2025-04-20 なぜ泣いているのか

2025年 4月 20日 礼拝 聖書:ヨハネ20:11-18

 今日はイースターということで、主イエス・キリストが十字架による死から三日目によみがえられたことを覚え、お祝いする日です。今年も、お祝いのためにイースタークッキーを用意しましたので、ぜひ家族やお友だちへのプレゼントとして利用し、あかしの機会としてください。またイースターエッグにちなんで「かもめのたまご」を頂きましたので、こちらも楽しんでください。

しかし聖書を読んでみると、イエス様がよみがった朝は決して楽しく喜ばしい雰囲気ではありませんでした。むしろ何が起こっているのか理解できず、当惑した弟子たちの様子が目に付きます。直接、復活されたイエス様と会った時も、喜んでいる様子もありますが、どうも理解しきれず、信じ切れずに戸惑う姿が印象的です。少しずつ、確信を得ていったようです。そして、今日登場するマグダラのマリアなどは、涙に暮れています。

喜びとはほど遠い、復活の朝の嘆きはどのようにして喜びへと変わっていったのでしょうか。

1.私には分かりません

私たちは、自分が見ていること、経験していることが何なのか分からず、困惑し、時には涙します。マグダラのマリアもそうでした。「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに」マグダラのマリアは墓にやってきました。実際には一緒に行った人たちもいるのですが、福音書を書いたヨハネは、マグダラのマリアにスポットを当てて記しています。

ユダヤ人は安息日である土曜日は、ほんのご近所以上の距離を歩くことも含め、一切の労働が禁じられていましたので、十字架で死なれたイエス様の遺体は、安息日が始まる金曜の夕方ぎりぎりに大急ぎで埋葬されました。安息日は土曜日の日没で終わるのですが、もう夜ですから何もできず、日曜の朝になってようやく、お墓にいくことができたのです。だから、夜明け前の朝早い時間にマリアは墓に向かいました。

前のページの19:38を見ると、イエス様が息を引き取った後、イエス様の弟子の一人でエルサレム在住のアリマタヤのヨセフという裕福な男性が自分のために用意しておいたお墓を提供し埋葬されたことが分かります。彼のような裕福な人の墓は、岩をくりぬいて何部屋か遺体を納める場所があるような墓で、入り口は大きな石で塞ぐ構造になっています。その蓋石は女性の力では動かせるようなものではありませんでしたが、マリアが行ってみると石が取りのけられており、中に安置されたはずのイエス様の遺体がありません。マリアは戻ってペテロと「イエスが愛されたもう一人の弟子」これはヨハネのことですが、ペテロとヨハネに「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」と訴えます。マリアは完全の状況を間違って捉えていますが、まったく理解できていなかったので、ただオロオロするばかりでした。

ペテロとヨハネはさっそく墓を確認しに行きました。ヨハネのほうがだいぶ若くて、足が速かったのか、先に到着し、外から中を覗き込み、確かに遺体を包んでいたはずの亜麻布だけが見えました。ペテロが到着してから一緒に中に入ると、あらためてイエス様のからだがなく、包んでいた亜麻布だけが置かれていること、そして頭を包んでいた布は少し離れた場所に丸めて置いてあるのを見つけました。8節で「そして見て、信じた」とありますが、ここではイエス様の復活を信じたのではなく、イエス様の体が墓になかったというマリアの言葉を信じたということです。9節にあるように、彼らもまたイエス様の復活を理解していなかったのです。

二人が仲間のところに戻ったあと、マリアは墓の外でたたずんで泣いていました。マリアにとっては、たとえ死なれたとしても大切なイエス様の体が盗まれてしまったのかもしれないという恐れ、あるいは死んでもなおイエス様を利用しようとしたり貶めようとする人がいるのかもしれないという悲しみがあったかもしれません。イエス様がすでによみがえっておられることを知らないマリアは泣くしかありませんでした。

神様の素晴らしい御わざがなされているのに、気付いていないために、目の前の出来事に心が捕らわれ、泣いたり、怒ったり、恐れたりと自分の感情に支配され、ますます神様の恵みも御わざが見えなくなってしまうことを私も何度か経験しています。

2.なぜ泣いているのか

そこに「なぜ泣いているのか」と問いかける二人の御使いが登場します。

マリアは泣きながらもう一度墓の中をのぞき込みました。いないのは分かっているし、亜麻布だけが置かれているのも何度も確認したけれど、「もしかしたら」という期待というほど強い望みではないけれど、諦めたくないマリアの気持ちが伝わってくるようです。

