2025-06-08 助け主なる方

2025年 6月 8日 礼拝 聖書:ヨハネ14:15-19

 今日はキリスト教のカレンダーによれば「ペンテコステ」です。ユダヤ教で「五旬節」と呼ばれている祭にあたりますが、イエス様が十字架で死なれ、復活された過越の祭から50日目にあたるこの日、イエス様が約束された聖霊がくだり、聖霊に満たされた弟子たちによって福音が世界に向かって語られ始め、教会が誕生したことを記念する日です。

ペンテコステは教会が誕生した日、と言われますが、その意味するところは会議を開いて教会を設立しようと決めたとか、ローマ帝国の承認を得られたとか、そういう組織としてのかたちの話しではなく、聖霊に力をいただいた弟子たちが福音を語り始めたということです。置かれた場所にあって福音を語り続けるのが教会のいのちです。その力を与えるのが聖霊なのですが、今日の箇所でイエス様は聖霊のもう一つの役割について語っておられるようです。

どういうことでしょうか。一緒に見ていきましょう。

1.イエスを愛し従うこと

今日開いている箇所は、13章から始まる、最後の晩餐での一場面で、イエス様の「告別説教」とも呼ばれています。これから十字架で死なれ、よみがえり、その後天に上げられて、福音の務めが弟子たちに委ねられていくのですが、残された僅かな時間で、まだ良く分かっていない弟子たちを教え、備えさせるために語られた言葉の数々が記されています。そして、これらはもちろん、その後の全ての教会に対して、天に上げられたイエス様がもう一度お帰りになるまで、何を大切にし、どのように生き、教会は何をすべきかに集中させるためにヨハネが福音書に記したのです。

さて、今日の箇所の冒頭でイエス様は「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と言われます。

DV男が「俺を愛しているなら、俺に従え」と言うのとどう違うのでしょうか。また、イエス様の教えを知りつつも、それを十分に実行できていないと感じがちな私たちの現実とのギャップをどう理解したらいいのでしょうか。実際のところ、イエス様はどういう意味でおっしゃっているのでしょうか。

まず、DV男が言う場合は「自分に従うことで愛を証明しろ」ということだと思うのですが、イエス様が言っているのは、もちろん、そういう意味ではありません。15節と同じような言い方をしているのがヨハネの福音書や手紙の中に何度か出てきますが、いずれもイエス様に対する愛、神様に対する愛は、神様の教えに従うという行動に表れるはずだという意図で言われています。

これは、相手を大切に思うなら、相手の願いをも大切にするという、人間の当たり前の心理に通じることです。

私にはひとり妻がいますが、何年も前からウクレレをやりたいと言っていました。その願いを知っているので、楽器をプレゼントしていただいて弾き始めた時は応援しました。私は弾けないので教えることはできませんが、好きな曲の楽譜を探してはプリントしてあげたりと、頼まれてもいないのにやってあげたりします。

愛するならば、相手の願いや相手の大切なことを叶えるために努力することや時間やお金を使うことは喜びです。

イエス様の戒めとは何でしょうか。イエス様は、神の命令は、心から神を愛し、隣人を愛しなさいという命令に要約することができると言われました。そしてイエス様自身が新しい命令として与えたことは、互いに愛し合いなさいということと、福音を宣べ伝えあらゆる人々を弟子としなさい、ということです。

神を愛し、隣人を愛し、クリスチャン同士が兄弟姉妹として互いに愛し合い、この世にある人々に福音を述べた伝えること。これらがイエス様の戒めの大きな柱です。イエス様を愛する者は、愛をそのような行動、働きとして表して欲しい、特に、イエス様が天に上げられたあとの教会に、大事なこととして委ねたのです。

クリスチャン生活は目の前の守るべき命令のチェックリストに眉をひそめながらイエス様のほうは全然見ていないような生活ではありません。イエス様のほうを見ながら、その愛ゆえに、イエス様の喜ぶ顔を見るのが自分も嬉しくて、イエス様の教えを大切に守って生きようとする人生です。チェックリストに×印がたくさんつくのを見て顔をしかめるのではなく、慈しみ深い眼差しで見ていてくださるイエス様の赦しと恵みに安心しながら前に進みます。

