2025年 3月 23日 礼拝 聖書:エペソ6:1-9
今年に入ってからエペソ書を改めて学び直しています。神様が世界の基の置かれる前から私たちを選び、聖く傷のないものにしようとキリストにあって選んでくださり、私たちの救いのためにご計画を立ててくださいました。イエス様の十字架の死と復活によって神様のご計画は実現しましたが、このご計画には奥義と呼ばれる、まだ明かされていなかった秘密がありました。それは罪と死によってバラバラに分断されていた世界をキリストにあって1つにするというものです。この世界で、その最初の実、具体的な形として主が立ててくださったのが教会です。
改めて驚かされ、考えさせられるのは、教会についての教えなのに、パウロを通して主が私たちに語る内容は、教会として何をするかというようなことではなく、教会に連なるそれぞれの家族がどうあるべきかということなのです。先週は夫婦の関係についてでしたが、今日は親子の関係について、また後半では奴隷と主人の関係についてです。何が教えられているか、じっくり見ていきましょう。
1.子どもたちへ
第一に、子どもたちが身につけなければならないこととして、両親に従うことが挙げられています。
このような教えがなされていることから、教会の中で聖書が読まれるとき、子どもたちも一緒に聞いている状況が想像されます。当然、2節にあるような「あなたの父と母を敬え」という十戒の中の4番目の戒めが、クリスチャンたちの間ですでに教えられていたということも想像できます。
「子ども」というのは、幼少期から成人するまでの、子ども時代に属する子どもです。20歳になっても60歳になっても、親から見れば子どもですが、自立すべき年代になった人たちにまで親に従いなさいと命じられているわけではありません。
ですから私個人は、この箇所を読む時、子供時代はどうだったろうかなと思い起こしたり、「自分の子育てはどうだったんだろうな」という反省も含めて読むことになります。
人が生まれてから大人になるまでの、子ども時代に学ぶべきことはたくさんあります。歩くことや話すこと、危険を見分けたり、安全な転び方を身につけたり、友だちと遊んだり、友だちとは言えない人たちと関わったり、健康を守るための習慣、自分の得意なことや苦手なことを見つけたり、ありとあらゆる経験が将来、この世界で自立した大人として生きていくための知恵と力になります。
けれども、多くの場合「父と母に従いなさい」という戒めは、十代の頃からやっかいな教えとなります。またある人たちは親の横暴な振る舞いに傷付き、素直にこの教えを聞くのがとても難しいものになっています。
それでも「主にあって自分の両親に従いなさい」「父と母を敬いなさい」と教えられているのは、「約束を伴う第一の戒め」だからだというのです。この「第一の」というのは、最も基本的な戒めだということです。そして3節の「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」は単に長寿を約束しているというより、人生の確かさや祝福を約束したものです。親に信頼し、従順であることを子ども時代に身につけることが、将来大人になったときに、家族だけでなく、より広い社会の中で安定した人間関係を築き、信仰においても情緒的にもしっかりした土台に人生を築いていく力になるからです。
最近、ライフサイクルの発達という、年代ごとの発達段階の課題や成長について研究されたものをいくつか目を通していますが、どどれも共通しているのは、子ども時代はとても大事だということ。子ども時代に親との良好な関係、親に対する信頼や安心に基づいた成長が得られた人は、生涯にわたって様々な課題に直面するとしても、うまく乗り越えていける可能性が高いことが知られています。
小さい子どもであれ、大人になりかけの青年であれ、何でも吸収し、様々な可能性をうちに秘めています。しかし、それらが豊かな実を結ぶような成長を遂げていくためには、軸が必要です。朝顔がガイドにそって成長することで素晴らしい姿になっていくように、子どもは親に信頼し、敬い従うことでより素晴らしい成長をすることが可能になります。
ということは、子どもが親を敬い従うためには、親自身のあり方が問われるということです。そこで次のポイントです。
2.親として
第二に親たちに対して4節でこう教えられています。「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」
父たちよ、と言われていますが、両親に対する教えであると理解して良いと思います。ただし神様が定めた結婚関係の秩序においては、夫が夫婦のかしらですから、子どもの養育において、父親には最終的な責任があると言えます。母親のほうが実際の世話で時間と労力を費やすケースが多いですが、父親は母親任せではいけないし、責任感をもって子どもの成長のために力を尽くすべきだということです。特に大人に向かっていく年代の時の役割は重要です。