ところが誰もいなかった墓の中に二人の人影がありました。彼らは白い衣を着た御使いであり、イエス様の体があったはずの場所で、一人は頭のほうに、もう一人は足のほうに、ちょうど亜麻布を真ん中に挟むようにして腰かけていました。二人の御使いに目が向いたあと、自然と真ん中の空間、イエス様の体があったはずの場所に亜麻布だけがあることに目が向きます。

「本当はイエス様に何があったのか」。そんな問いがマリアの心に浮かんだかどうかは分かりませんが、それを考えさせる問いが御使いから発せられました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」

字面だけ見れば、お墓で泣いている人に対してこれ以上とんちんかんな質問はない、というくらい間抜けな質問です。マリアは2節でペテロたちに語ったのとほとんど同じ答えを返しました。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」

ペテロに語ったときは、イエス様の体が墓から無くなっていることへの驚きと悲しみを訴えていましたが、今、御使いに対して語っている言葉からは「私の主」を誰かが取って行ったことへの悲しみが強調されています。

マグダラのマリアはかつて7つの悪霊に取り憑かれ、苦しんでいましたが、イエス様によって助けていただきました。彼女は同じようにイエス様にいやしていただいた女たちとともに、割と早い段階からイエス様と弟子たちの旅をサポートしていました。それはイエス様を通して受けた大きな恵みへの返しきれない感謝の思いから出たものでしょう。その思いを十分に表し切れていないのに目の前で十字架に磔にされて殺されてしまったのです。せめて自分の手でその遺体を丁寧に埋葬したい、金曜日の夕方はバタバタしてできなかったぶんをやってあげたかったのでしょう。それが「私の主」を誰かが取って行ったという言い方になったのではないかと思いますし、彼女の涙の大きな理由だったのではないでしょうか。

ふと、マリアは後ろに人の気配を感じたのか、振り返ってみました。墓穴の中から外を見るかたちになるので、顔が陰になっていてよく見えなかったというのもあるでしょうが、恐らく何より、そんなことを考えてもみなかったので、そこに立っておられるのがイエス様だということが分かりませんでした。イエス様も御使いと同じことを訪ねました。「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」

御使いとイエス様の問いかけは、泣いているマリアに理由を尋ねているのではなく、落ち着いて考えるよう促すためでした。イエス様の復活については9節にあるように、復活についてはすでに聖書から教えられていたのに、それをイエス様と結びつけることができずにいたのです。マリアは墓のある園の管理人だと思って、どこに遺体を移したのか知っていたら教えて欲しいと頼みます。

3.私は主を見た

ヒントはたくさん示されたのに、マリアは涙で目が曇っていたように、心も閉じていて目の前にいる、よみがえられたイエス様が見えていませんでした。

私たちもそういうことがあります。悲しみだけでなく、怒りや恐れが目を曇らせ、そばにいて見方になっていてくださるイエス様の存在や、すでに与えられているたくさんの恵みや奇跡がまるで見えていないことがあるのです。

そこでイエス様はマリアにもう一度語りかけます。福音書の中でも最も美しい場面の一つだと思います。イエス様は「マリア」と名前を呼びました。庭の管理人が名前を知っているはずがありません。冷静になって聞いてみれば、それは聞き馴染みのある声であり、いつもマリアに語りかけるときの口調でした。すぐに、その声の主がイエス様であることが分かったマリアは「先生」と応えました。それもまた、マリアがイエス様に語りかける時の呼び方だったことでしょう。もうこの一瞬で、マリアはイエス様が死からよみがえったことを信じていました。聖書の預言が何と言っていたかとか、その預言とイエス様とがどうつながるとか、この時点でそこまで思い至ったかは分かりませんが、生きておられることは確かな事実として受け入れたのです。

しかしイエス様は17節でちょっと突き放すような言い方をなさいます。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです」。このイエス様のことばは何を意味しているのか、様々な解釈があり、議論があります。私はシンプルに捉えるのが良いと考えています。「私の主」とまで言っていたマリアですから、イエス様が生きているのが分かったら、すがりつくようにして喜んだのだろうと思います。しかし、イエス様のやるべき事はまだ完了していません。週報の裏に使徒信条がありますが、イエス様の働きは、よみがえったあと、神の右の座に着くことで、一先ず完了します。だからまだ喜ぶのは早い、という意味と、「私の主が帰って来た」と個人的な喜びで満足してしまいかねないマリアに、喜んでいる場合ではなく、あなたに託したいことがあるのだと語っておられるのです。