2.真理に導く聖霊

しかしながら、私たちが絶えずイエス様のほうを見ながら、その愛の中を安心して歩んでいくためには、自分の力だけではどうにもなりません。

そこでイエス様は16節で続けてこう言われます。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

この助け主とは17節にあるように、私たちを真理へと導いてくださる「御霊」つまり聖霊なる神様です。

ここでイエス様は、ご自分のことを「わたし」と言い、私たちに与えてくださる方を御霊とか助け主と呼んでいます。そしてお願いする相手は「父」と呼んでいます。聖書が私たちに示している神様は、この父である方、イエス様、そして聖霊である方が、それぞれの役割と心をお持ちでありながら、三人の神様がいるわけではなくこの三者が一体となって一人の神様だという、不思議な存在として描いています。

三位一体という言葉を聞いたことがあるかもしれません。いろいろな場面で用いられる用語ですが、もともとは聖書の神様のあり方を表す用語として発明されました。なかなか頭では理解しきれない面がありますが、こんなふうに考えてみましょう。

聖書が教える神とは、この世界のすべてを創造され、私たちにいのちを与えたただ一人の神様がおられるのです。しかしこのただお一人の神様は孤独な存在ではなく、一人の神のうちに父、子、聖霊の永遠の愛の交わりがある方です。

イエス様が17節で言っておられることは、その三位一体の神様が全力で私たちをサポートするよ、ということです。なぜなら、イエス様はこの告別説教の後、捕らえられ十字架で殺されます。三日目によみがえりますが、その後、天に挙げられてイエス様がはじめた働きは残された弟子たちに委ねられます。

まるで上司がまるで知識も経験のない部下を大急ぎで教育し、仕事内容と目標を示した後で「じゃあ帰って来るまでお願いね」というような感じです。残された者は当然不安になります。しかしそんな上司の分身とも言えるような、すべてを分かっている協力者が代わりに遣わされたら、大きな励まし、安心になることでしょう。

聖霊はイエス様が天に帰られ、もう一度地上においでになるまでの間、私たちを助ける方、真理に導く方として私たちとともにいてくださいます。

ではこの「真理」とは何でしょうか。真理に導くとはどういうことでしょうか。ヨハネの福音書の中で「真理」は重要なキーワードです。14:6でイエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言っておられます。またヨハネの手紙第一3:18~19を見てみましょう。口先だけでない真実な愛を私たちが実践することで、私たちが真理に属していることを確信でき、神の前で安心できると言われています。つまり聖霊は、単なる情報としての真理や論理的な正確さを与えるのではなく、私たちの心と生活を真理であるイエス様の方に向かせ、口先だけでない真実な愛をもって神を愛し、人を愛することができるように助けます。そうして、私たちが主とともにあることを確信させてくれるのです。

3.主とともにある人生

私たちとともにいてくださる聖霊の助けによって、私たちは目では見ていないけれども生きておられるイエス様とともにあること、私たちを愛し私たちの救いのためにイエス様を与えてくださった父なる神様とともにある人生の道のりを辿っていくことができます。

だからイエス様は最後に18節で「あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」と約束し、19節で「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります、しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」と言われます。

弟子たちがイエス様のことばに込められた愛を深く知り、約束されたことが真実であることを知るのは後のことです。食事の後、弟子たちはイエス様が無力捉えられ、裁判にかけられ、鞭で打たれ、侮辱され、十字架にはりつけにされるのを目の当たりにします。弟子たちは羊飼いを失った羊の群が狼に囲まれたように、恐れ惑い、逃げだします。イエス様の様子が気になって後をつける弟子もいましたが、彼らの心を占めたのは「自分たちも捕らえられるのではないか」という恐れ。そしてこれからどうしたら良いか分からないという不安。そして、イエス様がキリストであるはずなのに、なぜこんな死に方をしてしまうのか、神の約束はどうなってしまうのか、という混乱です。しかし、やがて彼らはよみがえられたイエス様とお会いし、イエス様が天に上げられた後、一人ひとりのうちにくだった聖霊によって、主とともに生きていると確信することになります。

イエス様のことばを信じない人にとっては、イエス様が復活したことも、生きておられることも信じられないこと、荒唐無稽なことかもしれません。しかしイエス様を信じる人たちのうちには聖霊の助けがあります。聖霊は単に理解力や知識を与えるだけではなく、イエス様のいのちに私たちを導いてくださるのです。

さらに続きの20~21節を見ると、確かにイエス様がイエス様が私たちのうちにいてくださることが分かるようになるだろう、そして父なる神様との交わり、愛を私たちに現してくださるとおっしゃっています。

つまり、イエス様は助け主なる聖霊の力によって私たちを導き、父、子、聖霊の永遠の愛の交わりの中に私たちを招いてくださるのです。それは私たちにとってどんな意味合いがあるのでしょうか。

