2025-06-15 愛と平和がいつまでも

2025年 6月 15日 礼拝 聖書:コリント第二 13:11-13

 皆さんは、喧嘩別れしたままの友だちや仲間はいるでしょうか。次に会ったときにどんな顔をしたら良いか分からず、つい避けてしまったり、後味の悪さを引きずってしまうことがあります。

今日開いているコリント書は、第一と第二の手紙がありますが、それ以外にもパウロは手紙を書いたり、実際に訪問したりして、コリント教会にあった様々な問題に対処し、解決のための原則を教え、あるいは自分に向けられた非難について弁明したり、厳しく叱責したりしています。

そのようなやりとりは、真の和解や悔い改めがなされないととても後味の悪いものとなり、関係は遠くなってしまいがちです。そうしたことは、この世の人間関係では良くある事で、しかたがないと諦めがちなことかもしれませんが、パウロはそんなふうに簡単に諦めてはいないし、最後の最後まで、教会が一つであること、愛と平和に満たされていることを願って、手紙を締めくくっています。京はその最後の挨拶のところを見ていきましょう。

1.目指す高み

11節の「最後に兄弟たち、喜びなさい」という言葉は、通常、手紙を終わる挨拶文として用いられる言い方です。「最後に兄弟たち、さようなら」と訳してもいいのですが、パウロは「さようなら」に用いられている言葉本来の意味で「喜びなさい」という意味で綴っているようです。続けて「完全になりなさい」「慰めを受けなさい」「思いを一つにしなさい」「平和を保ちなさい」と、一連の勧めと並行して書かれているので、単に挨拶しているのではなく、やはりここは「喜びなさい」という意味なのでしょう。パウロは、いろいろと厳しい言葉も語って来たが、私たちクリスチャンが持つべきは怒りでも悲しみでもなく、喜びであるべきだと言っているようです。

私たちは、自分の思い通りにならないために怒りで支配されたり、罪を指摘されたり、悔い改めるよう迫られて悲しみに沈んでしまうような、単に反応として出てくる感情をそのままにしておくのではなく、あるいは、悪い感情は出しちゃだめだと無理に押し込むのでもありません。怒りも悲しみも自然な反応として出てくるものですし、それを否定する必要はありません。しかし、それだけだと私たちの心はマイナスの感情に支配されてしまいます。だから、神が備えてくださる祝福や希望、また赦しの恵み、慰めといったものに目を向けて喜びを取り戻すことができます。

感情的な面で一段高く上ることができるように、みことばの教えに従って、私たちは行動においても高みを目指すようにと、パウロは「完全になりなさい」「慰めを受けなさい」と続けます。

完全になりなさいというのは、完璧な生活をしなさいというより、神様が意図された人としてのあり方、神との関係、人間関係、人生を通して果たすべき務めといったものに取り組みなさいということです。私たちが目指すべきゴールについてぶれないように、ということです。

そしてそのために「慰めを受けなさい」、これは別な日本語の聖書では「励まし合いなさい」と訳されています。目指すべきゴールについてぶれていなくても、間違ったりうまく出来ないことがあるのが私たちです。そんなときに、私たちは互いに励まし合ったり、慰め合ったりして、もう一度力を得て、目指すべき高みに向かっていくことができます。

あえてパウロは「完全になりなさい」という高いゴールを示します。高みを目指すことがなければ、私たちは自分の生活を改めることも成長することもありません。

昨年、サッカーの日本代表キャプテンがワールドカップ優勝を目標に掲げ、大口叩くなとか、無理無理と言われました。実際優勝できるか分かりませんが、優勝という目標を掲げることで、自分たちに足りないものは何かがはっきりしてくるし、そのために何をしたら良いかを考えることもできます。本気で望むならそのために努力もし、それは成長や実績という形で報われます。

信仰生活もイエス様に似た者にまで変えられたい、神様の子どもとして成熟したクリスチャンになりたいという目標をはっきり持つことが、私たちの感情をコントロールすることや、人との関係、聖書の理解、自分の果たすべき務めへの献身など、あらゆる面での成長をもたらすのです。

2.愛と平和

パウロは続けて「思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」と語ります。教会の交わりには、愛と平和が満ちているべきだとパウロは教えているのです。

繰り返しになりますが、コリント教会は様々な問題で混乱し、対立も生まれていました。その根本的な問題は、コリントのクリスチャンたちが使徒たちを通して教えられた信仰の歩みについての初歩的な原則を守らず、自分勝手な価値観や見栄のために張り合い、互いへの尊敬を忘れ、愛し合うことや思いを一つにすること、仕え合うことをないがしろにしたことにありました。そのため分裂や他人への傲慢な批判という問題行動が起き、妬みやさげすみ、怒りや悲しみといった感情に支配されがちでした。だから、目指すべき姿を思い出し、そのために努力し、励まし合うことが必要でした。

