2025-05-04 選ぶべき道を知ったなら

2025年 5月 4日 礼拝 聖書:ヨシュア記2:1-24

 今年度は月初めの礼拝で、年間主題に沿って、聖書の中で様々な形で用いられた人物に焦点を当てて、「一人ひとりが恵みの器」だということについて学んでいきたいと思います。

今日は「遊女ラハブ」として知られている、古代の城塞都市、エリコに暮らしていた女性に注目します。ラハブは自分が選ぶべき道を知った時、それが同胞への裏切り、王への不忠義と見られると分かっていても、その道を進みました。

私たちは、それぞれの歩みの中で、この道に進むべきだなと分かっていても、恐れることがあります。何が正しい選択か分かっていても、迷いが生じることがあります。

ラハブはいかにして進むべき道を知り、そして進むことができたのでしょうか。そして、選んだ道の先に何があったのでしょうか。私たちが神を信頼して、進む時にどんなことが起こり得るのか、どのような恵みの器として用いられ得るのか、今日はご一緒に考えてみましょう。

1.ラハブの信仰

はじめに、ラハブの信仰がどんなものだったのかを見ていきましょう。

ラハブの信仰は、エリコの人々と一緒に滅びたくはない、助かりたいという動機がきっかけでした。ヘブル11:31には、ラハブの信仰について簡潔にこのようにまとめられています。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。」

さきほどお読みしたとおり、モーセの後継者としてイスラエルを率い始めたヨシュアは二人の若者を偵察としてエリコに遣わしました。二人はエリコの町に潜り込むと、ラハブという遊女の家に泊まりました。

ヨシュア2:15によれば、ラハブの家は城壁に建て込まれていたことが分かります。こうした場所に生活しなければならなかったことは遊女の立場の弱さを表していると考えられています。というのも、城壁は町の中心部から離れた地区であり、敵が攻めて来た時に真っ先に危険に陥る場所です。家自体が攻撃にさらされる町を守るための城壁の一部なのですから、危険ですが、安く住める場所だったのです。窓の外はすぐ町の外です。

よそ者が遊女の家に泊まっているという話しはすぐに町の中央に暮らす王の耳に入りました。2節で告げ口した人は、何か褒美をもらえるかと期待したのかも知れません。スパイ潜入を知った王は潜入したイスラエル人を差し出すよう求めました。

ところがラハブは「彼らはもう出て行った」と嘘をついて二人をかくまったのです。そして王の使いが去った後、屋上に隠れていた二人の若者のもとへいくと9~13節で彼らをかくまった理由を告げ、助けて欲しいと取引を申し出ます。

ラハブは、荒野を旅して来たイスラエルがどんな旅をして来たか知っていました。そして彼らの神、主が行く先々で勝利を与えて来たため、方々で恐怖の的となっていることを耳にしていました。特に、ヨルダン川の東側にあったアモリ人を滅ぼしてしまったことは、大変な恐怖をもたらしました。10節に「アモリ人…を聖絶した」という言い方が出て来ます。この「聖絶」という言葉には道徳的に腐敗し、子どもを偶像にいけにえとして献げるような邪悪さを正そうとしない人々への裁きという面があったことを示しています。その点ではエリコの町もその繁栄と背中合わせで不道徳で堕落した面がありましたから、待ち受ける滅びから逃れたいというのは、決して自分勝手な動機とは言えません。

ラハブは、エリコの町とともに滅びるより、たとえこれまで敵であったとしても、生きておられる神、力ある神の助けを求めたいと願ったのです。それは見方によれば、自分と家族の命が惜しくなって、王や同胞を裏切り敵に寝返っただけに見えるかも知れませんが、別な見方をすれば、人間の王よりも、生きておられる神のほうが信頼できると判断し、信じたと言えます。

恐れや助かりたいという動機がきっかけであっても、ラハブは二人の若者に、11節で「あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです」と、はっきりまことの神として信じ、認め、恐れていると、信仰の告白をしているのです。

2.兵士たちの誓い

第二に、主に助けを求め、若い兵士たちに保護を求めたラハブに、二人は保護を約束し、その約束は果たされます。

ラハブの求めに応じて14節で二人は自分のいのちにかけて誓い、ラハブが自分たちのことを密告したりしないなら、主がエリコを滅ぼされるときに、約束を果たし「誠意と真実を尽くそう」と応えました。それからラハブは自分の家、城壁に建て込まれた家の窓から城壁の外へと二人を吊り降ろして逃がしました。ラハブは逃げ道についてもアドバイスし、二人は重ねてお互いに約束を守ることについて念を押し、それから18節で自分たちを吊りおろした窓の枠に赤い紐を結びつけておくように、そして自分の家族を家に集めて置くようにと告げました。