子育てが終わった者としては、後悔したり、あのときどうするのが良かったのだろうかと考えることがたくさんありますが、それはそれとして、聖書が親たちに教える子育てにおける基本的な原則は何でしょうか。
新米のパパママのための子育てクラスに行くと、おしめの替え方やお風呂の入れ方の他、病気になったときのアドバイスをくれますが、長いスパンで見てみると、「子育てはこうやればいい」という教えは結構変わるし、時として数年前に言われていたことと真逆のことが言われたりするものです。
ですから、テクニック的なことは時代や状況によって変わっていいのですが、神様が創造された人間の成長のために親が果たすべき役割は何かという視点で考える必要があるのです。
では「子どもたちを怒らせない」とはどういう意味で「主の教育と訓戒によって育てなさい」とはどういうことでしょうか。
私たちも子どもによく言いました「言うことを聞きなさい」「それはやっちゃだめ」。親が子供に従順を求めるのは正しいことですが、時として親は自分の都合やプライドのために子どもに求めることを変えてしまったり、約束を守らないことを軽く考えてしまいます。そのようなことで子どもを苛立たせたり、苦しめると、親を信頼して従う気持ちを削いでしまいます。
ですから親も自分の都合や自分勝手な理屈ではなく、主の教えに根ざしている必要があります。ただし、これは聖書の言葉を振りかざして、親に都合良くコントロールすることであってはなりません。そのような仕方はやはり子どもを怒らせたり、気落ちさせたりすることになります。言うことを聞いても怒りが残ります。そうではなく、むしろ親としての役割やどういう方向に向かって子どもを導いていくかという基本的な立場を主の教えに根ざすように、ということです。
最終的に子どもが自分の人生をどう生きるかを決めるのに委ねなければなりませんが、親が責任を持つべき十数年の間は、この子が家族や地域、教会、この世界で自立した一人の大人の人間として立って行けるための力を与える責任があります。
しかし、日々の子育ての場面では小さい時も思春期の頃も、次から次に起こることに対処するのに精一杯で、子育てのゴールについてはあまり考える余裕がありません。それは皆が経験することです。周りの兄弟姉妹がサポートしたり励ましたりして、余裕を持てるように、肩の力が抜けるように助けたら、いくらか落ち着いて考えることができるのではないでしょうか。
3.社会の中で
さて、ここまで主の召しにふさわしく歩みなさい、という主題が具体的な教えとして展開されてきました。個々人が内側から新しくされて新しい人として生きることから始まり、夫婦関係、そして親子関係と進んで来ました。とても論理的な展開と言えます。
しかしここで、私たちにとっては意外というか、馴染みのない関係性が取り上げられます。5~9節は奴隷と主人の関係が扱われているのです。
家族というテーマになぜ奴隷の話が出るのか、また、奴隷制度を聖書的にどう理解すべきなのか、疑問が沸き起こって来ます。
聖書は決して奴隷制度を良いものとして薦めているわけではないし、現代に奴隷制度をもう一度取り入れるべきだと言っているわけではありません。ただし、旧約時代も新約聖書が書かれた時代も、社会の中には奴隷がいるのが現実であり、それについて疑う人はいませんでした。近代の米国での黒人奴隷がアフリカなどから誘拐され強制労働させられたよう形ではなく、戦争で負けた兵士や借金を払いきれなかった人が奴隷になることが多かったのですが、それはそれで酷な事ではありますが、別な見方では生きる場を失った人たちの最終的なセーフティネットという面もあったようです。
だからといって奴隷の立場が生きやすかったわけではありません。自由はかなり制限されていましたし、中には横暴な主人もいました。当然、置かれた境遇に不満を持つ人たちもいました。そういう中にあって、キリストの福音に救いを見出しクリスチャンになる人々が多かったのは不思議ではありません。
そうした奴隷たちを、普通は「所有物」として扱ったのですが、使徒たちは「家族」また「主にある兄弟姉妹」として扱うよう教えました。そのことが最もよく表れている実例はピレモン書で扱われている奴隷オネシモとその主人ピレモンでしょう。時間があるときぜひ読んでみてください。
クリスチャンになった奴隷たちに対して、パウロはキリストにあって自由にされた心を持って、キリストに従うつもりで、主人の権威を認め、上辺でなく心から喜んで仕えるようにと教えます。
