2026年 2月 15日 礼拝 聖書:ルカ6:1-16
クリスチャンであるどうかを問わずに信仰生活を、ある種の規則に従う生活だと誤解していることがあります。仏門に入ることは、生ものや四つ足のものを食べず、規則正しい生活と修行を受けることというイメージを持つように、クリスチャンになることはあれを守り、これを守り、具体的にはよく分からなくても、何かしらルールに縛られた堅苦しい生活だと思っている人が多いのではないでしょうか。クリスチャンになっても、そのようなイメージを持ち続ける人はいます。
確かに聖書には様々な命令が書かれていますが、それらは私たちの生活を縛る規則のリストではありません。それらの教えの意図を正しく受け取らず守るべき規則のリストとして受け取ってしまうと、ルールを守っているかどうかで安心したり、人をさばいてしまったりします。
聖書の教えが本来の意図とは違った使われ方をすることで、救われるべき人が救われなかったり、得られるはずの恵みより、周りの人たちからの批判や軽蔑が向けられることが残念ながらあります。
今日は二つの安息日の出来事をきっかけに起こったイエス様とパリサイ人たちの論争を通して、イエス様が私たちに何を与えようとしておられるのか、また聖書が私たちに示す教えは何を意図しているのかをご一緒に考えてみましょう。
1.安息日の麦摘み
最初の論争は、ある安息日に麦畑でイエス様の弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めたことがきっかけでした。
日本で通りがかりの人が畑の作物に手を出したら大ごとになりますが、ユダヤの律法では畑の端から手の届く範囲は貧しい人や空腹な人への施しとして食べても良いことになっていました。麦の穂を摘んで実を揉み出し、噛み続けていると空腹をしのげるのだそうです。どんな麦でも生で食べられるわけではないようですし、決して消化には良くありませんので、あくまで非常用ということだと思います。
問題になったのは、その日が安息日だったこと。そして麦の穂を摘む行為が安息日に禁じられていた労働に当たるという点でした。
安息日についての命令は出エジプト20章に出てきます。ご存じの方も多いと思いますが、改めて開いてみましょう。
安息日にすべての労働を手放して、神が祝福された日を喜ぶために、家族だけでなく奴隷にも休息を与えるべきでした。そしてこの律法は神が天地創造のときに6日間ですべてをお造りになり、7日目に休まれたということに由来しています。
神に造られた世界に生きる人間が、神の定めたリズムの中で休息し、丸一日は仕事をしなくても神の養いと守りがあることを信頼して労働を手放し、いのちをリフレッシュするのが安息日の最も重要な意義でした。
ところが、パリサイ派の人々は安息日は聖なるものとして「働いてはならない」の部分に焦点を当てすぎました。彼らは聖別することを、禁止事項を正確に守ることで達成しようとしたのです。それでこの時もイエス様の弟子たちの行動について眉をひそめ、批判したのです。
それに対するイエス様の答えは、安息日律法についての細かな解釈やパリサイ派の人たちの労働に関する聖書解釈の間違いを指摘するのではなく、聖別するということは禁止事項を守ることではないという説明のために、サムエル記に記されているダビデ王のある出来事を取り上げます。
ダビデと従者たちが追っ手を逃れて空腹だったときに、祭司のところに行き食べ物を分けてもらいたいと頼みました。生憎そのときは神様の前に献げられた神聖なパンしかありません。それは聖別されたものであり、一日の終わりに取り下げられた後は祭司だけが食べることを許されていました。ところが祭司はダビデと従者たちが困っているのを見て、そのパンを提供したのです。
つまり、祭司はパンの聖別という規則よりダビデたちの困窮した状態を何とかする方を優先し、誰もこの祭司やダビデたちを非難しませんでした。
さらにイエス様は5節で「人の子は安息日の主です」と言っています。人の子とはイエス様ご自身のことですが、ご自分が安息日の主であるというのはかなり大胆な発言です。ユダヤ人にとって安息日律法は最も重要な律法で、神がモーセに与えた十戒に含まれます。イエス様はご自分がその安息日に覚えられるべき神と同等であると言っているのです。イエス様はそう言うことで、安息日の本来の意図が禁止事項を守ることより人のいのちを救うことにあるという説明が正当なものだと宣言しているのです。
2.安息日のいやし
別の安息日に二つ目の論争が起こりました。ユダヤ教の会堂でイエス様が人々を教えているとき、右手の萎えた人がいました。
イエス様に付きまとっていた律法学者とパリサイ人たちは、イエス様がこの男をどうするかじっと観察していました。
もし彼がいのちの危険があったなら、たとえ奇蹟を起こしていやしたとしても文句は言わなかったでしょう。彼らも「いのちの危険がありそうなら、それは安息日に優先する」と解釈し、緊急時には救命が優先されると教えていたのです。しかし、いのちの危険がないならば、治療するようなことは絶対に認めませんでした。