古い西部劇に出て来る黄色いスカーフや、それを真似した日本の映画に黄色いハンカチを結んでおく、というのがありましたが、約束の赤い紐です。赤い紐は目立つから、ということもあったでしょうが、私は、イスラエルの民が過越の祭のときに家の入り口に小羊の血を塗る習慣からヒントを得たのではないかと考えています。エジプトですべての家の長子の男の子が死ぬという災いがくだったとき、家の入り口に子羊の血を塗っていた家には災いが及ばず、過ぎ越していったことを記念する祭です。城壁に赤い紐をくくりつけた窓のある家にいる人々は保護し、救出されるのです。目印として目立つだけでなく、象徴的な意味があったように思われます。

それはともかく、エリコ攻略の話しは結構長く続いていて、6章の終わりまで続きます。ようやく6:22でヨシュアは二人の兵士に言います。「あの遊女の家に行き、あなたがたが彼女に誓ったとおり、その女とその女に連なるすべての者を連れ出しなさい。」

前後の箇所を読むと、とても凄惨な光景が描かれ、聖書に、神の命令によってこのようなことが行われたことにショックを覚える人もいるのではないかと思います。確かに、道徳的にも宗教的にもひどい状態だったのかも知れませんが、なぜ、神はこのような仕方でエリコを滅ぼされたのかと思うのも当たり前の感覚かも知れません。少なくとも幾つかのことは言えると思います。まず、罪に対する裁きは現実のものであり、厳しいものだということ。2つ目は、他の民族の戦い方と比べればかなり秩序だって行われ、兵士たちが略奪して財産を自分のものにしたり、女性をレイプするようなことは明確に禁じられていました。そして3つ目に、戦争はこの後も何度も繰り返されていきますが、自分たちの戦いを勝手に神の裁きだ、聖戦だと言うことは許されませんでした。それでも、実際の戦争ですから、非常に過酷で徹底的に行われました。

そんな過酷な状況の中で、窓枠に赤い紐の目印があった家にいたラハブとその一族は、あのとき約束した若者たちによって救出されました。ラハブたちは、イスラエル人からすると異邦人でしたので、扱いが決まるまでは宿営の外に留め置かれていましたが、やがて彼らはイスラエルの民に受け入れられていきます。

ラハブの信仰は彼女自身を救っただけでなく、彼女の家族や、彼女の言葉を信じて部屋に集まっていたすべての人々をも滅びから救い出されたことになります。ヘブル書で言われていたように「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずに」済んだのです。

3.救いのご計画の中心

しかし、聖書にラハブのことが取り上げられているのは、滅びから救われたハラハラ、ドキドキするような面白いエピソードだったからではありません。この記憶に残りやすい物語の中で示されているラハブの選択が、神様の救いのご計画の前進と深く関わっているから取り上げられているのです。

大きく二つのことが言えます。第一に、ラハブは遊女という出自であり、なおかつ異邦人であったのに、後に来られるイエス・キリストへの血筋をつなぐ存在となりました。第二に、異邦人であるラハブがイスラエルの民に加えられたことは、異邦人の信仰もちゃんと受け入れられ、キリストによってもたらされる救いがユダヤ人だけでなく異邦人にももたらされることを指し示すことになります。

マタイの福音書1章を開いてみましょう。あんまり好きな人はいないかもしれませんが、聖書の中での系図はかなり重要です。分かりやすくするために、そしてたぶん覚えやすくするために、14代刻みでまとめられています。この系図は、映画の最後に関わった全ての人が延々と流れるエンドロールのようなものだと私は思っていて、むしろ興味深く見ています。

アブラハムに約束された神の契約、神の救いのご計画がどのように実現してキリストに至ったかが、系図を通して表されている箇所です。ラハブの名前が出てくるのは5節です。古代イスラエルでは男性の名前で系図を記すのが普通です。しかし、アブラハムからイエス様に至る系図には、ラハブ以外にもところどこに女性の名前が出て来るのです。3節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻です。ウリヤの妻はバテ・シェバです。もちろんイエス様の母としてマリアの名前も16節には出て来ます。

重要なのは、旧約時代のタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻はバテシェバのことです。これらの女性たちは、正統なユダヤ教徒たちからするとあまり名前を挙げたくない、曰く付きの人たちでした。タマルは遊女の振りをしてユダをだまして息子を身籠もりました。ラハブとルツは滅ぼされるはずだった異邦人の女性です。そして「ウリヤの妻」とあえて書いているようにバテシェバはもともとダビデの妻ではありませんでしたが、ダビデ王が彼女を我が物とし、ウリヤを戦場で戦士するように仕向けて殺し、後に妻とした女性です。そうしたことが正直に旧約聖書には記されています。それでも異邦人だったり、遊女だったり、姦淫の罪に巻き込まれたような女性たちが神の救いのご計画の実現のために用いられたのです。

