2025-11-02 荒野で叫ぶ声

2025年 11月 2日 礼拝 聖書:ルカ3:1-20

 「荒野で叫ぶ声」で思い出すのは、昔観た西部劇の「シェーン」の最後のシーンです。荒くれ者に困っていたある家族のもとに、ふらっと立ち寄ったシェーンという流れ者が、家族の世話になりながら、その家の男の子と交流を深め、荒くれ者たちから守って旅立っていくとき、馬に乗って荒野を遠ざかって行く姿を目で追いながら「シェーン、カンバーック」と呼ぶシーンが印象的でした。その後、「シェーン、髪バーック」という、育毛剤のCMに使われたりもしましたね。古い話ですみません。

荒野に声が響き渡る情景はとても印象深いものがあります。見渡す限りの荒野なのに、声があちらこちらに跳ね返りこだまします。ある種の寂しさやすさんだ心の情景を重ねて感じ取ってしまうのかもしれません。

今日は月初めの主日ですので、主の恵みの器として用いられた人を取り上げる日ですが、ちょうどルカの福音書でバプテスマのヨハネの箇所に来ましたので、バプテスマのヨハネにスポットを当てたいと思います。

荒野で声を上げたヨハネはいったい何のために荒野で語り始めたのでしょうか。今日は彼に倣うというより、彼が何を語ったのかに耳を傾けたいと思います。

1.荒野のヨハネ

バプテスマのヨハネが表舞台に登場したのは西暦でいうと紀元30年頃ではないかと考えられています。

現代は、ほぼ世界で共通する西暦というものがあるので、何かの出来事が起こった年がいつのことか、という点で混乱することはありません。西暦が導入される前の日本では元号によって年代が決められていましたが、それは天皇が定めた年代の数え方になります。

同じように、新約聖書の時代だけでなく、多くの時代の多くの文化圏では、歴史的な記録をするときは、その時の王の治世が始まって何年目の時かという数え方をしました。

ルカは歴史的な出来事を記録する場合の作法にのっとって、バプテスマのヨハネが歴史の表舞台に登場したときの年代を示します。

皇帝ティベリウスの治世15年目、さらにユダヤ総督のピラト、ガリヤラ領主のヘロデ、その兄弟ピリポが3つの領地を治め、さらにアンナスとカヤパが大祭司であった頃と、4重、5重に年代を特定できるように書いて、福音書を読むテオフィロやクリスチャンたちに、バプテスマのヨハネという半ば伝説的な人物が、空想上のものではなく、歴史上に実在した人物であることを強く印象づけます。現代の私たちにはピンとこなくても、震災があった年とか、コロナが流行った年と言えば、その時代のことをリアルに思い描けるのと同じです。

ヨハネは、ルカの福音書1章で祭司ザカリヤと妻エリサベツの間に奇跡的に生まれた男の子です。生まれる前から、神に選ばれた者であり、おいでになる救い主の先触れとして、人々を備える者となるはずでした。

イエス様より半年ほど早く生まれたヨハネがおよそ30歳になった頃、2節にあるように「神のことばが…ヨハネに臨」みました。

この言い方は、旧約聖書で預言者に神のことばが与えられた時の言い方と良く似ており、長らく途絶えていた預言者が再び起こされたことを示しています。

「荒野で叫ぶ声」とは言っても、誰もいない荒野で一人叫んでいたわけではありません。荒野で時が来るのを待っていたヨハネは、神のことばが臨むと、ヨルダン川周辺のすべての地域に出かけて行って人々に神のメッセージを告げました。その内容は「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」を受けるようにということでした。

ルカは、このヨハネの活動が「荒野で叫ぶ者の声がする」という預言者イザヤの預言の成就だと解説します。

さて、ヨハネがメッセージを伝えた人々は、救い主がおいでになるのを待ち望んでいましたが、その方を迎えるため、救い主が王として治める国に入るために律法を守って来ましたが、ヨハネはむしろ悔い改めが必要だと訴えます。そして、バプテスマを受けるようにと語ります。このバプテスマは、今日の私たちが信仰の証し、また教会の一員として加えられるしるしとしてのバプテスマとはだいぶ意味が異なりました。

当時、ユダヤ教徒たちは、異邦人が神への信仰を告白する時、きよめのバプテスマを受けさせました。あなたがたは罪深い、汚れた者だから、といって全身を水につけて清める儀式を行ったのです。ですから、バプテスマが必要なのは汚れた者、異邦人だという意味です。そのバプテスマを、あなたがたは受けなさいというのです。

2.救い主、裁き主

ヨハネが人々に語ったことは、自分たちこそ神の民であり、当然、救い主として来られる方は自分たちを救い、神の国に入れてくれると考えました。彼らは異邦人の支配から救われることこそが救いだと思っていたのです。そして異邦人による支配という罰が赦されるために一生懸命律法を守って来たのです。