彼らは早くもイエス様を訴える口実を探そうと、イエス様を観察していたのです。
イエス様には彼らの魂胆がよく分かりましたので、この男の人をわざわざ皆の真ん中に立たせました。イエス様が自分の病気に気付いて、今ここでいやしてくれるのかもしれない、という期待があったかも知れません。じっと様子を伺っている律法学者達やパリサイ人たちの視線を感じながら、それでもイエス様は何かしてくれるのだろうかと期待と不安が入り交じっていたのかもしれません。
右手の不自由な人を目の前にしてイエス様はパリサイ人たちや律法学者に尋ねました。安息日の律法が禁じていることは何かではなく、安息日律法の精神に叶っていることは何か、という問いです。イエス様は規則を規則として守ることより、その規則が何を意図しているかという理解に立つべきだということを示したのです。
「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか」
神様が定めた安息日の律法は、人間が神様の創造された世界に、神によっていのちを与えられた存在であることを認め、神に信頼し、働く手を休めて神が与えようとしておられる安息を得させるためのものです。それによって私たち人間が忙しさやプレッシャー、ストレスの中で人間性や喜びを失ったりせず、人間らしさを取り戻し、喜びや平安を味わい、生きる力を取り戻せるのです。
働き過ぎが人間にどんな悪影響を与えるかは詳しい研究データを見るまでもなく、身近な人たちの顔や健康を見れば一目瞭然です。
安息日の律法にかなっているのは、神の前で人にとって良いこと、肉体の生命だけでなく魂の健やかさを含めたいのちを救うことに違いありません。
彼の右手の麻痺が病気によるものか、怪我によるものかは分かりませんが、右手が使えないことは日常生活にも支障があるでしょうし、仕事をするにもかなり制約があったはずです。彼の手を癒すことは、彼の人生や生活を取り戻すこと、いのちを救うことです。しかしイエス様の問いに面と向かって答える人はいませんでした。誰もがイエス様の言葉が正しいことをすぐに理解できたのです。しかし、彼らは自分たちの律法解釈を曲げたくはなかったので、黙っているしかありませんでした。
イエス様は、これからすることをよく見ていなさい、これが安息日になすべきことだと言うかのように全員を見回してから、真ん中に立っている人に「手を伸ばしなさい」と言われると、彼の手はたちどころに回復し、自由に動かせるようになります。
3.律法は何のためか
パリサイ人や律法学者達はぐうの音も出ずその場は引き下がりますが、心の内では怒りに満ちていました。彼らは自分たちの間違いを認めて考えを改めるよりは、イエス様を敵と見做し、どうしてやろうかと話し合いを始めました。
一方イエス様は、弟子たちの中から12人を選び、彼らの使徒という立場を与えました。12人という数字は、明らかにイスラエルの12部族を意識した数字です。イエス様は、律法によって結びつけられた12部族による神の民、というものをバージョンアップして、12使徒たちから始まる、律法と民族を超えた新しい神の民を生み出そうとしていました。新しい神の民に対してイエス様はいのちを救う方であろうとしたのです。
イエス様は2度の安息日論争を通して、律法とはもともと何のために与えられたのかを教えようとされたと言えます。それは、旧約の律法に縛られない私たちが聖書を読むときの道標にもなります。つまり、聖書に記された様々な命令は何のために与えられているのか、ということです。
端的に言うなら、律法は人いのちを救うために与えられました。人間は神から離れ、罪と死に支配されて、人間に本来与えられているいのちの輝きと喜びを失ってしまいました。そのような人間が、神との交わりを回復し、家族や社会の中での混乱を収めて、神の民とされた人たちがどんな生き方、どんな社会を築けるかを周りの国々、民族に証するために律法は与えられました。
律法はただユダヤ人を宗教的に縛るために与えられたのではなく、罪ある人間が神とともに歩む時に家庭や社会に豊かな祝福がもたらされることを世界中に見せ、いっしょに神とともに歩もうと宣べ伝えることができるものだったのです。
ところが、ユダヤ人の先祖達は、そのような生き方を好まず、他の国々と同じような生き方を望み、結果国を失い捕囚となりました。パリサイ人たちはそのような過去を繰り返さないようにと注意深く歩んだのですが、残念なことに彼らは律法を守ることを、規則を規則として守ることとしか受け止めませんでした。律法に込められた神様の意図を見失い、守るべき規則としてしまったのです。
