2025年 12月 7日 礼拝 聖書:ルカ4:1–15
会社勤めや家業の手伝いなどで最初に任された仕事はどのようなものだったか覚えているでしょうか。もしかしたら掃除だったかもしれないし、簡単なコピーとかだったかもしれません。
イエス様も父ヨセフの仕事である大工の技術を身につけるために、最初にやったのは材料運びや道具の手入れ、掃除とかだったかもしれません。それは技術がない者に任せる雑用ということではなく、仕事全体の土台となることです。
イエス様の生涯における最も重要な務めは神が約束された救いの実現でした。そのスタートは前回見たように、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けることで、神ではなく人として、罪ある者、汚れた者の側に立ち、徹底してへりくだり仕える者としてのあり方を示すことでした。
そして今日の箇所は、働きを始めた時のいわば最初の仕事です。この経験にはどのような意味があったのでしょうか。
1.荒野の試み再び
イエス様が最初に向かったのは「荒野」と呼ばれる場所でした。砂漠ではないですが、起伏のある乾燥した土地で、背の低い灌木がまばらに生えているだけの、まさに荒れ地で、人間が生活を営むエリアとは明確に区別された場所です。日中は厳しい日差しが肌を焼き、逃れる大きな木もありません。夜は一気に気温が下がり、また狼などの危険な生き物が徘徊するような場所です。
イエス様はそのような荒野に行き、40日間断食をしたのです。しかし、これはイエス様の計画ではなく、聖霊の導きによるものであったことが1節に記されています。
ヨハネからバプテスマを受け、天からの声によってご自分が何者であるかについて確信を持ち、聖霊が降って、その力に満たされたイエス様は、いきなり人々の前に出ていって華々しいデビューを飾ったのではなく、聖霊に導かれるまま、誰もいない荒野へと向かいました。
想像してみてください。イエス様には語るべきメッセージがありました。人々の救いのためになすべきことがありました。悩み苦しんでいる民はずっと神の救いを待ち望んでいました。すぐにでもそういう人たちのところに行きたいと思うのではないでしょうか。
しかし聖霊は、荒野へと導き、40日間断食の中で試みを受けるようにされたのです。何の意味があったのでしょうか。精神を研ぎ澄ませるための苦行でしょうか。飲まず食わずで40日も厳しい環境で生き延びることなんて本当に可能だったのか疑う人もいます。そもそもなぜ40日なんでしょうか。
40日というのは、旧約聖書の中でとても象徴的な日数です。ノアの大洪水のときは雨が40日40夜降り続けたそうですし、モーセがシナイ山で律法を受け取る時も40日断食をして祈りました。
しかし、荒野での40日となると、やはりエジプトを脱出したあとの、40年の荒野の旅とつながりがありそうです。
エジプトを脱出したイスラエルの民は、約束の地を目指していました。それは、約束された国を建国するということ以上に、この世界に神の祝福をもたらすという大きな使命を彼らが果たすためでした。約束の地を目の前にしたとき、12人の偵察部隊が40日間の偵察活動を終えて帰って来たとき、ヨシュアとカレブを除く10人が「あそこにはでかくて強い民族がいるから、行ったら危ない、やられる」と言い出し、多くの民がそれに同調します。イスラエルの民は神を信頼することができなかったのです。それで神に信頼し、従うことを学ばせるために40日にちなんで、40年の荒野の旅が課せられたのでした。
その後もイスラエルの民は、その歴史を通して、いつも神に信頼し、神の祝福を世界にもたらすという使命を果たすことでは失敗し続けました。
イエス様が救い主としての働きを始めるにあたって荒野で断食をし試みを受けたのは、失敗を繰り返してきたイスラエルの民と同じ試練を受け、それを乗り越えることで、初めて救い主として説得力のある働きができるからです。
荒野の試練には、この方こそ、かつての先祖達が成し得なかった務めを果たす資格があることを証明する意味があったのです。
2.悪魔の誘惑
40日間の断食自体、肉体的にも精神的にも厳しい試練だったには違いありません。
「試み」と訳されている言葉はペイラゾーというギリシャ語なのですが、文脈によって「試練」とも「誘惑」とも「試みる」とも訳されます。聖書の中でこの言葉がどのように用いられるかというと、一つは神が人々を訓練したり神に対する忠実さや信頼を試すために与えるものとして試練があります。神様が試練を与えるのは、愛のゆえであるとヘブル12:4~11に記されています。その場合、神様は直接私たちを苦しめるということではなく、人生の中で誰もが経験するような苦難にあえて直面させるとか、自分の失敗の刈り取りをするような形で試練を受けることが多いと思います。しかし同じ言葉を使って、ヤコブ書では神が私たちを罪に誘惑することはないとも断言しています。罪へと誘惑するのは、悪魔であったり、欲深い人間であったり、自分のうちにある欲望であったりします。