そして主人たちに対しても、9節で「同じようにしなさい」と命じます。社会的に立場は違っても、主にある兄弟姉妹として、また家族の一員として扱い、脅したり、差別したりしないで、キリストに対する恐れを持って敬意をもって公平に扱うべきです。
こうした原則の教えは、奴隷制度のない現代では、職場の上司と部下の関係や権力者との関係など、様々な主従関係、上下関係に適用すべきだと、ほとんどの教会指導者が理解しています。
日本の職場環境はかなりブラックで現代の奴隷ではないかと言われることがあるほどです。それは放置していい状況ではないと思いますし、不当で理不尽なら戦ったり、逃げたりしてもいいと思います。しかし、通常の関係では、従う立場であるなら心から仕えるべきですし、上に立つ立場にあるなら従業員や部下、リーダーシップの下にある人たちに対して、家族に対するように、イエス様を恐れる者らしく敬意を持って扱うべきです。特にそうした関係がクリスチャン同士であるなら、立場や秩序は守りつつ、キリストにあって従い合うという原則を社会的な関係にまで広げることが求められています。
適用:神の家で
さて、ここまで神の家族としての教会の建て上げの中心にあるのがクリスチャン一人ひとり、そして家族の建て上げなのだということが教えられているのを見て来ました。
これらの教えを聖書全体の大きな流れの中で捕らえると、神様が何をなさろうとしているか、大まかなことが掴めるようになります。
ご存じの通り、そして前回の夫婦の関係について学んだ時にも見たように、聖書の始めに描かれていたのは、神様によって造られた世界に、最初の夫婦としてアダムとエバが登場します。彼らには祝福が約束されていましたが、蛇に誘惑されたエバが禁じられていた木の実を食べてしまい、黙って見ていた夫も勧められるまま食べてしまうというホントに些細なことでしたが、たった一つの神の命令を破り、神様に背を向けてしまいます。
罪を犯すことを知った人間は、その後、心の中に起こってくる誘惑を退けることができずに罪を重ねるようになります。その影響はすぐに息子の世代に現れ、最初の家族は弟を妬んで怒りを抱えた兄が殺してしまうという悲劇で壊れてしまいます。
創世記の続きには、人類が発展し続け、様々な技術や知識を磨いて行く様子を描いていますが、同時に道徳的にじわじわと堕落していく様子が描かれます。
その後、アブラハムから始まる神様の救いのご計画ではいつも、鍵となる家族が登場します。アブラハムを初めとする族長たち、モーセと兄弟たち、ヨシュアとその家族、ダビデの一家。神様のご計画はイスラエルの民や全人類に向けられたものですが、その実現のためにはいつも、信仰によって応答する一つの家族からことが始まります。
神様は、神の家族とされたクリスチャンとその家庭を、イエス様にあってすべてを一つとするという途方もないご計画の担い手とされます。私たちがその召しに信仰によって応答するなら、神様の恵みと祝福が私たちを通して周りの人たちに及びます。
70周年記念誌には兄弟姉妹の証しやポールさんの証しが載っていますが、その多くに、自分を誘ってくれたり、励ましてくれた教会の兄弟姉妹や家族のことが書かれています。彼らもまた、神様の召しに応えて、自分たちなりに出来る事をしようとして、私たちに声を掛けてくれたり、祈ってくれたりしたのではないでしょうか。
教会の未来、私たちに託された福音を伝えるべき世界は、私たちの目の前に拡がっています。ヨシュアが約束の地を目の前にしたとき、人々に問いかけ、そして宣言しました。「あなたがたは主の召しに応えて約束の地に向かうのか。主に信頼して従うか。自分たちで決めなさい。あなたがたがどうしようとも、私と私の家は、主に仕える。」
その宣言と問いかけは、今日の私たち一人ひとり、そして一つ一つの家族にも向けられています。
「私と私の家族も、主に信頼して仕えます。」と応え、自分の歩み、家族との関わり方、社会との関わり方を振り返り、心を新たにして歩み出しましょう。そして、主が私たちに備えていてくださる素晴らしい未来を共に喜ぶ者となりましょう。
祈り
「天の父なる神様。
教会は家族なのだということをあらためて教えてくださりありがとうございます。ただの譬えではなく、文字通り、私たち一人ひとり、その交わり、その家族の中に、キリストを主とする教会の本質が表れます。
どうぞ、その自覚を持って、そして主が私たちや私たちの家族を通して成そうとしておられることがあると信じて、主に従うことができるよう助けてください。主にあって互いを敬い従い合うことを具体的に兄弟姉妹との交わりや家族の関係、また社会とのつながりの中で実践できるように、知恵と力を与えてください。そうして、交わりの中で味わえる平和と喜びを楽しみ、感謝できますように。
主イエス様のお名前によって祈ります。」