パウロはそのために繰り返し教え、叱り、励まして来たのですが、それは教会の中に愛と平和が満ちるためです。そのために私たちは何を信じて生きているのか、神様が私たちに願っている姿はどういうものか、教会に対してどんなご計画があり、私たちはそれにどう答えようとしているのか、という点で思い、つまり考え方を一つにしようと努力し、争いを言い負かすのではなく平和のうちに話し合う必要があります。

教会は神の愛を知り、キリストの救いにあずかった人々による神の大きな家族ですが、罪ある人間の集まりであるという面はつきまといます。そのため、コリント教会だけでなく、どんな教会の中にも様々な問題、混乱が起き、それが原因で争いや分裂が起こることがあります。引き金となるのは、聖書の教えについての理解の違いだったり、道徳的な罪の問題が表面化することだったりしますが、それが神の愛や恵みによって正され、成長や慰めにつながらず、分裂や争いに発展するのは、主導権争いやお金の問題が絡んでくるときです。

コリント教会もそうでした。きっかけになる問題は実に様々でしたが、互いに対する寛容さ、愛、仕える心を失い自分の仲間を増やしたり自分の優位さを保ちたいという心が争いと分裂を引き起こしました。

どのように伝道していくかとか、教会員の教育をどうするかといった問題でさえ、主導権争いの要素が入り込むと、途端に健全性が失われます。会堂建設という大きな事業が順調だった教会の交わりに大きなしこりをもたらす、ということは時々聞きます。

教会は生きた人間の集まりであり、社会も変化し様々な影響を受けますから、必ず問題は起き、悩む事柄は出てきます。そこで大事なのが、何があっても互いに愛し合うことと、キリストにある平和を保とうとする強い決意です。これは、私たちがはっきりと意識し、決心しなければならないことです。御霊によって与えられた一致を、御霊の助けをいただきながら守る意志が求められます。

私たちもこのあと、会堂の修繕について意見を交わし、お互いの思いを聞き合う時間を持ちます。本音で話し合えば、当然、理解の違い、考えかたの違いは起こってきます。そこで大事になるのが、神様は教会にどんな務めを与えておられるかという理解において一致し、違い以上に愛と平和が大切にされることなのです。

3.最後は握手

パウロは続けて12節で、教会に愛と平和が満ちるようにという願いと決意を、具体的なしるしとして表すよう教えています。

「聖なる口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい。」

日本人には文化的に馴染みがない挨拶の習慣ですが、ローマ世界では、親しい者同士が口づけをして挨拶するというのは一般的でした。また尊敬を表す意味で口づけをするということもあったそうです。

たとえば「放蕩息子」という有名なイエス様の喩え話があります。父親の遺産を分けてもらった兄弟のうち、弟が家出をして財産を湯水のように使い果たしたあげく食べるにも困って家に帰った時、父が息子を抱いて口づけして迎えました。その口づけには父としての愛、道を踏み外した息子への赦し、息子の悔い改めを受け入れる思いが表れています。

同じような勧めはローマ書、コリント第一、テサロニケ第一、ペテロの手紙第一にも出てきます。聖なる口づけは、家族や親しい友人同士がする親密さを表す以上に、キリストにあって互いに愛し合い、敬う心を表し、平和のしるしとしてするものです。

教会内にいろいろ対立があったり、しこりが残っていたかもしれないけれど、私たちはともに神の子供として目指すべき姿があることを思い出し、教会に託されたことのために共に仕え合う仲間であることを確認し、教会の交わりが愛と平和に満ちているべきだと強く決意するなら、お互いに対する愛、尊敬、また赦し、受容を「聖なる口づけ」という挨拶をすることで表しなさいということです。

もちろん、口づけは文化的なものですから、日本でも同じようにしなさいということではありません。大事なのは愛と赦しを象徴的に表す親密な挨拶を実践することです。

私たちが普段、どんな挨拶をしているか考えると、基本的に身体的な接触はないと思います。口づけはもちろんですが、ハグもしません。先日、イギリスから帰国された相馬先生が、イギリスで教会に導かれた日本人留学生が日本の教会に戻って受けるショックの一つに、イギリスの教会ではいつもハグで迎えてくれたのに、日本の教会では誰もハグしてくれなかったということがあると紹介していました。それはそうです。挨拶する時は言葉だけか、会釈しながらといった感じです。