いずれの場合も私たちの決意や神への信頼が試されますが、神が試練にあうのを許すのは愛のゆえに私たちがより確かな信仰と確信に立って生きるようになるためですし、悪魔が私たちを試す場合は、私たちから神への信頼を失わせ、罪を犯させるためです。私たちが人生の中で経験する試みといのは、一つの経験の中に神の訓練と悪魔の誘惑が同時に起こる場合がほとんどです。
さて、3節から12節には悪魔による3つの誘惑とそれに対するイエス様の対応が描かれています。
これらの3つは、このあとイエス様が働きの中で繰り返し経験するものであると同時に、失敗し続けたイスラエルの民が繰り返し敗れてきてしまった誘惑でもあります。
神の力を神の目的ではなく、自分の欲や勝手な願いのために用いようとしたり、神に従うことより必要を満たしてくれる神の力だけを求めようとすることは、どんな時代の人間も陥りやすい罠です。
また権力と栄光に対する誘惑は、イスラエルが王国の歴史の中で繰り返し屈してきたものです。神に従うより、力を増し加え、軍事力を増強し、政治的な知恵や手腕で安全保障を取り付けたり。しかし、そうしたことはより強大な国の出現や同盟を組んだ相手の裏切りでいとも簡単に覆されてきました。
聖書の言葉をねじ曲げて神を試すようなことは、酷いものでした。イエス様の時代の指導者たちも同じことを繰り返しました。
それらに対してイエス様は、申命記のことばを引用して悪魔の誘惑を退けます。誘惑に立ち向かうには聖句を唱えればいいという単純な話しではありません。イエス様が引用した申命記というのは、まさに荒野の40年の旅が終わろうというときに、その試練の旅路を通して学んで来たはずのことをモーセが改めて教え聞かせている言葉です。
人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きるのだ。偶像に心を寄せないで主だけを礼拝し、仕えなさい。神の愛や真実を試すようなことがあってはいけない。しかし、イスラエルの民はその後も、失敗を繰り返しました。その試練をイエス様がここで経験なさり、誘惑を退けることで、救い主となり世界に神の祝福をもたらす務めにあたる資格があることを示されたのです。
3.人々の称賛
イエス様は試練を乗り越え、ガリラヤに戻られました。ここで注目しなければならないのは、一連の出来事が御霊の導きによってなされたということです。イエス様はヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたあと、聖霊に満たされてガリラヤへ戻り、そこから聖霊に導かれて荒野で試練を受けました。悪魔の誘惑を退けたイエス様は再び御霊の力を帯びてガリラヤに帰りました。
神である方が人となって仕え始めたとき、イエス様は自分の力ではなく、聖霊の導きと聖霊の助けをいただいて働きました。初代教会はその姿を引き継ぎます。ルカが福音書の続編として書いた使徒の働きでは、教会が聖霊に満たされたペンテコステの日に働きを開始し、その展開においても絶えず聖霊の導きがありました。
福音書を受け取ったテオフィロやクリスチャンたちは、教会が歩んで来た道のり、拡がって来た道のりを振り返れば、そこにいつも人間の計画や力を越えた聖霊の力と導きが絶えずあったことをすぐに思い出すことができました。ルカは使徒たちが教会を生み出し建て上げる働きをするにあたって、聖霊の導きを大切にしてきたのは、それがイエス様のやり方に倣ったことであることを示そうとしているのです。それは当然、現代の私たちも、イエス様と使徒たちがとった方法にならうことを意図してのことであるわけです。
聖霊に導かれ、聖霊の力をうけたことでイエス様はどうなっていったでしょうか。14~15節に簡単なまとめがあります。
具体的なことは書かれていませんが、イエス様の評判がガリラヤ一帯に広まり、ガリラヤ地方のユダヤ人会堂で人々を教えると誰もがイエス様を称賛したということです。
何がそんなにイエス様の評判を上げたのでしょうか。1:23でイエス様が故郷のナザレで語った言葉が記されています。「きっとあなたがたは…「カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ」と言うでしょう」。つまり、ナザレの人たちはカペナウムでイエス様がなさっていたこと、それは31~44節に書かれているように、汚れた霊につかれた人から霊を追い出したり、病気で苦しんでいる人たちを癒すといったことでしょう。そして32節にあるように、イエス様の教えには他では聞いたことのないような権威があったそうです。
