2025年 3月 2日 礼拝 聖書:エペソ4:17-32
「このお城は誰が作ったのでしょう」という子供じみたひっかけ問題があります。その土地の殿様が作ったと答えると「残念でした~正解は大工さんで~す!」と返すのがお決まりです。
しかしこの子供じみたクイズには、何かを成し遂げることについての重要な考えが含まれています。何かを計画し、資金や材料を調達し、指揮する権力者と、その計画に基づいて務めを果たす技術者や労働者が働いてお城なり、ピラミッドなり、神殿なりが建てられていきます。そして名前が残るのは、人々が主人と仰いで従った王や権力者たちです。
神の家族である教会を建て上げにも同じことを問えます。イエス様が「わたしはわたしの教会を建てる」と言われましたし、エペソ書で学んできたように、これは神の救いのご計画の奥義、ずっと前から計画されてきたことです。そして、私たちは神の奥義の実現のために召され、一致を守り、それぞれ自分なりの仕え方で仕え合って、愛のうちに教会は建て上げられていきます。
私たちをイエス様に似た者に造り変えていくことも、神の家族である教会を生み出し、神の満ち満ちた様にまで成長させてくださるのも聖霊の神様なのですが、私たちにも果たすべき役割があり、そのために自分を献げていくことが求められます。エペソ書後半の教えは、そうした私たちの責任について教えています。
1.内側から新しくされ続ける
エペソ書全体のテーマは、神のご計画に基づいて教会を建て上げることなのですが、そのために召された私たちが最初に取り組まなければならないことは、自分自身が内側から新たにされ続けるということです。
17節でパウロは「主にあって厳かに勧めます」と書き出し、この勧めが、主ご自身のご計画や思いに根ざしたものであり、非常に重要な勧めだということを強調しています。
そしてこう続きます。「あなたがはたもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」。
クリスチャンは新しい心で、新しい生き方をしなければならないことを強く語っています。異邦人というのは、ユダヤ人から見た外国人という意味ではなく、この場合は、真の神を知らない人々全体を指しています。パウロは彼らの行動、生活を「むなしい心で歩んでいる」と指摘し、そのように歩んではならないと教えます。この節では、真の神を知らない人たちの具体的な行動や習慣を取り上げて問題にしているのではなく、彼らの行動が「むなしい心」によってもたらされていることを問題にしているのです。つまり、外面的な行動を生み出している心がまず変えられないといけないのです。
ところで、異邦人が「むなしい心で歩んでいる」と言うと、中には、「案外充実した人生を送っています」という人もがいるかもしれません。聖書はどういう意味で、真の神を知らない人が空しい心で歩んでいると言うのでしょうか。
それは気持ちの上で充実感があるかどうかではなく、その人のうちに真理があるか、神のいのちに満たされているか、そして善悪についての確かな感覚があるか、という点で、空しいと言っているのです。
この世界や人生、人間そのものについての見方はいろいろあります。現代ではそもそもこの世界や人生に意味なんか考えても仕方がないと考える人も多いですが、聖書はそれでも真理があると主張します。この世界を造られた神がおられ、人間を価値ある存在としてお造りになったけれど、人間は神に背を向け罪の中にある。そのような人間を救うためにキリストがおいでになり、罪を贖い、死に打ち勝ち、新しく生きるいのちを与えてくださった。そして新しく生きる人々を神の民、神の家族としてキリストに結び合わせ一つにしてくださる。いつの日かイエス様はもう一度おいでになって、この救いの物語を完成させ、待ち望んだ人々に豊かな報いを栄誉を与えてくださる。
この真理に目を向けず、心を閉ざすことは神様との交わりから遠く離れたままでいることであり、善悪について神の権威を認めないので無感覚になってしまいます。せいぜい親からすり込まれた価値観や世間体、あるいは恥ずかしさの感覚があるので自制心を働かせますが、誰も見ていなければ、さしあたって迷惑を掛ける人が目の前にいなければ何してもいいじゃないかと考えるようになります。
けれども、イエス様を信じ、真理があることを知った私たちクリスチャンは、もうそんな空しい心で生きてはいけない。新しい生き方をするために、内側から変えられていく必要があるし、そのような変化、成長、生き方を求めていくべきだと聖書は私たちに語りかけるのです。
2.行動は内にあるものから
聖書が繰り返し強調することは、行動は内にあるものから生まれるということです。
