰ってしまうようなものです。

聖書は救いについて何を教えているでしょうか。今日はエペソ書の続きから、イエス・キリストによって与えられる救いがどのようなものなのかをご一緒に学びましょう。すでにイエス様を信じている人も、何が与えられているのか、あらためて学びましょう。

1.罪の中に死んでいた

救い、という時にまず考えなければならないのは、私たちは何から救われるのか、ということです。聖書はその点について「私たちは罪の中に死んでいた」と言います。

1節をもう一度読んでみましょう。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」

背きは「的外れ」、罪は「道を外れる」というニュアンスの違う言葉ですが、言わんとしていることは一つです。私たちは神様に造られ、命を与えられた人間としての本来あるべき姿、生き方から外れているということです。具体的には2節にあるように、この世の流れに流されてしまうこと、そしてこの世界で働いている霊に従って生きているということです。

この世の流れに流されているというのはちょっと分かりますが、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って生きている、ということに「え?そうなの?そういう霊の存在をキリスト教も教えるんだ」とびっくりしたり、怪しんだりする人がいるかもしれません。

まず、この世の流れに従い、というのは、この世界の価値観や習慣が、この世界を造られた神様の願う姿から離れてしまっていることに気付かず、その流れに乗ってしまっているということです。

今の社会全体の風潮は、神様の願ったような人間のあり方や幸せに向かっているかというと、むしろ真逆の争い、世の中を渡っていくためには、不正や裏切り、嘘もバレない程度にやるのはしかたがないとか、個人の信念よりみんなの迷惑にならないことを大事にしなくちゃいけないといった考え方もあります。共同体の平和を守るためには、誰かに犠牲になってもらうのはしかたがないといって、差別される人たちがいつも不利な扱いを受けることがあります。

そうしたことの背後には、まさに不従順な者たちのうちに働く霊が影響を与え、ますます人間を神様から引き離そうとしています。

しかし3節には、「私たちも」とパウロが語り始め、自分も含めて、私たち人間が内にある欲望によっても、罪の中に死んでいることを教えています。神を知っているはずのユダヤ人も変わりなく、罪に捕らわれている。しかも外から来る影響だけではなく、自分の中にある欲望が自分を捉え、罪に縛り付けていると言うのです。

その結果、私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子」であったと言うのです。生まれたばかりの赤ん坊が、大人のように狡さや自分勝手な存在だということではないし、お腹がすいたり、オムツがよごれて泣いているのを、人間の自己中心性を表しているというのではありません。しかし、人間は生まれながらに罪に向かう性質を持っており、親がよほど賢く、愛情深く育てても、この世の流れに影響されたり、自分のうちにある欲望に振り回されるようになってしまいます。そうした人間の罪や悪に対する報いとして神の怒りから逃れることは出来ないのです。

こうしてみると、なぜ聖書が私たちが自分の背きや罪の中に「死んでいた」と言うのかが分かります。私たちは、どれほど良い条件に生まれ、他とは比べようもないほど愛情を受け、良い教育を受けたとしても、外から来る罪の影響や自分のうちに起こって来る罪の根から誰も自由ではいられず、その結果からも逃れられず、完全に無力だということです。救いをいただくためにまず必要なのが、この事実を自分のこととして認めることです。

2.神の愛によって救われた

第2に、神の救いは、神が私たちを愛する故に与えられました。ここまで、パウロが指摘していることは、私たちが罪に対しては無力で、私たちは捕らわれてしまっているということです。しかし4節にあるように、神様はそれでも私たちを愛しておられます。

「あわれみ豊かな神は」という言葉に反発する人もいるようです。「あわれむ」という言葉に、下に見られているという感じを持つからかもしれません。しかし、神様の憐れみ深さは人を見くだすような視線ではありません。どうにもならない力に捕らわれている私たちに対する愛に根ざした思いやりと、何としても助けようとする強い意志が込められています。

反抗的な態度をとる子でも、我が子だからと愛し、手を差し伸べようとする親のように、神様は罪の中に死んでいた私たちを愛し、その愛のゆえに「キリストとともに生かして」くださいました。5節にあるように、キリストとともに生きるようになった、ということが聖書の言う救いです。死んでいた者を生きるようにしたとは、具体的にどういうことでしょうか。