イエス様の奇跡は確かに人々の目を引くものでした。だからこそ、故郷の人たちは「おれたちにもやってみせてくれ」と言ったのでしょう。その期待は、救い主に対する偏った期待に根ざすものだったでしょうし、石をパンに変えてみろと悪魔が言ったように、自分たちに都合良くイエス様の力を使って欲しいということだったのでしょう。
しかし重要なことは、たとえ人々が偏った期待や自己中心な願望があったとしても、確かにイエス様の教えと行いの中に、神の恵みが表れていることに気付いたということです。今月の聖句としてヨハネ1:14を挙げましたが、その通りに、聖霊に満たされたイエス様の人柄、話し方、態度、行い、聖書理解の確かさなどに神の恵みが表れていたのです。それはイエス様だけのことではなく、私たちクリスチャンが聖霊の導きの中にあるときにもはやり、人柄として、態度として、福音の理解の仕方において、神の恵みが表れるものだと聖書のあちらこちらで教えています。
適用:イエスご自身を見る
さて、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。
私は、ガリラヤの人たちが聖霊の力に満たされたイエス様ご自身を見て驚き、称賛したように、イエス様というお方をよく見なさいということを教えられる思いがしています。
イエス様は、神に選ばれた民であっても、どうしても乗り越えられなかった試練を乗り越え、悪魔の誘惑を退けました。もちろん、そうした誘惑はイスラエルの民でなくても、人間であれば誰しも弱いポイントです。神のことばに従うより、神の力を利用したいという気持ち。他の神々や主なる神様以外の何かに頼るほうが現実的で、ものごとがうまく行くんじゃないかと思ってしまうこと。神の真実さや愛を試そうとする誘惑。そうしたことは私たちの日常の中に転がっています。そういう意味では、私たちは神様の祝福を世界にもたらす器としては全く不適格です。
ところが、イエス様はそういう私たちを教会という神の家族に結び合わせ、この世界に置き、遣わして、福音を宣べ伝え神の祝福をもたらす器として選んでくださっているのです。どうやったらそんなことが出来るんだろうかと戸惑い、恐れます。
だからこそ私たちは、イエス様がどのようになさったのかによく目を凝らさなければなりません。そうすると、イエス様がご自分の力ではなく、聖霊の導きと力に頼っておられたことが分かります。そしてその結果として人々に大きな影響を与えたことが見えてきます。人々は、めいめい勝手な理解や期待があったかも知れませんが、それでもイエス様のうちに神の恵みが表れていることに気付くことができたのです。
であるならば、私たちもまた自分の能力や力を用いるのだけれど、それに頼るのではなく、聖霊の導きと力に頼ることは必要です。祈ること、待つこと、神のことばである聖書から学ぶこと、助けを求めることが大事です。
実は、悪魔がイエス様を誘惑したときのように、神様がどう考えているかや神様の願いより自分の願いや必要で心が一杯なとき、神様に信頼するより他の何かに心を向けているとき、神の愛や真実を試そうとするような傲慢さの中にあるときは聖霊の導きも助けにも気付くことができません。聖霊の語りかけや導きは、へりくだった静かな思いの中で捕らえることができるものです。有名な話しですが、現代人が一日でスマホを通して触れる情報量は、100年前の人が一生掛けて触れる情報量と同じくらいと言われます。それほどに情報過多な世界に生きていて聖霊の語りかけに気付くにはよほど注意深くなければなりません。
そして、聖霊の導きの中にあるときに、私たちもまた周りの人たちから称賛を受けるかは分かりませんが、大きな影響を及ぼし、神の祝福をもたらす器に成り得ることを信じましょう。病人を癒す奇跡は起こせないでしょう。しかし心のすさんだ現代人に、御霊の実と呼ばれる愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が癒やしをもたらすのは間違いありません。聖霊に導かれた私たちの生き方が、誰かの心を動かすのです。
先日、ある集まりで知り合いのお坊さんが「真輝さんに会いたい。癒されるから」というようなことを言っていたそうです。自分が聖霊に満たされていると自慢するわけではありませんし、その人の真意も良く分かりませんが、確かに何かしらの影響を与えているのだなあと思わされます。
ですから、イエス様ご自身に目を向けることが重要です。とても古典的な言い方になりますが、イエス様ならどうするだろうか。イエス様ならどの道を選ぶだろうかと自らに問う者に、聖霊は働いてくださいます。
祈り
「天の父なる神様。
私たちは相応しい者ではなく、十分な力もありませんが、神の祝福と恵みをもたらす器として選んでくださいましたから、聖霊様の助けと導きを与えてください。いつもイエス様ご自身に目を向けさせてください。イエス様がなさった道を私たちも辿ることができますように。
イエス様のお名前によって祈ります。」