イエス様は弟子たちへの伝言を託しました。ちょっと分かりにくい言葉が17節でマリアに託されました。

イエス様にとって父なる神様はもとから父である方ですが、今やイエス様の十字架の死と復活によって、信じる者の父ともなられました。神様は私たち人間にとってもとから神ですが、十字架の死のあと、人として死なれたイエス様はその復活を父なる神様の力に完全に拠り頼まなければなりませんでした。そういう意味で、イエス様にとっても神であると言えるようになりました。つまり、キリストによる救いが完成したことで、イエス様を中心に、父なる神様と人間の関係が完全に変わったことを伝えるように、という意味のことをおっしゃっているのです。

なかなかピンと来ない言葉ですが、それがどれほど大きなことか、後々弟子たちは理解していくことになります。マリアは急いで戻って行ってイエス様の伝言を伝えましたが、しかし、何よりマリアが仲間たちに伝えたかったことは「私は主を見ました」生きておられる主にお会いしました、ということでした。適用:涙は喜びに

マリアの言葉は、最も短い福音宣教の言葉です。イエス様が復活の後、弟子たちに託した務めは、復活の証人となり、福音を宣べ伝えることでしたが、その証をもっとも凝縮させると、イエス様は生きておられる、ということになるのです。

この事実が、マリアの涙を喜びに変えました。

「時薬(ときぐすり)」なんて言い方があるように私たちが、人生の中で経験する様々な悲しみ、痛み、涙、嘆きは、多くのものが、時間を経ることで薄れ、和らいでいきます。しかし、癒えた悲しみや和らいだ痛みが、そのまま喜びに転じるわけではありません。マイナスだった感情がゼロに戻ったとしても、プラスになっていくためには、何か外から喜びの種がもたらされる必要があるのです。

あるお葬式の場面を思い出します。悲しみの中に家族や親戚、親しい友人が集まっているときに、親戚の中にまぎれていた小さな子どもの何気ないひと言や、可愛らしい振る舞いに、ふっと場が和らぎ、つかの間笑顔が取り戻されました。幼い子どもの姿には、次の世代に受け継がれた命が感じられ希望があるからです。

これがもし、小さな子どもがいない同世代の人たちだけが集まっていたら、思い出話に笑いが起こることはあっても、喜びや希望を思い出させることはなかなかありません。「おれももうすぐかなあ」なんて言葉に皆笑うかも知れませんが、その笑いは喜びとは別のものです。

イエス様の復活は、人間の悲しみや憂い、不安、恐れ、痛みを癒やし、喜びへと変える、究極的な希望です。

私たちにとって死はもっとも大きな悲しみ、喪失をもたらすものですが、イエス様がよみがえられたことで、死が終わりではないことを約束したイエス様の言葉が私たちの希望となりました。

私たちは人生の中で様々な悲しみ、痛みを味わい、時に他人から、また社会から受ける苦しみに悩みます。しかしイエス様が死からよみがえってくださったことで、すべての労苦に報いるというイエス様の約束が私たちの希望となりました。

私たちは罪赦され、神の子どもとされ、イエス様の弟子として歩みたいと願いましたが、その歩みは遅く、時々前に進むのが難しくなりますが、イエス様がよみがえってくださったことで、神の力が私たちに与えられるという言葉、しかもイエス様をよみがえらせた神の力が与えられるという約束を頼りに何度でもやり直すことができます。

私たちが「イエス様を信じる」と告白するとき、最も重要な確信は、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたこととともに、よみがえられ、生きておられるという確信です。イエス様が死からよみがえって生きておられるという確信がなかったら、イエス様によって新しい人生を歩むということも、たとえこの世にあって報われることがなくても忠実に歩むなんて、結局は自分の力や努力で頑張れる人が言うだけのこと、あるいは出来ないくせにできる振りをする偽善的なものになってしまいます。いやそもそもイエス様を私の救い主、私の神と信じることも、まったく無意味で、ただ表面的にクリスチャンっぽいというだけの空疎な信仰です。

「私は主にお会いしました」「イエス様は生きておられます」という告白は、福音の証の基本であるだけでなく、私たちの信仰、私たちの希望、私たちの力の源なのです。

イエス様が生きておられる私たちの救い主であることを確信し、その知らせが託されていることをもう一度覚えて、このイースターをお祝いしましょう。

祈り

「イースターの朝に、今一度、よみがえられた主が今も生きておられ、私たちに命と喜び、慰めと力を与えてくださることを心から感謝し、その御名を賛美いたします。

イエス様がよみがえられ、今も生きてもられることは私たちの望みです。救いが確かなものであり、希望は言葉だけでなく、私たちの力です。

どうかあなたの前にいる一人ひとりが、私もイエス様に会った、イエス様は生きておられると告白し、確信できますようにお導きください。マリアのように何かが心の目を曇らせているなら、取り除いてくださり、私の名前を呼んで心を開いてくださいますように。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」」

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