じゃあ、どうやって互いに対する愛と平和、尊敬や赦しを表すために具体的にどんな方法があるか考えてみました。挨拶するときに、相手の目を優しい眼差しで見ながら笑顔で「こんにちは」「さようなら」というだけでずいぶん違うのではないでしょうか。尊敬の思いを深く表したいなら、軽い会釈ではなく、深くお辞儀をすること。そして、和解や赦しといった意味を強く表すなら、握手をするということもできると思います。

震災支援の現場で起こったもめ事でちょっと対立した牧師がいたのですが、別な機会に再会したときに、「その節はどうも」と握手を求め、それ以来、何のわだかまりもなく、親しくできています。

今日、帰るときにはそんなふうにして挨拶しましょう。話し合いの時に気まずさや意見の違いがあったとしても、笑顔で挨拶し、必要なら握手をして帰りましょう。私たちが守るべきは自分のプライドや意見を通すことではなく、互いへの愛と平和です。

適用:神の祝福あれ

さて、コリント人への手紙第二の最後の節に来ました。祝祷の祈りの言葉としてよく耳にする箇所です。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがすべてとともにありますように。」

皆さんが、祝祷の時、この祈りの言葉をどのように聞いているか私には分かりません。先日、祈祷会ではマルハさんが、ペルーでは普段の祈りの時に、祈りの最後に「父と子と聖霊の名によって」と祈るので、祝祷とか特別な時だけなのはちょっと物足りないと言っていました。日本の教会では、普段は「イエス様のお名前によって」なので、「父、子、聖霊」と出てくるのは、祝祷やバプテスマ式の時など、ちょっと特別な場合ですから、なんだか「有り難い言葉」みたいな感じで聞いているでしょうか。あるいは「これで礼拝の時間が終わりだ」という安堵感や、終わりの合図のように聞こえているでしょうか。

しかし、この聖句には、神と教会について新約聖書が明らかにしているとても重要な真理が明らかにされています。

私たちの信じるただお一人の神は、父と子と聖霊なる神様、という三位一体の永遠の愛の交わりにおいて存在される神様だということ、そしてその愛の交わりが教会に下りて来るというか、その愛の交わりが教会の交わりの中にもたらされ、満たされることが、祝福のもっとも核心的なことなのです。11節の「愛と平和の神があなたがたとともにいてくださいます」と共通しています。

決して引き離されることのない、完璧な一致と愛が父、子、聖霊の神様の間にはあります。イエス様を知ることは父なる神を知ることだとイエス様は言われました。またイエス様は、聖霊はいつもイエス様を表す方だとも言われます。そして神様はご自身の愛と真実をイエス様を通して表しました。

三位一体ということを私たちは完全に理解はできませんが、愛と一致があることは分かります。そして、神様がその愛と一致を、罪ある人間であるにもかかわらず、教会家族として結ばれた私たちの間に満たそうとしてくださっているのです。

パウロやコリントのクリスチャンが生きた時代は、パクス・ロマーナ、ローマの平和と呼ばれた時代ですが、それはローマの圧倒的な力と、奴隷制や周辺諸国に対する軍事的な圧力に支えられた時代でもありました。繁栄と平和のために犠牲になり続けた人々、取り残された人たちがいることに目をつぶって実現した平和でした。それに対して教会は、最も弱い者が愛され、尊敬されるような、対立が争いではなく和解と一致を生み出すような交わりとして神を証しました。

今日、私たちが生きている時代は、分断の時代と呼ばれます。ある国では、教会がその片棒をかついでいるようにさえ見える悲しい状況もあります。しかし、神様はこの時代に対して、教会を通して愛と平和が本当に存在すること、私たちの希望となりうることを示そうとしておられます。教会が喜びのある、そして高い目標を持ち、愛と平和が満ちた交わりであることで、神の愛と平和を示そうとしておられます。そのために神の内にある愛と一致を教会に満たそうとしておられます。まずは心からの愛と尊敬を込めて挨拶しあうことから始めましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは互いに異なる存在で、性格も、関心も、考え方も、感じ方も様々です。

しかし、私たちはキリストにあって一つとされ、聖霊によって一致が与えられています。目に付く様々な違い以上に、私たちを結ぶものは揺るぎなく確かです。

どうぞそのことを確信して、互いに愛し合うこと、平和を保つことを決意し、聖霊の助けによって努力し続けていくことができますように。教会が喜びと聖さと愛の交わりによって、神様の素晴らしさをこの世に表すことができますように。いろいろな違いや対立があったとしても、いつも、最後には固く握手を交わし、神にある愛と一致を確認することができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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