イエス様は私たちの罪の身代わりとなって死なれましたが、それは私たちが受けるべき神の御怒りを代わりに引き受けてくださったことを意味します。イエス様を救い主として信じる人たちについては、イエス様が十字架で神の怒りを引き受けたことを、その人が受けたこととみなして、もう罪には問わないと、神様が決めてくれたということです。私たちの罪は赦されたと言いますが、決して見逃したとか、水に流してなかったことにするいう意味ではなく、ちゃんと罪に応じた報いをイエス様が引き受けてくださったことに免じて私たちを赦してくださったのです。十字架について歌った賛美歌の中に「神の義と愛の会えるところ」という歌詞がありますが、まさに罪に対する裁きを果たす正義と罪ある者を赦す愛を同時にかなえたのがイエス様の十字架なのです。

しかし救いは罪が赦されるだけではありません。イエス様が死からよみがえらせた、神様の力を私たちのうちにも働かせて、私たちに新しいいのちと新しい生き方を与えてくださいました。

どういうことでしょう。先週見た1:20-21で神様はその力をイエス様のうちに働かせて、死からよみがえらせただけでなく、すべてに勝る名を与えたと言われていました。本当にこの世界を治める王であることを宣言なさったということですね。そして、イエス様を信じて十字架による罪の赦しを受けた私たちを、同じように2:6で「ともに天上に座らせてくださいました」。つまり、罪に死んでいた私たちを、イエス様とともに生きる者にするだけでなく、まるで王であるかのように見てくださるということです。私たちは罪に縛られ、自由を失い、自分の人生の主導権を罪の力やこの世の流れに取られていましたが、イエス様とともに自由を得、自分の人生の主導権を取り戻すことができたということです。しかも、王であるイエス様と一緒に、ということなので、その立場に相応しい、全く新しい生き方へと私たちは導かれているのです。

そしてパウロが声を大にして主張するのは、このように私たちを救い、生かしてくださったのは、神様の大きな愛のゆえであり、この救いは、代わりに何かを差し出すことを求めない、神の大きな恵みであるということです。

3.神の恵みを示すため

第3に、私たちが救われたのは、つまり罪赦され、イエス様とともに新しく生きる者となったのは、神様の限りなく豊かな恵みを示すためです。

まずは救いそのものが神様の豊かな恵みです。それを受け取ることは神様の恵み深さを示すことになります。

7節をもう一度読んでみましょう。「それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。」

すごく頑張って勝利を勝ち取ったり成功を収めたりしたなら、称賛されるべきは、その人です。先日、日本のプロ野球で殿堂入りが発表されました。メジャーリーグでも活躍したイチローさんが、候補にあがった一年目で見事に殿堂入りを果たしたそうです。その活躍は野球好きでない人も耳にしたことがあると思います。天才である以上に、本当に野球に打ち込んで結果を遺したのですから、称賛され、殿堂入りするのは当然です。

しかし、私たちの救いは、私たちの努力によってでも、素質があったからでも、成功したからでもありません。私たちの心にも行いにも、良い面があったかも知れませんが、むしろ罪に対しては無力で死んだ者でした。しかし、イエス様によって罪赦され、イエス様とともに生きる者とされ、天の御座にともに座る者とまでされたのは、明らかに神様の一方的な恵みです。8節で「神の賜物です」と言われていますが、まさに神様からの分不相応な贈り物です。

今日、私はある宣教師からいただいた腕時計をしています。先日の新年会で思いがけずいただきました。彼はたくさん時計を持っているので、その中から分けてくれたのですが、私が彼に何かをしてあげたということはないので、一方的な贈り物です。ただただ、懐の大きさ、気持ちの大きさに感謝して受け取るだけです。

神様の救いは、私たちを愛するゆえに、一方的な贈り物として与えられます。ときどき「キリスト教の救いは信じる者にしか与えられない」と難癖をつける人がいますが、そんなの当たり前です。高価そうなプレゼントも「何か裏があるんじゃないか」と疑って拒絶するなら自分のものにはなりません。信仰は差し出された贈り物を、神様から自分に差し出され神の大きな愛、計り知れない恵みとして心を開いて受け取ることです。

そして私たちクリスチャンは神様から受け取った計り知れない恵みをこの世界に表すための新しい生き方に召されました。そのため10節にあるように、神様は私たちに「良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」。

