2025-09-07 医者ルカの仕事

2025年 9月 7日 礼拝 聖書:ルカ1:1-4

 クリスチャンとしての生活、また教会の働きや活動について迷いが生じるときがあります。その迷いには真理そのものに対する確信の揺らぎ、たとえばイエス様による赦しは本当に確かなのかとか、イエス様は本当に復活して生きているのか、といった信仰の根本部分に対する確信が揺らいでしまう場合があります。また、自分たちの生き方、やり方が聖書の教えにちゃんと乗っ取っているのかどうか迷いを感じる場合もあります。

私たちの教会について言うならば、会堂の整備をどうしていくかというある種の迷いの中で話し合い、見逃してはいけない事柄があることを確認したと思います。教会とは何なのか、何のためにあり、何をするものなのか、ということを共有できないと、お金を掛けて会堂を直したり、あるいは建て上げたとしても無意味になったりちぐはぐになってしまうということになります。

そこでしばらく、ルカの福音書と使徒の働きを通して、信仰や教会の確信とは何であるのかをじっくり学び直したいと思います。

1.医者ルカ

今日は9月の第一週でもあり、今年度の主題「恵みの器」とも重なる、医者ルカの仕事に注目したいと思います。

実のところ、どの福音書も本文の中に著者の名前を書いていません。マタイもマルコもヨハネもです。そしてルカの福音書の中にはルカという名前すら出てきません。それでも教会のごく初期の時代から、この福音書と使徒の働きは、医者ルカによって記されたと言い伝えられ、そのように認められて来ました。

しかし、単にそういう伝承があるからというだけでなく、聖書のいくつかの手がかりから、医者ルカが二つの書物の著者であることはほぼ確かだろうと言えます。「ほぼ」と言わざるを得ないのは、やはり本人が名乗っていないからですね。

ルカの福音書と使徒の働きは文章がとても良く似ています。使っている言葉の傾向や文体、両方に流れている考え方、関心といったことが共通しており、両方とも「テオフィロ」という人に宛てられている、ということから、二つの書簡が、上下巻セットで一つになるものとしてはじめから意図されて書かれたと言えます。

そして、なぜそれがルカだと言えるかというと、使徒の働きの途中、16:11から主語が「私たち」に変わっていること。つまり、それ以前のことは調査や聞き取りをまとめたもので、16:11以降は著者自身が実際に見たり聞いたりしたことだということです。それはちょうどパウロの宣教がアジアからヨーロッパへ移って行く時期で、ローマに着いたところまでなのですが、その時期にパウロに同行した人物を調べていくと、医者ルカが浮かび上がって来るというわけです。

ルカの名前はコロサイ書とピレモンへの手紙に愛する医者、同労者として出てきます。この二つの手紙はパウロがローマで軟禁生活を強いられている中で書かれました。68年春に処刑される約半年前に記された第2テモテでは最後までパウロと行動を共にしていた仲間としてルカの名前が挙がっています。

こうしたことから3番目の福音書と使徒の働きは、同一人物、医者ルカによって書かれたと考えられており、それで間違いないと私も考えています。しかしながら、ルカは自分のことについては何も書いていません。

ルカがどのようにして医者を志したのか、どんな医者だったのか。またどういう経緯で福音を聞き、パウロと行動を共にするようになったのか、何も分かりません。ルカがパウロと行動を共にするようになったのは使徒の働き16章で、アジアでの宣教の扉が閉じられ、幻の中でマケドニア人の助けを求める声を聴いて、聖霊の導きを確信してギリシャのマケドニアに渡るときです。16:10で「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした」とあるので、ヨーロッパに宣教のエリアを拡げる決断をしたその場面にルカもいたことが分かります。

ルカ1:3には、ルカが当時教会を通して宣べ伝えられ、教えられていることを綿密に調べ、順序立てて書こうとしていたことが伝えられています。使徒の働きを読んでいくとルカが医者らしい仕事をした形跡はありません。実際にはしていたのかもしれませんが、それよりも彼は宣教の働きを記録し、イエス様の教えと働きについて調査しまとめることを自分の務めと考えていたのです。

2.テオフィロの迷い

さて、ルカの福音書と使徒の働きは、同じ一人の人物に宛てて書かれています。昔の文学の作法では、献呈といって、個人や組織に敬意を表して贈呈する際、こうした序文の中に名前を記すことがありました。

ルカはその作法に則って書いていますが、しかしこれは決して形式的なものではありません。テオフィロがどういう人物であったかはほとんど分かりませんが、ローマの碑文や文献にたびたび出て来るような、よくある名前の一つですし、「尊敬するテオフィロ様」という書き方から、ある程度社会的に地位のある人であろうことは分かります。4節に「すでにお受けになった教え」とあるように、テオフィロもまた、福音を聞いてイエス様に従うクリスチャンになった人であることが分かります。

ルカはこのテオフィロに対して「すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたに良く分かっていただきたいと思います」と執筆の目的を書いています。

テオフィロに敬意を払って書かれたものであり、形式的にはよくある献呈の書き方にはなっていても、彼の信仰に触れ、すでに信じているはずの福音と教えについて「確かであることを、あなたに良く分かっていただきたい」と、テオフィロを強め励まし、教える意図を持って書いたことが分かります。もちろん、テオフィロ一人のために書いたのではなく、これが広く諸教会で読まれることを意図していたことは内容を読んでいくと分かるのですが、それでも、テオフィロが抱えている疑問なり迷い、あるいは曖昧な理解にとどまっていることをクリアにして、はっきりした理解と確信を持って信仰の歩みをしてほしい、教会の建て上げのために貢献して欲しい、そんなルカの強い願いが込められているのです。

ルカの福音書と使徒の働きがいつ書かれたかははっきりした年代が分かりません。ただ、使徒の働きの最後は裁判のためにローマに到着し、自費で借りた家に住み、軟禁状態になっているところで終わっていますから、少なくともそれ以降に書き終えたことになります。そしてパウロはローマ滞在時にエペソ、コロサイ、ピレモン、ピリピの各書を書き、その前には第一次伝道旅行を終えた後にガラテヤ書、第二次伝道旅行中にテサロニケ第一・第二、第三次伝道旅行中にコリント第一・第二、ローマ書を書いています。伝統的にはエルサレムが崩壊した70年頃にルカの福音書と使徒の働きは書かれたと考えられていますが、その頃までにはテモテやテトスへの手紙も書かれました。

つまり、ルカの福音書と使徒の働きは、諸教会で福音が伝えられ使徒パウロがキリストから受けた教えとして書き送った手紙がどういう歴史的な経緯の中で記されたかが明らかにされているのです。

それらの手紙を見ていくと、当時のクリスチャンたちが直面した問題や陥りやすい間違いなどが少し分かって来ます。

私たちはイエス様について何を信じるのか、そしてこの世界に対する神のご計画は何であり、教会はどのようなもので、どんな役割があるのか、ということがテーマになっています。

パウロはそうした問題に教えることで対処し、ルカはイエス様と教会の歴史に表れた神の御心を明らかにすることで解決しようとしたのです。

3.確信を持つように

テオフィロ以外のクリスチャン、諸教会に読んでもらうことを想定していたとしても、まずはテオフィロという個人に、福音の教えが確かであることを確信してもらうために、これだけの文書のために何倍もの調査、聞き取り、研究を重ね、構想を練り、下書きをし、聖書をするのにいったいどれほどの時間をかけたのでしょうか。普段、パウロや仲間たちと共に旅をし、働きをしながらこれらのことをやり遂げたというのは、いくら聖霊の助けがあったとはいえ、大変な労力です。そこまでしてでも、確かな確信を持って欲しいし、持ってもらわなければ困るとルカは考え、断固とした決意をもって取り組みました。

なぜそうする必要があるかというなら、信仰の確信を揺るがすような状況があり、実際信仰から離れたり、教会の交わりから遠ざかったり、道から外れる生き方をする人たちが現実にいたからです。

手紙を見ていけば、当時の迫害やユダヤの伝統的な理解に基づいた間違った教え、ギリシャやローマの哲学や宗教の影響を受けた間違った教え、道徳観、価値観などによって惑わされ、使徒たちや他のクリスチャンたちから聞いた教えから外れたり、歪んで解釈すると、それは個人の信仰の問題に留まりません。

私たちの心の中で迷いや疑い、間違った理解が支配的になると、私たちの言葉、態度、行動が悪い方に変わったり、行き当たりばったりになります。それはすぐに個人の問題から身近な家族との関係に影響を及ぼし、教会の兄弟姉妹や地域、社会の人間関係にも影響を及ぼすようになります。

神の恵みと救いについて間違った教えに影響されたガラテヤのクリスチャンたちはとても律法的でぎすぎすした教会の交わりを作ってしまったし、キリストの再臨について間違った理解をしたテサロニケのクリスチャンたちは不安にさいなまれる者や仕事なんかしててもしょうがないとフラフラした生き方をしました。愛と自由について誤解したコリントのクリスチャンたちは、未信者の間にも見られないほど不道徳な行動をしたり、たえず交わりの中に分裂や争いを起こし、仕えるべき主人を軽んじる者も出てきました。

もちろん私たちは人間ですから、福音を正しく理解し、教えについて確信を持っていたとしても、それでも間違うこと、道を踏み外す可能性はあります。私たちは自分の中にある罪の力や外から来る誘惑の力をあなどるべきではありません。なおさら、私たちが信仰の確信を持っていなかったら、そうした罪の力や誘惑の力にどのように対抗できるでしょうか。未完成の船を絶えず波風にさらされる外海に出すようなものです。見かけは立派にできたとしても、骨組みがちゃんとできておらず、各部品もしっかりとつなぎ合わされないままなら、ちょっと波が来ただけでひとたまりもありません。

なぜ同じように人生に試練や困難があっても、信仰によって勇敢に乗り越える人と状況に流され信仰を失ってしまうような差が生じてしまうのでしょうか。イエス様は喩え話しを通して、イエス様のことばを聞いても、聞き流す人は砂の上に家を建てるようなものだと言われました。川の水が押し寄せると押し流されるように、土台がしっかりしていないから酷い壊れ方をするのです。厳しい指摘ですが、本質的な問題をついているのではないでしょうか。

適用:注意深く聖書を読む

さて、今日の箇所から私たちは何を学べるでしょうか。恵みの器という大きなテーマの中で考えるなら、医者であったルカが、おそらく医者としての知識と技術を使って働きながらも、福音宣教のために自分にできることを通して献身した姿は大いに考えさせられます。

だれもがルカが誓書の一部を書き上げるような大きな仕事をするよう召されているわけではありませんが、誰もがその人なりの仕方で福音宣教に貢献するよう召されています。私たちは自分のうちにある志や関心、能力などを手がかりに見つけ、献げていくよう励まされ、促されています。

一方、この箇所自体が語っていることから私たちが考えるべきことは、注意深く聖書を読んで、私たちの信仰、生活、教会の交わりや働きが、聖書の教えにしっかり立っているかよくよく吟味する必要があるということではないでしょうか。

テオフィロは、恐らく聞いて学んだことに留まっていましたが、他の何かに惑わされて迷うか疑いはじめるかしていたのでしょう。それからおよそ2000年経って、様々な歴史や文化を越えて福音を受け取った私たちは、正しくイエス様の教え、使徒たちの教えを受け取っているかも吟味する必要があります。

以前、エペソ書を学んだ時にも気付かされたことですが、初代教会において関心が払われ、熱心に教えられている内容と、今日私たちが話し合いの場で議論する内容にはずいぶん大きな開きがありました。何か大きなずれがあるのかもしれません。

私たちは自分たちがやっていることが本当に聖書が教えていることなのか、それとも文化として受け継いでいることなのかを区別しなければなりません。

先日、講壇交換で花巻めぐみのマーク先生がおいでくださいましたが、その打合せをしているとき、マーク先生は「祝祷が苦手です」と言う話しを聞きました。どういうことかとよく聞いたら、イギリスでは礼拝で祝祷をすることがないというのです。しかも、大げさに両手を挙げて儀式っぽく祈ることは、とても抵抗があるというのです。日本のクリスチャンたちはそれを期待するのでやっていますが、慣れませんということでした。案外「聖書的だ」と思っていることが、実はあまり根拠がなかったり、文化的な遺産でしかないことは多いのかもしれません。

私がルカの福音書と使徒の働きを学び直してみようと考えさせられた大きなきっかけは、47年前に建てられた会堂をどうしたらいいかという関心からでしたが、建物がどうあるべきかについての聖書の原則というものはありません。しかし教会はどうあるべきか、信仰とは何かということなら、聖書の中に記されており、それはルカにとって重要な関心事でした。神様はルカを通して、どんな時代、文化にある教会であっても、そのあり方、働き方の根本の部分が、イエス様が教え始め、行いはじめ、使徒たちによってその意味が明らかにされたものと同じ道を辿ることを願っておられます。

ルカの福音書は新約聖書の中でも最も長い書物ですし、それに加え使徒の働きもあるとなると、ずいぶん長い道のりになりますが、注意深く学び、自分たちのあり方を見つめ直し、新たな光を当てていただくことを期待しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

医者であったルカが福音宣教のためにパウロとともに旅を始め、聖霊の導きのなかで一人の人が信仰の確信を持てるようにと、福音書と使徒の働きを書いたことを学びました。

単にその事実でなく、大きな犠牲を払ってでもそのために労苦したルカの働きを覚えるとき、私たちもまた自分たちの歩みの土台がどこにあるのか、しっかりイエス様と使徒たちに結びついているのか、よく学び、吟味すべきことだと教えられます。

教会の将来について考えるべき時が来ている今、どうぞ、状況に振り回されて焦ることなく、良いお方であるあなたに信頼しつつ、しっかりと学び吟味することができるように助けていてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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