しかしヨハネは、救い主がもたらす罪の赦しは悔い改めによって与えられるものであると告げます。

なぜヨハネが悔い改め、プライドを捨ててバプテスマを受けるほどにへりくだらなければならないと言ったかというと、待ち望んでいる王は、救い主であり、また裁き主でもあるからです。

7節で、バプテスマを受けようとしてヨハネのもとに来た群衆に向かって「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか」と厳しい言葉をかけます。

実は群衆の中に、プライドの高いパリサイ人と呼ばれる人たちが交じっていました。彼らは自分たちが異邦人や罪人のようにバプテスマを受ける必要なんかないと考えている人たちです。誰より律法を守っていて、律法をちゃんと守らないクズどもとは違うという態度を取る人たちです。しかし、新しい預言者の前ではへりくだった振りをしてバプテスマを授けてくださいと申し出ました。

しかし形だけの悔い改めは何の意味もありません。神の怒りを買わないためにとりあえず命令を守っておこうという心ほど神の求めるへりくだりから遠いものはありません。そのような者達に対する神の態度は厳しいです。9節にあるように、神は裁き主として彼らに臨みます。

ある人たちは、新しい預言者として登場したヨハネが待ち望んだ救い主だろうかと考えました。ルカはヨハネの外見について書いていませんが、ラクダの毛皮でできた簡素な服を身につけ、荒野で生活し、主な食糧はイナゴと野蜜という、かなり独特な様子で、それこそエリヤのような昔の預言者を彷彿とさせるものでした。約束されたキリストは預言者のような方だとも言われていたので、もしやと思ったのでしょう。しかしヨハネはきっぱりと私ではない、と告げます。16~17節でヨハネが人々に明かしたことは、自分の後に来られる方が人々に聖霊と火でバプテスマを授ける方。悔い改めのしるしとしではなく、本当に私たちを聖め新しく生かす方です。そして17節で譬えられているように、裁き主として来られる方なのです。

このヨハネのメッセージは当時のユダヤ人たちを驚かせ、あるいは怒らせました。彼らが待ち望んだ救い主は、自分たちを救うために裁き主として来られますが、それはあくまで神の民である自分たちを支配している異邦人の支配者たちへの裁きだと考えていたからです。まさかキリストの裁きが自分の方に向けられるとは考えてもいませんでした。自分たちを正義だと思っている人たちに、あなたも悔い改めなければキリストは裁き主としてあなたの前に立つとヨハネは明言したのです。

本当に人を支配しているのは、外国の政府ではなく、罪なんだというのが聖書の主張です。この罪からの解放なしに救いはないし、そのために救い主が来られるから、その準備として、悔い改めるべきだとヨハネは語ったのです。

3.真剣な悔い改め

では真剣な悔い改めとはどういうものでしょうか。

悔い改めって何ですかと聞かれたら、皆さん何と答えますか。

私は、ずいぶん長い間、このように教えられて来たように思います。「罪を悲しみ、心から反省して、もう同じことを繰り返さないと決心することだ」

実際、そのように教えられてきたのか、それとも自分がそういうふうに解釈したのかはっきりしませんが、皆さんはどうでしょうか。

それも間違いとは言えませんが、説明がいささか私たちの内面に重きが置かれ過ぎているように思います。

罪を悲しむこと一つとっても、誰かを傷つけたり追い詰めたりするようなことをしたら、本当にひどい事をしたと心から悲しむというのは分かります。でも、やっておくように言いつけられたお手伝いをさぼったような場合、どこまで本気で悲しんだら、真の悔い改めと言えるのだろうか。私の反省や罪に対する「悪い事をしたなあ」という思いはどれくらい強ければ、真の悔い改めと言えるのでしょうか。

悔い改めの真剣さを私たちの感情や心持ちを基準に考え始めると、確かさに揺らぎが出てきます。だいたい、犯した罪の深さなんて後から分かることも結構あるものです。ちょっとした人への悪口を言ってしまって、悪い事をしたなとすぐ思ったら、自分が想像する以上に深く相手を傷つけることだったりすることもあるし、場合によっては何年もそのことに気付かないなんてことがあります。

バプテスマのヨハネが告げる真剣な悔い改めとは、悲しみや反省の真剣さというより、具体的に行動を変えようとすることに表れるものだということです。「悔い改めの実を結びなさい」という言葉に表れています。

10節で「私たちはどうすればよいのでしょうか」と問いかける群衆に対してヨハネは「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい」と言います。表面的に見ると、罪を償うために良いことをしなさいと言っているようですが、そうではありません。律法を表面的に守って安心していないで、神様が真に求めていること、隣人を愛し、あわれみ深い行動を取りなさいということです。

常習的に不正に取り立てをしていた取税人たちには、決まった分以上を取り立てないようにしなさいと言い、暴力や脅迫で住民から金をゆすり取っていた兵士たちには「そんなことをしないで自分の給料で満足しなさい」と言います。

ずるだと分かっていながら税金を多めに取り立てることを悔い改めるなら、酷いことをしたと悲しんだり、嘆いたりすることも大事だが、まずは不正に取り立てること自体をやめなさいというのです。悲しみというのは、罪がもたらした結果がどれほど深刻だったかを知ってからさらに深まるでしょうし、また神様がどれほど悲しんでいるかを知るのはさらに後になるかもしれません。しかし、今できることは、罪に捕らわれていた私たちが、もうこれには縛られたくないんですということを具体的に表すことです。その行動は罪の代償として行うものではなく、悔い改めが真剣なものであることを表すしるしです。

適用:荒野で叫ぶ声

神様の救いのご計画はイエス様によって実現されるのですが、そのイエス様の登場に先立つヨハネのメッセージが、決してつけたしでも、伝説でもなく、歴史の一ページにしっかり刻まれ、すべての人が耳を傾けるべき内容であることをルカは明らかにしました。

荒野で叫ぶ声は、誰もいない荒れ地で空しく響いていたわけではなく、神の言葉の意味を勝手に取り違えていた人たちや、自分は神の民だから救われるに違いないと思っていた人たちの心をガツンと叩き、当然の権利のように人々から金を巻き上げていた取税人や兵士たちの心をぐさっと刺しました。

私たちが迎えようとしている約束の王、キリストは、救い主であり、同時に裁き主でもあるからです。

私たちはイエス様が愛と恵みに満ちた方であることを知っています。罪ある私たちをそれでも愛してくださり、私たちがたとえ不完全でも受け入れ、赦してくださいます。それは罪がどうでもいい些細なことだからではありません。救いの恵みには代償が伴います。しかしその代償は私たちではなく、イエス様が引き受けてくださいました。十字架の苦しみと死は私たちの罪の代価を代わりに引き受けたものです。裁き主として来られた方が私たちを裁く代わりに、ご自身で裁きを引き受けてくださったのです。

だからこそ、一層私たちの悔い改めは真剣でなければなりません。

ヨハネの時は、これから来られる救い主を迎えるために悔い改め、へりくだるべきでしたが、すでにイエス様がおいでになり、私たちの罪の代価も支払われた今、私たちはイエス様を救い主として信じるなら、イエス様が私たちのためにしてくださったことをも信じ、それゆえに真剣に悔い改めるべきです。イエス様は十字架の苦しみと死を受けることで、私たちの罪を赦し、三日目によみがえることで罪の支配から自由にしてくださいました。イエス様の新しいいのちとその力が信じる者に与えられるからです。

私たちが悔い改めの実を結ぶべきなのは、赦されるためではありません。すでに赦されているからです。赦されるためではなく、死なれよみがえられたイエス様によって私たちがもう罪の支配にないことを信じているからです。

私たちが真剣に悔い改めるということは、ただ悲しんだり後悔してくよくよしたり、深い嘆きに浸って悔い改めたつもりで済ませることではありません。私たちが悔い改めの実を結ぶことは、キリストにあって新しい生き方ができることを信じ、証しすることなのです。

もちろん私たちにはそれぞれ弱さもあり、不完全ですから、悔い改めの実を結ぼう、実際に態度や生き方、考え方を変えようとしても、そう簡単には変わらず、何度も失敗することもあるでしょう。それでも私たちはイエス様のいのちの力が私を変えること、聖霊様の慰めと助けによって、私たちの心が変えられ、行動が変えられ、人生が変えられることをあくまで信じます。

テモテへの手紙の中で若き指導者にパウロは「ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。…これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすればあなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう」と書き送り、励ましました。

たとえゆっくりでも、真剣に悔い改め、イエス様により頼みつつ、その実を結ぼうとする人の成長は、自分が思うより周りがその変化に目を見張るものです。

ですから、私たちはキリストの恵みによって罪赦され、救われますが、それゆえに悔い改めは真剣にしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今一度、私たちは荒野で叫ぶヨハネのメッセージに耳を傾けます。私たちをしつこく捕らえる様々な罪は、もう私たちを支配する力がありません。私たちは死からよみがえられたイエス様のいのちを頂き、その力によって新しく生きる者とされました。

私たちの悔い改めがただの嘆きではなく、イエス様のいのちの力を信じて、神様のみこころにかなった実を結ぶものとなりますように。私たちの思いと行いを新たにしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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