私たちは誰でも、イエス様を信じてからの新しい人生で、自分がこの世界で果たすべき神様から委ねられた目的、役割があるのです。具体的にそれが何であるかは人それぞれですが、その人なりの仕方で神様の愛と恵みをこの世界に示す人生へと私たちは召されたのです。

この「召されること」を「召命」とも言いますが、多くのクリスチャンは召命を牧師や宣教師になる導きのことだと勘違いしています。ある人は、牧師や宣教師の働きをすることで神様の愛と恵みを示す人生へと召されますが、他の人も誰もが、その人なりの仕方で神様の愛と恵みを示すため人生へと召されているのです。

適用:本当の自分になる

皆さんにとって、神様の愛と恵みの豊かさを表す、自分なりの生き方、神様が備えてくださった「良い行い」としてなすべき働きは何でしょうか。これは日々の暮らしの中で、一日一個、何か良いことをしよう、というようなことではなく、キリストとともに生きる者とされた私たちが生涯を通して成し遂げるべき働きと言えます。若いうちにそれを見つけられたら素晴らしいですが、年を取ってからでも決して遅すぎるということはありません。当然、若い頃と年を取ってからでは出来ることに大きな違いがあるのですが、必ず、他の人たちに神の愛と恵みを表し、その素晴らしさを伝えるためのその人なりの、それぞれの年代でのやるべきことがあるのです。

1章の前半で、神様がこの救いのご計画をお立てになった目的についてみました。私たちをご自分の子として選び、傷のない者にし、キリストにあってすべてを一つに集めるために、救いの計画が立てられました。つまり、神様には私たち一人ひとりに、「こうあってほしい」というイメージが具体的にあるということです。そのイメージこそが、神様によって命を与えられ、キリストと出会って救いをいただいた者として見つけるべき本当の自分の姿です。

しかし、これが簡単には見つからないものです。ある研究者の観察によると、これはアメリカでの話しですが、大学を卒業した学生の8割が、自分の専攻した学問とまるで関係ない仕事についているそうです。日本以上に学歴社会で、学位が求められ、しかも日本よりはるかに高い授業料を払って専門分野を学んでも、それを自分の仕事に活かせないというのはなんだかもったいない話しです。でも、日本でも似たような状況じゃないでしょうか。そもそも、自分はこれをやりたいからこの学部に入る、と最初から目標を決めている人が少ないのかも知れません。北上出身の漫画家が「やりたいことが分からないなら東大に入れ」と漫画で描いていましたが、東大でなくても学ぶ機会が与えられ、自分の人生を選択する幅が少しでも増えたなら、それは決して無駄ではないと思います。そんな機会すらなかった人からすれば贅沢な話しかも知れません。

しかし、私たちの人生経験は大学などの教育だけではありません。子ども時代の経験や親や周りの世界から受けた影響、青年期の経験や学び、いろいろな人との出会い。大人になってからの経験や身につけた技術や知識、節目となる出来事。影響を受けた本や作家。楽しみとしてやってきた趣味や活動。また聖書の学びや説教から心動かされたこと。そうした経験や心の中の変化などのすべてが私という人間を作っており、神様が私たちにさせようとしている働きのヒントがあるのです。それらの経験の多くはイエス様を信じる前に経験したことかもしれませんが、「あらかじめ備えてくださいました」と書かれているように、神様は、私たちがキリストに出会って新しいいのちと新しい生き方を得た時に、本当の自分を見つけ、やりがいと使命感をもって歩めるようにと、これまでの歩みを導いて来てくださったのです。その中には悲しい出来事や様々な失敗もあったはずですが、それらも含め、私は神様の愛と恵み深さを周りの人たちに証するために、どういうやり方で取り組んだらいいかと問いかけ、じっくり振り返ってみましょう。そして、本当の自分になりたいという願いを持って歩んでいきましょう。すでに自分の道を知っているなら、確信をもってますます励みましょう。

祈り

「天の父なる神様

かつては自分自身の罪の中に死んでいた私たちをイエス様によって生きる者としてくださった神様。あなたの大きな愛と深い恵みとを心から感謝します。

新しいいのちを与えられた私たちが、キリストにあって新しい生き方をするように召され、神様の愛と恵みを表す、自分なりの働きをも神様が備えてくださったことを感謝します。

どうぞ、私たちが赦され平安を与えられたことに留まらず、神様が備えてくださった本当の自分を見出し、生きていくことができますように。そのようにして、あなたの愛と恵みを表していくことができますように。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA