2025-12-21 恵みとまこと

2025年 12月 21日 礼拝 聖書:ヨハネ1:14

 今日はクリスマスということで、こうして皆さんとともに御祝いできることを本当に嬉しく思います。

クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことを御祝いする時ですので、イエス様に注目したいと思います。私たちの家族や友だちの誕生会なら、注目すべき主人公は目の前にいますが、いまイエス様をこの目で見ることはできません。しかし、イエス様は私たちと共にいてくださるので、想像の翼を広げつつ、聖書の言葉に耳を傾けることを通して、イエス様に注目したいと思います。

1.その栄光

今日お読みした聖書箇所には若干謎めいた書き方でこう書かれています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。これが神のひとり子が赤ん坊となってお生まれになった、クリスマスの出来事を表しています。

なぜ神のひとり子イエス様を「ことば」と呼んでいるかを説明し始めると長くなるので端折りますが、ごく簡単に言うと、イエス様が神の考えや思いを表す方だからです。その方が、文字で書かれたり耳で聞こえる言葉だけでなく、目に見える存在として私たち人間の世界に来られたことを、「私たちの間に住まわれた」と言っているのです。

そしてこの言葉を書いたヨハネは「私たちはこの方の栄光を見た」と言います。

神様がこの世界においでなる、そのお姿を表す、あるいは姿は見えないとしても、その存在を示す場面というのが、聖書の中に度々出てきます。

例えば、人の生き方についての基本的な命令として有名な十戒が授けられるとき、神様はシナイ山という山においでになりました。その時、神の栄光が山全体を覆ったことで、山は厚い雲に覆われ、雷鳴がとどろき、稲妻が走りました。それはもう恐ろしいほどの光景でした。あるいは、人々が神様を礼拝するための場所を作ったときはやはり、その場所に神の栄光が現れ、雲がその場を覆い尽くしたために誰もそこに入れないほどでした。

神の存在はあまりに大きく、聖く、それに比べて人間はちっぽけで、罪ある者で、神の栄光に直接触れることは恐ろしいほどのことだったのです。大自然の中に一人たたずんだ時に感じる美しさと恐ろしさが入り交じった畏怖の念を何倍にもしたような感覚です。

イエス様が赤ん坊となってこの世界においでになったのは、今からおよそ2000年前のことですが、イエス様もまたその栄光を表し、実際イエス様と共に過ごした人々は、その栄光を見たというのです。しかしその栄光は、かつて神の栄光を見た人たちが恐怖で固まってしまったようなものではありませんでした。

2.恵みと真実

イエス様の栄光は、「恵みとまことに満ちておられた」と言われているように、恵み深さ、真実さとして表れました。

当時のローマ帝国は現在のヨーロッパの大部分や西アジア、アフリカ大陸北部までを支配下に置き、「ローマの平和」と呼ばれる安定と豊かさをもたらしました。またイエス様が生まれたユダヤは、神がローマの支配から救い出して民族の誇りを取り戻させてくれるのを期待して戒律を熱心に守って暮らしていました。その戒めの中には、貧しい者を省みて社会全体で支えるようにという教えもありました。それでも、ローマの支配によってもユダヤの宗教的な取り組みによっても、取りこぼされ、誰も助けようとしない、あるいは助ける力がなくてただ放置された、病人、悪霊につかれた人、汚れとみなされる特定の病気にかかった人などがたくさんいました。そういう人たちは、蔑まれるか、手の掛かる面倒な人たちと困りもの扱いされるか、さもなくばまるで存在しないかのように無視される人たちです。

しかし、イエス様はそのような人たちにこそ目を向けました。その眼差しは慈しみに満ちておられ、たとえ罪ある者でも、ただ罪人と断罪するのではなく、愛を示されました。大勢の病人や貧しい人たちが集まっていると心から可哀想に思い、一人一人に手を置いていやし、慰めを与えました。大勢の人たちに取り囲まれ、一人つるし上げられている売春婦を責めるより、罪のない人から彼女を裁けばいいと言って皆がその場を立ち去るのを待って、それから赦しを与え、優しく諭しました。その恵み深さは、イエス様の教えが真実であることを表していました。

そして、イエス様の愛と真実を一番強く表しているのが十字架です。十字架は綺麗なアクセサリーではなく、死刑の道具です。イエス様は人々の憎しみや妬み、悪意を背負って十字架につけられましたが、神はその苦しみと死を、私たちが受けるべきだった、それぞれの罪の報いを代わりに引き受けるものとしくださり、誰であっても赦され、新しい人生を生きることのできる救いを備えてくださいました。私たちがイエス様の恵みと真実を受け取って、喜びや安らぎを得るだけでなく、私たちも誰かに恵みと真実を与える生き方に変えられるためです。

3日目によみがえられたイエス様は天に帰られて、今はこの目で見ることはできなくとも、その言葉と働き、振る舞いは聖書に記されていて、今も生きておられるイエス様が恵み深く真実なお方なのだということを知ることができます。

適用:私たちの救い主

この後、ご一緒に歌う賛美歌の歌詞に「入れまつる家あらず 休めまつる宿もあらず」とあります。入っていただく家も、休んでいただくための宿もなかった、という意味です。いのちを狙います。人々も喜ぶよりは不安がりました。

神が人間の世界に来られたというだけでなく、そういう人間の闇の深さのただ中に来られ、そういう中にいる私たちを救うために来られたのです。

賛美歌の最後の歌詞には「内の戸を開き 真心より汝を迎えん」、心の扉を開いて、真心をもってイエス様を迎えます、という意味です。

誕生日のパーティで主役をドアの外に立たせたまま御祝いを始める人はいません。まっさきに迎え入れてお誕生日席に座ってもらいます。クリスマスはイエス様がお生まれになったことを御祝いする日ですから、いちばん相応しいのは、この交わりの中に、そして私たちの心の中の一番いい席にイエス様をお迎えすることではないでしょうか。どうぞ、私たちのところにも来て、一緒にいてくださいと祈りましょう。

祈り

「天の父なる神様。

クリスマスを祝うこの日に、聖書の言葉に聞きながらイエス様に注目してきました。

私たちの救いのためにおいでくださったイエス様を、私たちも自分の心の中に、そして、この交わりの中心にお迎えできますように。

イエス様の恵みを真実によって、贈り物として与えられる愛と赦し、慰めと平安を私たちのものにすることができますように。そして私たちも受け取った愛と慰めを、他の人々に贈り物として届けることができますように。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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