この地上での私たちの行動は不完全で、イエス様の教えを完璧に守ることはできないかもしれません。しかし、イエス様に対する愛によって生きることができます。

この地上での私たちのいのちには限りがあり、どんな人の人生にもいつかは終わりが来ます。しかし、イエス様のいのちによって私たちは復活の望みがあり、イエス様のもとで地上の悲しみや労苦が完全にいやされる望みがあります。

この世にあって、隣人を愛し、兄弟姉妹を愛し、イエス様の福音を宣べ伝えなさいと言われていますが、人間の愛は揺らぎやすく、決意はもろく、また忍耐にも限界があります。しかし私たちはイエス様の愛によって、揺るぎない神との愛の交わりの中にいつでも立ち戻ることができ、愛のゆえに世界に救いをもたらそうとしている神様の想いに立ち戻って、もう一度力をいただくことができます。

適用:聖霊の励ましに気付く

今日はペンテコステということで、聖霊についてイエス様が教えてくださったことを見てきました。

礼拝の最初にペンテコステの日の出来事を読んでいただきましたが、別れた炎のような目に見えるしるしや、鳩のように聖霊がくだるとか、突然外国語で話し出すというような奇跡が繰り返されるわけではありません。

しかしイエス様が約束されたのは、そういう目に見えるしるしではありませんでした。聖霊が私たちとともにずっと一緒にいてくださり、助けを与え、神との愛の交わりの中に導き入れ、私たちをイエス様のいのちによって生かしてくださるということです。

「世はこの方を見ることも知ることもない」とイエス様が言われたように、イエス様を愛することも、信頼することもなければ、助け主である聖霊がともにおられることは分からないでしょう。しかし「あなたがたは、この方を知っています」と主は言われます。

イエス様が約束されたとおりに、助け主、あるいは慰め主と呼ばれる方が私とともにあり、私の心の中に住んでいてくださると信じ、その励まし、慰め、導きを知ろう、気付こうと願うなら、ちゃんと気付かせてくださいます。

私が失敗したことは、聖霊がおられることのしるしを何か見つけようとし、聖霊が心の中にいる実感を得ようとして、聖霊が与えてくださっていた励ましや慰め、そして導きに気づけなかったということです。

誰か有名な教会指導者が聖霊に満たされるとこんな凄いことが起こったなんて話を聞くと、そういう経験がない自分には聖霊が働いてないんじゃないかと思ったりもしました。

けれども、聖霊は聖書のことばと交わりの中で働く方です。一緒にみことばを学んだり、賛美したり、またイエス様が教えたように互いに愛し合う、親しい交わりの中に聖霊が働いておられることを感じ取ることができます。

聖書を通して神様が語っておられることはこういうことなんだと、皆と一緒に理解できたときその感動と喜びは聖霊によるのです。今日、ご一緒に賛美をしているとき、ただ口を動かして歌詞を追うのではなく、賛美の中に聖霊がおられると想像しながら歌ったら、たとえ古い歌詞の賛美歌であってもまったく違った経験になります。誰かとイエス様の福音を分かち合い、その人の心に変化が起こるとき、そこに聖霊の働きをありありと感じ取ることができます。日々の生活の中でイエス様に従う勇気が欲しいとき、誘惑を退ける力が欲しいとき、慰めが欲しい時、心が騒いで平安が欲しい時、心の中に住まわれる聖霊を意識して祈り求めるとき、静かに力が与えられることを経験できるでしょう。聖霊は奇跡やしるしの中にいるのではなく、日常の暮らしの中におられるのです。

そんなふうにして私たちがイエス様を愛して、イエス様の教えに聞き、応えて生きようとするとき、私たちは孤独ではないことに気付きます。約束されたとおり、いつも聖霊がともにいてくださること、そして私たちがイエス様のいのちの中で生き、神様の愛の中を歩んでいると、確信を得ることができます。

イエス様の約束はペンテコステの日以来、今なお果たされ続けています。この豊かな恵みを味わわせていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ペンテコステの日に、イエス様が約束された助け主なる方が弟子たちのうちにくだり、彼らを励まし福音を宣べ伝える群として、教会として結び合わせ、建て上げてくださいました。

それ以来、いつの時代も、どこであっても、その約束は守られ続け、世界中のすべてのイエス様を愛する者のうちに同じ聖霊が住んでくださっています。まさに、私たちは御霊によって一つとされています。

聖霊が私たちを助け慰め、力と導きをもって神の愛の中に生き、イエス様のいのちによって生きることができるようにしてくださっていることを感謝いたします。

どうぞ、日々の歩みのあらゆる場面で聖霊の励ましや導きに気付き、強められながら歩むことができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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