19節で「無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています」とあります。これは繰り返しになるのですが重要なポイントです。好色や不潔な行いはそれ自体罪であり、そうした行動に走るのは問題ですが、重要なポイントは、そうした罪、問題行動を引き起こす原因が、善悪や神の前に生きるということに無感覚になったためだということです。
しかし、20~21節で「あなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません」と語りかけ、私たちクリスチャンはまことの神を知り、キリストによって罪赦され、新しく生きる者として召されていることを知っているはずじゃないか、確かにそのように学んだよねと念を押します。
これは実際にエペソでパウロが教えて来たことを振り返って書いてある言葉。前にも開きましたが、使徒の働き20:31を開いてみましょう。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」とエペソの長老たちに語っています。涙とともに訓戒するということは、知的な教えではなく、偶像や魔術の虜になって生きて来た人たちの生き方を変えようとしてのことです。
エペソ書に戻ってみましょう。22節~24節で、以前の生活と新しい生活を古い服を脱ぎ捨て、新しい服を着ることに喩えて説明しています。酷い悪臭と汚れ染みついた服を着続けたら、せっかく風呂に入ってさっぱりしても、また汚れを身に纏うことになります。イエス様を信じても以前の生き方を続けていたら、私たち自身も汚れてしまいます。
服を脱ぎ捨てるということを想像してみてください。そこにははっきりとした意志、決断が必要です。今年、私の目標は「一日一捨」毎日何かを手放すということだと前にお話したと思います。なんとか続いています。それほど大事じゃないのに何となく取っておいたものや、割と気に入っていたけれど全然使わないものを毎日、どれか処分したり、サイトに出品したり、誰かにあげたりするのです。どんなに小さくても「よし、今日はこれを処分しよう」と心を決めないと出来ません。
古い生き方を捨てて新しい生き方を身につけるためにも決心が必要です。
そしてこの新しい生き方は、単に形だけ新しくするのではないことが23節からはっきり分かります。私たちの霊と心、私たちの内面から新しくされ続けることが土台です。
具体的な生活の規範は聖書です。正確なものさしを使って新しい服を仕立てるように、聖書に記された義と聖さのものさしを使って、あの創世記の人間の創造の時に描かれた、神のかたちとして造られた、という人間本来の姿をみことばによって取り戻していくのです。
これは、振る舞いだけ真似れば良い、他の兄弟姉妹が見ている時に気をつければいいという話しではなく、私たちの内側、考え方、感覚、意志、思いといったところから新たにされ続けることで、私たちの行動が変えられていくものである必要があります。
3.召しにふさわしい生き方
さて、25~32節には、古い服を脱ぎ捨て新しい服を着るように、古い生き方を捨て、新しい生き方を身につける具体的な例があげられています。
これれらは、守るべき規則や戒律のように、「ここまで守ればOK」というようなものではなく、あくまで実際の生活を想定した例です。だから、私たちは他の状況では何が古い生き方で新しい生き方はどういうものかということをちゃんと自分で考えなければなりません。しかし、こうした実例によって考えるヒントになります。
25節には偽りを捨て、真実を語るようにと教えられています。偽りは家族や教会の交わりを破壊する力があります。こういう行動の変化が必要なのは、私たちが互いにひとつのキリストのからだの一部として召されたからです。
腹を立てることは誰でもあるかもしれませんが、怒りを抱えたまま一日を終えることは良くない。それは精神衛生上よくないということよりも、悪魔に機会を与え、罪を犯す罠となるからです。経験がある人もいるでしょうが、怒りを抱えたまま何日も過ごしてしまうと、だんだん解決が難しくなっていきます。謝るタイミングを失ったり、仲直りのきっかけを掴めなくなり、怒りは小さな思い固まりになって心の底にたまっていきます。それは思いも掛けない苛立ちやまったく関係ない人に当たったり、意地悪い仕返しで復讐するようなことになります。
盗みをしている人は自分の手で働くようにと言われています。もちろん盗みは道徳的に法律的にも罪ですが、パウロが指摘するのは、「むしろ困っている人に分け与えるため」という新しい生き方に召されたのに相応しいからだと教えます。
私たちは恵みを与える者となるよう召されたのですから、悪い言葉ではなく、必要なときに人の為になる言葉を語るべきです。
私たちの心におこる無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどの悪意を捨て去るべき理由は、私たちの心に聖霊が住んでおられるからです。この聖霊は、私たちが赦され、救いが完成し、完全な姿で到来する御国にふさわいしい者と証明するために私たちに与えられているのですから、むしろ親切にし、優しい心で赦し合うべきです。何より、神様が私たちをキリストの贖いによって赦してくださった。私たちはまず赦されているから、他の人をも赦すべきなのです。