使徒パウロも律法は人間の罪を明らかにするけれど、それ自体に人間にいのちをもたらす力はなかったとローマ書で説明しています。人は内側から造り替えられる必要がありました。心が変えられ、考え方が変えられ、動機が変えられて、始めて生き方が変わります。手に麻痺のある人に規則として安息日律法を守らせても、その人の生活と人生を根本的に解決しまませんでした。彼が働けるようになり、人生を取り戻すためには手が動かなければしかたありません。イエス様はいのちを救うために安息日であっても癒やしを与えました。
この奇蹟は、イエス様が新しい神の民を、規則によって形作るのではなく、内側から新しくし、新しいいのちを与えることで新しい神の民を形作ろうとしていることを表していると云えます。それは手が癒されるよりももっと重要で驚くべき奇蹟です。病気が治っても元のひどい生活習慣に戻って行く人が多いように、外側は直せても内側は簡単には直せません。しかし、イエス様は私たちのいのちそのものを救ってく新しい民としてくださるのです。
適用:見つめ直して
さて、今日の箇所を今日の私たちの教会に当てはめようとしたとき、どこにポイントを置くかは重要です。
もし、安息日を「主の日」と呼んでいる日曜日に置き換えて、主の日に何が相応しいか、という話しにするだけだと少し表面的に過ぎるように思います。
様々な規則、特に禁止事項を守ることで、神に認められる新のユダヤ人はどのような人なのかを決めようとしたパリサイ人や律法学者達に対して、イエス様は何をもたらすために来たのかを明らかにしましたので、そのことを教会の課題として考える必要があるのではないかと思わされます。
実際、キリスト教の歴史の中で、クリスチャンは「こうしなければならない」とか「こうしてはならない」というルールが、規則であれ、暗黙の了解であれ、結構作られてきました。それらは聖書がはっきり原則として示すよりもはるかに厳しい内容であることがしばしばでした。
たとえば、宗教改革者の一人であるカルヴァンの影響を強く受けたジュネーブの町では、日曜日は聖日とされ、市民は礼拝に参加することが強く求められ、娯楽や商売は禁止されました。その細かさは日曜日に木を剪定したりレース編みをするようなことまで禁止事項とし、さらには教会の牧師と長老たちが街中を監視し、違反者を取り締まったそうです。
この行き過ぎた姿勢は後の時代まで、日曜日を安息日としてとらえる感覚に大きな影響を与えました。今でも、日曜日に仕事をする、遊びに出かけるといったことを後ろめたいこととして感じるクリスチャンは結構います。
もちろん、礼拝を大事にすることは良いことですが、守るべきルールとして捉えてしまうと、礼拝に出席することがゴールになってしまいます。
それ以外にも、クリスチャンに何が相応しく、何が相応しくないかということをルールにしてしまうと、リストを守ることが目的になってしまいがちです。
バプテスト教会では、水に沈めるバプテスマを大事にする伝統から、水を振りかけるやり方の洗礼に対して拒否感があり、それはホンモノのバプテスマじゃないから、うちの教会員になりたいならバプテスマを受け直してください、という明確な決まりがありました。私たちの教会もその流れにあったので、何の疑いもなくそうしてきました。
けれども、私はその考え方に大きな疑問を感じ、改めて聖書と歴史を学びなおし、大事なのは、イエス様を信じる信仰と、その告白としての洗礼であることや、神様がその人を導いた教会で受けた洗礼を同じキリストにある教会の一員として尊重すべきだと確信しました。そして教会の皆さんと話し合い、水に沈める形であれ、水を掛ける形であれ、それが信仰の告白としてなされたものなら喜んで受け入れることになりました。
もしかしたら、私たちは他に、もいのちを救うために聖書を通して主が教えてくださっていることを越えて自分たちの解釈や人間が作り上げた伝統や前例にならって、いのちを与えるよりルールで縛っているだけのことがあるのかも知れません。ルールが不要ということではありませんが、それを守ることで何をもたらしているかをちゃんと見極めなければなりません。優先すべきは、人のいのちが救われること、回復されることだという理解に立って、やめるべきことはやめ、改めるべきことは改めていく必要があります。そうでないと、パリサイ人たちのように、「なんで決まりを守らないのか」という怒りに満たされた信仰になってしまいます。イエス様は怒りではなく、いのちと喜びをもたらすためにおいでになったことを忘れないようにしましょう。
祈り
「天の父なる神様。
安息日の二つの出来事を通して、イエス様が教えられたことについて深く思い巡らすことができました。
イエス様は私たちのいのちを救うためにおいでになったことをもう一度覚えます。その意味を、私たちの人生や教会の歩みに深く当てはめるために、知恵を与え、また遜った心を与えてください。
私たちをあなたのいのちと喜びで満たしてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」