2025-11-30 恵みの良い管理者

2025年 11月 30日 礼拝 聖書:第一ペテロ4:7-10

 今日は、私たちは神様から与えられた様々な恵みの良い管理者であることについてみことばから聞いていきます。

ところで10節に「賜物」という言葉が出てきますが、「あなたの賜物は何ですか」と質問すると、ごく稀に「私の賜物は○○です」と自信を持って応える人がいる以外は、多くの人が「分かりません」とか「私には賜物なんてありません」「賜物って何ですか」と応えるような印象を持っています。

賜物をある種の才能というふうに理解してしまうと、自分にはそういうものはないと言いたくなるでしょう。また賜物は「御霊の賜物」だから、クリスチャンになる前に持っていた才能や技術とは無関係な、何かミステリアスで、霊的な何かだというふうに捕らえる人もいますが、それは狭すぎる考え方です。

「恵みの良い管理者」という言葉があるように、神様は私たちに様々な恵みを与えておられますが、特に、教会の交わりや働きに用いるようにと備えてくださっているものを賜物と理解しましょう。

1.ゴールに向かっている

ところで7節で使徒ペテロが「万物の終わりが近づきました」と書き出します。私たちが生きている時代をどう捕らえるかということです。「万物の終わり」というと、この物質世界が終わるとか、世界が破滅を迎える、みたいな印象を持つかも知れません。そう読むと「世界の終わりが近いから、気を引き締めて祈り備えなさい」という勧めとして理解されます。しかし2000年経った今も、世界はまだ終わっていません。どういうことでしょう。

この箇所は、原文では「すべてのものごとの終わりが近づいた」という文です。世界の終わりや破滅の話しをしているのではなく、救いの完成が近づいているという話しをしているのです。神様が備え、キリストによって実現した救いの計画の完成の時が近づいている、ということです。それは罪と死に支配されたこの世界から信じる人だけを救出する、ということではなく、罪と死に支配されたこの世界を救い、回復させるという大きな計画が、イエス様の十字架と復活によって、いよいよゴールに向かっているということです。言い換えるなら、神様はイエス様によってもたらされる赦しと新しいいのち、恵みをますますこの世界にもたらそうとしているということです。

このようなときに、最も重要な役割を果たすのが教会であり、教会に連なる一人一人のクリスチャンなのです。来るべき破滅から逃れるために緊張して正しく歩みなさいということではなく、救いの完成に向かって私たちに委ねられている務めを自覚して日々を大切に生きなさいと言っているのです。

2.愛と交わり

では私たちのなすべきことは何でしょうか。使徒ペテロは「何よりもまず」と言って、愛と交わりを挙げます。

この命令は、教会のあり方を前提に考えると何を言わんとしているかが良く分かると思います。何度も言うように、最初の数百年、教会は教会堂というものを持つことがありませんでした。町の中のいくつかのリーダーたちの家々に集まって食事を共にしながら、日常生活の延長の中でともに主を賛美し、みことばを学び、互いに教え合ったり、励まし合うことが教会の基本的な姿でした。

早めに集まった人たちは一緒に食事の準備をしながら生活の中での困りごとを相談したり、嬉しいこと・辛いことを分かち合い、会話の中で自然とみことばに根ざした生き方を学び合いました。みことばを学ぶのも一方的に説教を聞くというのではなく、旧約聖書や使徒たちから送られて来た手紙を文字を読める人が朗読し、その教えについて話し合いながら理解を深め、生活に当てはめていきます。とても家族的で親密な交わりでしたので、時には人間の罪深い面が出てしまうことがあります。また家に招くことや奉仕において、経済力の違いや置かれた状況の違いによって負担に偏りが生まれて不満が出てくることがありました。そうすると交わりの中に危機が訪れます。だからペテロは、ただ集まればいいというのではなく、互いの弱さや失敗に対して寛容さ、赦しをもたらす愛と、不満ではなく喜んで交わりを築くよう告げたのです。そうした交わりが神様の宣教のゴールへと近づく最も重要なものなのです。神の恵みが支配する人々とその交わりがどのようなものか見えるからです。

3.仕え合うこと

そこで大事なことは、それぞれ各人が賜物を与えられているから、それらを用いて互いに仕え合うことです。互いに仕え合うことで、お互いの欠けや弱さを補い合い、まるで一つの体の各部分のように、あるいは一つの家の柱や壁などの各部材のように、結び合わされ強くされ、成長したり、よく用いられる集まりとなっていくのです。

ペテロは賜物の用い方について、「恵みの良い管理者として」人のために使いなさいと語ります。先ほども言ったように、賜物というのは特殊な能力でも、人より優れた才能という意味ではなく、教会の交わりや働きに用いるようにと神様が私たちそれぞれに備えてくださっているものです。例えば、聖書の中に記されている賜物リスト、たとえば11節には「語るのであれば」とあります。何百人もの聴衆を前に雄弁に語る技術とメンタリティを持つ人もいますが、小さな子どもが聞き入るような物語の語り方できる人もいます。それは優劣の差ではなく、用いるべき場面が違うだけのことで、神様はその人にふさわしく与えます。また「奉仕するのであれば」とありますが、教会のトーンチャイムやウクレレをやり始めた人たちは自分がこんなことができると思っていなかったかも知れません。プロの演奏家と比べたら技術的にも経験値も音楽知識も劣っているかも知れませんが、地域の活動や高齢者の施設で人々を笑顔にする立派な働きができています。

適用:与えられた恵みの使い方

確かに聖書によれば、賜物というのは、聖霊の賜物と呼ばれています。しかしそれは、それは超自然的なものというより、神様がその人に備えてくださっているものが、聖霊の助けによって開花したものと言えます。

ピリピ2:13を開いてみましょう。互いにへりくだって互いに仕え合いなさいと教えている箇所です。聖書によれば神様が備えてくださるものというのは「志」として表れます。もっと具体的に言えば、私たちが生まれてから今までに経験したこと、学校や人生で学んだ事、仕事や趣味の中で身につけたこと、得意なこと、関心があることの中に現れます。それらを自分の生活や趣味のために留めず、神様の働きである、教会の交わりや宣教のため、あるいは地域社会の隣人のために用いようとするときに、より明瞭に賜物として認識できるようになります。

問題は賜物がないのではなく、神様が私たちそれぞれに「これを使ってわたしの働きのために仕えなさい」と与えてくださった恵みの数々に気付かないままでいたり、また用いる場面を仕事や家庭、趣味の中に留めてしまうことにあります。

だから最初にすべきことは、教会の交わりを大切にし、愛し仕えよう、それが神様の願いだと確信して、私たちの人生の大事な目的に据えること。そして、神様が私に与えてくださったものは何かを一つ一つ数え上げながら、私に与えられた賜物は何か、何を使えばよりよく兄弟姉妹や社会に仕えることができるか、どう使えば福音の証に役立てられるかと棚卸しをしてみることです。今日はこの後の分かち合いの中で3~4人のグループを作って、週報の「思い巡らし」というところにある質問をヒントに自分に与えられた恵みを振り返り、恵みの良い管理者としての一歩を踏み出しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたは教会を通して、ご自身の救いと恵みをこの世界にもたらそうとしておられます。そのために、私たちが互いに愛し合い、仕え合うことが大切であることを学びました。そのために与えられた恵みの数々を知り、私なりの仕え方ができますように。教会の交わりが愛に満ちたものとなり、恵みが周りの人々に拡がっていきますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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