このように、すべての勧め、古い生き方を捨て去り、新しい生き方を身につけるのは、召しにふさわしい生き方を身につけるということです。
これらの例はエペソ教会でパウロが指導したときに実際にあったケースなのかもしれません。アルテミス神殿での偶像礼拝や魔術から離れようとする時に、もう捨て去った振りをして偽る人たちがいたり、盗みや怒り、悪い言葉、人に対する冷たさみたいなことが目に付いたのかもしれません。
今日の私たちには、私たちなりの課題があるはずです。その時に物差しとすべきは、イエス様によって救われ、神の子どもとなるよう召され、神の家族として召された、その召しに相応しい生き方は何かということです。その変化の出発点は、私たちの心が新しくされ続けることなのです。
適用:意志と行動
私たちを造りかえてくださるのは、神様の主権によって計画されたことであり、聖霊の力によることなのですが、私たちの側の責任としては、みことばに対する理解、主のみこころに従おうとする決意、具体的にこれは捨てこれは身につけようとする行動が必要です。それは何かを身につけようとするときにいつも私たちが経験するように、やっぱり時間をかけて、失敗を繰り返しながらも、やり続けて身につけて行くことです。
ところで、改めてこの教えをエペソ書のテーマに沿って考えてみましょう。パウロは私たちクリスチャンが個人的に成長することだけを求めているのではありませんでした。先週見た4:12では「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです」とあり、4:16では「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちの建てられることになります」とあります。
そもそも教会をキリストのからだ、神の家族と表現していることは、私たちの救いが個人の救いや、私の心が満たされることに留まらず、結び合わされた人たちとともに歩む事、その絆を守り、また育むことを含んでいるのです。
今日の箇所で取り上げられている、捨てるべき行い、身につけるべき行動を見ていくと、どれもが交わりの中で、交わりを壊すもの、交わりを強めるものと関連していることが分かります。
むしろ、私たちが自分一人だけで成長するとか完成するということはあり得ないのです。人格的に成長したり、信仰者として確かな歩みをしていくことは、家族や教会家族の一人ひとりとの関係性と分かちがたく結びついていて、交わりを抜きにした健全な成長や存在はあり得ないのです。
私は、自分が教会の牧師や神学校の校長として奉仕できているからずいぶん立派なクリスチャンになったとはまったく思っていません。例えば、子どものころは教会に来ていたのに、今は離れてしまっているきょうだいたちがもう一度福音に心を開くために何ができるかが心にあります。和解すべきだと分かっているのに、いざというときに言葉を詰まらせてしまう心の思いをどうやって乗り越えていくか何年もかけてもがいています。仕事においてどんな成果を出せたとしても、家族としての教会家族としての交わりにおける成長なしに、本当の意味での成長はないと分かっています。
家族や教会の中での具体的な奉仕や役割を見つけ、取り組むことはもちろん大事だし、私たちの生活が完全にならないと、そういう奉仕ができないというわけではないけれど、ちょうど健康に生活し仕事を続けたいと望むなら、食べ物と運動という基本を大事にする必要があるのと同じです。不健康でも生きてはいけるように、自分の心を一新し、召しにふさわしい生き方を身につけなくても、何かはやっていけるでしょうが、それはとても不健康で、しばしば悪い結果をもたらします。
そういうわけで、私たちに必要なのは、まずは私の心と行動を新たにしていこう、聖霊の力によって造りかえられるために、心を新たにしようという決意と行動です。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様にあって私たちを赦し、あなたの民、あなたの家族として召してくださり、ありがとうございます。
キリストにあって私たちを一つにするために、神の家族を建て上げ、福音を証しする生活へと招いてくださった、その召しにふさわしく生きて行けるように、私たちの霊と心を新たにし続けてください。聖霊の特別な助けなしにそれは不可能です。
しかしまた、あなたは私たちがそれを願い、決意し、行動することをも求めています。どうぞあなたのみこころに応答できますように、励まし強めてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」