福音書を記したマタイは、イエス様が男性だけでなく、ユダヤ人だけでなく、潔白な人たちだけでなく、女性、異邦人、罪ある人たちの救い主であること、彼らの信仰が時として自分が助かりたいというよな動機がきっかけだったとしても、それでも神を信頼し依り頼む時に救いと恵みを得て来たということを、彼女たちの物語から読み取っていたのです。彼女たちは、それぞれの状況の中で精一杯生きただけだったかもしれません。ラハブも、自分と家族がエリコの町とともに滅びるかもしれないという状況の中で、恐ろしかったイスラエルの民が信じる神こそ本物の神だと信じ、助けを求めたから、神様は進むべき道を示し、彼女はその道を辿っていくことで自分や家族が助けられただけでなく、思いがけないかたちで神の大きなご計画で重要な役割を果たすことになったのです。

適用:私の選ぶべき道

さて、今日は遊女ラハブの物語と、神様のご計画の中でいかに用いられたかということをざっくりと見て来ましたが、私たちは彼女の信仰を通して何を学ぶことができるでしょうか。

私がラハブの信仰や聖書全体の中での扱いから教えられたことは、選ぶべき道を知ったなら、神を信頼してその道を進みなさい。そうすれば、神様はあなたに最善をなすだけでなく、思いもよらない仕方で神様のみわざのために用いられる、ということです。

今月のみことばとして取り上げた詩篇25篇12節を開いて見ましょう。

「主を恐れる人は だれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。」

この詩を書いたダビデはラハブから見たら玄孫、つまり、孫の孫にあたります。

この詩篇のなかでダビデは自分の罪のために思い悩み、主に赦しを求めています。そのような者に主は選ぶべき道を教えてくださると、自分の経験を通して語っているのですが、次の節で「その人のたましいは、幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ぐ」と、選ぶべき道を知って従う者に訪れる幸せと、子孫にまでいたる祝福を歌っています。

ダビデはこの詩を個人的なものではなく、イスラエルの民全体の祈りとして祈って歌っていますが、ダビデ個人もまた、ハラブが主を恐れ、選ぶべき道を示された時に、信じて従ったことで受け継がれた祝福の中にいたのです。

そんなことになろうとはラハブは思っても見なかったことでしょう。彼女は生き延びることに必死で、エリコの王よりも、生けるまことの神の手の中で生きることを選びました。神様が生きておられ、力ある方である神であることを知った時、心を閉ざすのではなく、この方にへりくだることにしたので、神様は選ぶべき道を示し、イスラエルの若い兵士たちと出会わせてくだいました。すぐにエリコの王による横やりが入りましたが、そこで恐れやプレッシャーに屈することなく主が示された道を歩み続けたので彼女はいのちを得ただけでなく、神のみわざのために大いに用いられました。

この信仰的な原則は、言い方を変えながら聖書の中で繰り返されているものですし、当然、全く時代も状況も異なる現代の私たちにも当てはまるものです。

選ぶべき道を知りたい理由は、ラハブのように恐れからかもしれませんが、それでも神様を信頼し、従おうとするならきっと主は道を教えてくださいます。

先週、神学校のクラスでそれぞれ自分の人生を振り返って表に書くという課題を出して、自分も書きましたが、学んでいる皆さんがそれぞれ書いて来てくださいました。教会で牧師をしている方々なのですが、やはりそれぞれの人生の中でどうして良いか分からず、悩みもがいた時期というのがありました。それも一だけでなく何度もあったり、これが行くべき道だと分かるまで数年かかることもあるのですが、必ず神様が進むべき道を示してくださり、その道を進んで大きな喜びを経験しています。それが個人の喜びに留まらず、誰かの励ましや福音の前進のために用いられたりするのです。

これから先、神様が進むべき道を示してくださることがあるなら、ぜひ、小さなことでも大きなことでも、神様に信頼しましょう。エリコの王のように、こっちに従えというプレッシャーや誘惑が別のところからやって来ても、私たちが信頼し、従うのはイエス様だけだということを思い出して、選ぶべき道を選んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは生きておられるまことの神様に信頼しています。

イエス様がみことばと聖霊によって私たちの救い主であり、私たちの生き方、選ぶべき道を教えてくださいます。そしてあなたは、あなたに信頼する者に幸いを与えるだけでなく、あなたの御わざのためにお用いくださいます。

私たちが選ぶべき道を知った時、迷わず選び取ることができるように助けていてください。特に、今、選ぶべき道を知りたいと願っている者には、その道をお示しくださり、進んでいく勇気もお与えくださいますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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